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エメラルドグリーンの誘惑  作者: 氷室ユリ
第六章 揺るがない心
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愛も盲目

 気怠い微睡みからユイを目覚めさせたのは、柔らかなエメラルドグリーンの眼差しだった。


「…ん、ラウル。あれ、帰ってたの…?」

 まだぼんやりとしながら、ユイは頭を撫でてくるその人物に安らぎを覚える。

「何だか…少し太った?ニューヨークのジャンクフード食べ過ぎたんじゃないの」


「ユイ」その人物が聞き慣れた名を口にする。

「ねえ…声も何だか変よ?」


 そして次に聞こえたのは元気いっぱいの声だ。

「ユイ!オレだよ、ヴァシルだよ!いつまで寝てるの?もうお昼になるよ」

「えっ!ヴァシル?…ヤダ、完全に騙された」

「ヤダなぁ、別に騙してないよ。ユイが勝手に勘違いしたんでしょ」


 ようやく目が覚めたユイ。起き上がって苦笑する。

――この子、まだ小学生よね?いくら何でも間違える訳ないと思ってたのに…――


 ベッドの隣りには誰もいない。

「あれ?シャーバンは?」

「シャーバンなら部屋にいるよ。何で?」

「だって昨夜…」


 ユイが一緒に寝た事を口にしかけた時、パタパタと慌てて廊下を走る音が聞こえて来て言葉が止まる。


「ユイっ!」焦りの表情で、濃いブロンドの少年が飛び込んで来た。

「あらシャーバン。体は大丈夫?まだあんまり走ったりしない方がいいわよ」

「起きたんだね、ユイ」シャーバンが言う。

「ええ。起こしてくれれば良かったのに。寝坊しちゃったじゃない?」


 シャーバンに向かってこんな事を言うユイが不思議で、ヴァシルはすぐに頭の中を覗く。

――ふう~ん。シャーバンのヤツ、昨夜ユイと一緒に寝たのか…。珍しいな――

 理由はすぐに判明し、シャーバンに目を向ける。


 心を読まれた事を察したシャーバンは、仁王立ちする兄に懇願を始めた。

「ヴァシ兄、お願い!ラドゥには黙ってて!ね?いいだろ?一生のお願いっ」


「シャーバンったら、一生は大袈裟じゃない?で、何を黙ってるの?」

 心の会話が分かっていないユイは首を傾げる。

 それには答えず、ヴァシルがシャーバンに言う。「まーまー。そういう時もあるって。昨日はお前も頑張ったしな、許す!」

「ねえ、だから何の話?」


 またも答えずヴァシルが言う。「そんでもって、ユイも頑張ったし!寝坊してもいいんじゃない?」

「でもヴァシル、そう言いながら起こしに来てるじゃない」

「だ~って、もうお昼だし?大丈夫かなって思って」

「それって心配してくれたの?ありがとっ!」そう言ってユイはヴァシルに抱きついた。

 そして立ち竦むもう一人の息子に手を伸ばす。

「シャーバンも来て」


 呼ばれたシャーバンは笑顔になって二人に抱きついた。


「ところでラドゥは?」

 ユイの問いにヴァシルが答える。「ダイニングにいる」

「もうランチ始めてるの?まだ早くない?」

「ずーっとお腹空いたって騒いでてさ。うるさいから先に食べさせた」

「朝ご飯は?」

「食べたよ。10時頃だけどね。実はオレ達も寝坊したんだ」

「いいのよ。昨夜遅かったんだから。今日が学校お休みの日で良かったわ」


 支度をするからと子供達を部屋から出して、ユイは一人になる。


「あ~あ。こんなに寝てたの久しぶり…。なのにまだ疲れが取れてないみたい。年を感じるわ!」

 重怠さはしつこく残っている。大きく深呼吸をしてから立ち上がった。


「…っ!何?胸が痛い」鋭い痛みが左胸に走り、動きを止める。

 だがそれはほんの一瞬で、すぐに何も感じなくなった。


 昨夜のヘリの中でも、同じ事が起きていた。「目聡く察したダンには驚いたけど」

 あの時はとっさに誤魔化したが、こうも頻発するとは予想外だ。

「今の何だったの?きっと寝すぎなのよ!」

 不安を吹き飛ばすようにそう言ってドレッサーに向かう。



 手早く着替え、身支度を済ませてダイニングに足を運ぶと、そこには子供達3人が並んで座っていた。


――こうして黙って座ってると、皆素晴らしく品があるわ。さすがはラウルの息子ね…。うふふっ――


 ユイが入口に立ってニヤケているところに、給仕担当の使用人がやって来る。

「ユイ様。お食事されますよね、すぐにご用意いたします」

「あ、私は朝の分でいいわ。軽く食べたいから」

「でも、昨夜から何も召し上がられてませんし…」

「あ…ほら!寝起きだから食欲なくて?」

「さようですか。かしこまりました」


 定位置の席に着き、改めてユイは思う。

――一人も欠ける事無く、こうしてまた食事ができて良かった。早くラウル、帰って来ないかなぁ――


 こんな思考は当然ヴァシルに読まれている。

「ユイ、そんなにダーに会いたいの?さっきもオレの事ダーと間違えてたし~」

「え~そうなの?ユイ!」正直者のラドゥが驚きの声を上げる。

「っ!…また読んだわね?ええ、会いたいわよ。あなたは会いたくないの?」

「会いたいよ。でもユイがいるし?別に平気!」


――え…その程度?知ったらラウルが悲しむわ!――


 ラウルは子供達とふざけ合ったりもしない。遊び相手は主にユイである。

 どこまでも真面目で感情表現も乏しいラウルは、困った時の駆け込み寺的存在だ。

 それはつまり、大いなる信頼を勝ち得ているとも言えるのだが、子供達が日常側にいてほしいのはユイなのだ。


・・・


 ラウルがニューヨークから帰国したその日、シャーバンはヴァシルの後ろに隠れて出迎えた。


「ラウル!お帰りなさい、会いたかったわ…っ」

「ユイ。色々とさせてしまって済まなかったな」

「ううん、全然」

 何年経ってもアツアツな二人は、きつく抱き合った後に一通りお互いの存在を確認し合って、ようやく体を離した。


――子供達を差し置いて、私が一番にラウルに抱きついたのはマズかった?…でも別にいいよね?私が一番会いたがってたのは皆知ってるし。ねえヴァシル!――

 思考を読まれているのは分かっていたので、ユイはわざとこう問いかけた。


 ラウルも黙って様子を見ていた子供達の方に目を向ける。

 その目はシャーバンの所で一旦留まったが、再び3人の息子を順に見てから、おもむろに口を開いた。

「まずはシャーバン、おいで。きちんとこの目でお前の無事を確認させてくれ」


 父に真っ先に呼ばれた事で、シャーバンはユイの言い分が間違いではなかったと知る。

――ダーはちゃんと心配してくれてた!聞く必要もないや――


「ダー!お帰り!」シャーバンはラウルの胸に飛び込んだ。

「ああ、ただいま。ケガは大丈夫か?」ラウルがその顔を覗き込む。

「うん、もう全然平気」

 そう言って笑うシャーバンの頭から肩、腕、体へと手を添わせて行くラウル。

――どこもケガはなさそうだ。良かった…――

「済まなかった、私のせいで危険な目に遭わせた」


「いいんだよ、勝手に遊びに行ったオレも悪いし」

 ここでユイが口を挟む。「その件については私も悪いの。考えが甘かったわ」

「二人とも、やめてくれ。全ては私の立場のせいなのだ」

 ユイとシャーバンを同時に抱きしめてラウルは言った。

「これからは必ず護衛を同行させるようにするわ」


――ようやく分かっていただけたようだ。何より何より!――

 後方に控えるダンが一番に安堵した。


「そうしてくれ。だがお前達は束縛されている訳ではない。気にせず行きたいところへ行けばいい。そこへ警護が付くだけなのだから。お前達は自由だ」

――その付いて来られるのがヤダって言ってるんだけど?分かってないな、ダー…――

 そんなシャーバンの気持ちは、心を読まずともユイには分かる。だがここは心を鬼にしなければならない。

――ゴメンね、シャーバン、ラドゥ…――


「二人もおいで、父にハグをさせてくれ」

 ヴァシルとラドゥを呼び、ラウルは3人纏めて抱きしめた。


「私の愛する息子達。無事で本当に良かった…守ってやれなくて済まなかった」

「ユイとダンが助けに来てくれたから大丈夫だよ」シャーバンが改めて言う。

「ああ。私の妻と側近は本当に頼りになる」

「ユイがヘリ飛ばせるなんて!ボク大興奮しちゃったよ!」

 ラドゥが興奮冷めやらぬ様子で言えば、それを肘で小突きながらヴァシルが茶化す。

「ずっと食ってたクセに良く言うよ、ラドゥ!」


 この指摘に、ラウルが改めてラドゥを見下ろす。

「そう言えばラドゥ、少し太ったか?」

 ブルーグリーンの瞳をキラキラさせながら笑うラドゥ。これがダメ出しとは思いもしない。

 そこへヴァシルが横槍を入れた。「ダーは変わってないね!ジャンクフードは美味しくなかったの?」


「は?何の事だ」意味が分からず首を傾げるラウル。

「良かったね、ユイ!」

「こらヴァシルっ!余計な事は言わなくていいの!」

 たちまちその場は笑いに包まれる。


 一人取り残された感のあるラウルは目を瞬くばかりだ。

――私はジャンクフードは食さない。そもそも一週間でどう変わると?――


「ラウル様、不在中の報告をしたいのですが」

 親子の感動的再会シーンを見物していたダン。恐縮しながらの耳打ちであったが、この判断は正しかった。母子の会話の意味をひたすら考えていたラウルは、このどうでもいい考察に終止符を打つ事ができた。

「分かった。書斎で待っていてくれ」

「はっ」

 短く返事をしてダンは姿を消した。


 そして子供達は3人仲良く外に遊びに行って、ユイとラウルだけが残された。

 辺りは一気に静かになる。


「ユイ、着替えを手伝ってほしい。一緒に寝室へ」

「ええ、分かったわ」


 ユイの腰に手を当てて促し、ラウルが後に続く。


 心なしか後ろからの圧を感じて、ユイはさり気なく声をかける。

「ラウル」

「ん?」

「何か焦ってない?今からはしないからね?」

――考えてる事なんて、お見通しよ!――

 このコールド・リーディングは、ユイ的にはかなり自信ありだ。

「何を?」ラウルはとぼける。

「もうっ…分かってて言ってるでしょ」


 もちろんユイの主張が何を意味するかは分かっている。

――おまえを抱きたいという思いが、そんなに態度に出ていたか…――

 こう反省しつつ答えるラウル。

「フフ!そのつもりはない。ダンを待たせると面倒だからな」

「それは言えてる!」


 寝室にはすでにラウルのキャリーバッグが先に運ばれてあった。


「さあ、じゃあ着替えを…」

 そこまで言ってユイの唇は塞がれた。「ちょっ!…んっ」

「ユイ、今回おまえがいてくれて本当に良かった。子供達を守ってくれて感謝する…愛している」

「ラウルっ」

 熱いキスが止まない。

 言い返したいのにさせてもらえず、ユイは諦めてそれに応じた。


 しばらく続けて気が済んだラウルは、ユイの体をやや離す。

「しないって言ったのに!」

「キスしないとは言っていない」

「屁理屈っ!子供達の屁理屈はあなたに似たのね」

「今頃気づいたのか?」ラウルが笑った。


 その笑顔があまりに魅力的で、ユイはたちまち蕩けた。恐るべき愛の力である。

――もうダメ…私の方が我慢できなくなっちゃったじゃない――


「ねえ?ちょっとなら…ダンの事待たせてもいいんじゃない?」

「しないのではなかったのか?」

「だって…ラウルのせいよ?あんなキスするから…」

 ユイの甘い声がラウルの意欲を掻き立てる。

――計算通りだ。…ふふっ、我ながら完璧な誘導だな。一週間も我慢したのだ、こっちはもう限界だ――


 こうして二人はしばし真昼間の情事に耽った。



 その頃ダンは、一人書斎で悶々としていた。

「遅い、遅すぎます、ラウル様!」


 だがしかし、寝室に乗り込むような事はしない。ラウルの行動は手に取るように分かる。今や気持ちも分かるようになった。

 それは、この男にも愛する妻と子ができたから。

「ああ、俺も早く家に帰りた…いやいや!何を言ってるんだ、俺は?ラウル様がご帰還されたというのに、それを差し置いて帰りたいなどと…っ、あり得ん!」

 ダンにとってラウルは、愛する妻子とは別格の比べようもない存在だ。


 書斎にラウルがやって来たのは、それから1時間が経過した後だった。


「待たせたな」

「いえ。こちらこそ、帰国早々お疲れのところ申し訳ございません」

「気にするな。今しがた精気を補充して来たから絶好調だ」

「さようで…」


――相変わらずそっちの方もお元気だな!それでこそフォルディス家の男、か…。俺はその域には到達しそうにない――

 ダンは変わらぬラウルの溌剌とした様子に畏敬の念を抱く。


「どうかしたか?」

「いえ!最初に、報告が遅れておりました例の組織の件ですが、先日ようやく末端の始末が完了しました」

「そうか。ご苦労だった」

「時間がかかってしまい申し訳ございませんでした」

「いや。ああいった連中は裾野が広い。見つけ出すのも手を焼いただろう」


 これはシャーバンを誘拐した組織の件である。あの手の寄せ集め集団は、どこから新たなリーダーが生まれるか分からないだけに、根こそぎ一掃する必要がある。

 志を一つにする集団というのは恐ろしいのだ。


「今回はお前にも助けられた。礼を言う」

「いいえ!自分はほとんど何も…ユイ様がいなければ、あのようなスピード解決には至らなかったと思います」

「ああ…」ラウルが不意に口を閉ざす。

「ラウル様?どうかされましたか」


「私の不在中、ユイに何か気になる様子などはなかったか」

「気になる様子、でございますか…、あ」

「あるのか?」ダンを真っ直ぐに見つめて問うラウル。

 その真剣すぎる眼差しに、ダンは息をのむ。

――ああラウル様…このまま時が止まればいい…――


 無言のままのダンに、容赦ない催促の声が掛かる。「おい」

「はい!失礼しました。私の思い過ごしだと思うのですが、一つ」

「何だ。思い過ごしでもいいから言え」

「はい。例のシャーバン様救出の帰りの機内で、ユイ様が左胸を押さえられて、一瞬苦しそうにされていたように見えたのです」


――左胸…心臓か?やはり一度検査を受けさせるべきか――

 ずっと心にあったこの心配事。無理をさせたくない理由はここにある。

「本人は何と?」

「ケロリとしたいつものお顔で、何でもないと」

「そうか」

――目に浮かぶ!だがそれに惑わされてはいけない――


「それと疲れたお顔をされている事が増えた気がします。食欲もあまりないようですし」

「一つではないではないか」

「ああっ、申し訳ございません!そうですね…」

「本人の意向はいい。病院の手配をしろ。明日の午後、ユイに検査を受けさせる」

「かしこまりました」


――疲れた顔、か…。言われてみれば先程の情事の際も、心なしかそんな様子が見られたか――

 自分の欲を満たす事に集中しすぎて、そこまで気を回せなかった。

 ラウルは欲に溺れた自分を大いに悔やんだ。


 常に冷静で計算高いこの男も、愛には盲目になってしまうようだ。


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