愛も盲目
気怠い微睡みからユイを目覚めさせたのは、柔らかなエメラルドグリーンの眼差しだった。
「…ん、ラウル。あれ、帰ってたの…?」
まだぼんやりとしながら、ユイは頭を撫でてくるその人物に安らぎを覚える。
「何だか…少し太った?ニューヨークのジャンクフード食べ過ぎたんじゃないの」
「ユイ」その人物が聞き慣れた名を口にする。
「ねえ…声も何だか変よ?」
そして次に聞こえたのは元気いっぱいの声だ。
「ユイ!オレだよ、ヴァシルだよ!いつまで寝てるの?もうお昼になるよ」
「えっ!ヴァシル?…ヤダ、完全に騙された」
「ヤダなぁ、別に騙してないよ。ユイが勝手に勘違いしたんでしょ」
ようやく目が覚めたユイ。起き上がって苦笑する。
――この子、まだ小学生よね?いくら何でも間違える訳ないと思ってたのに…――
ベッドの隣りには誰もいない。
「あれ?シャーバンは?」
「シャーバンなら部屋にいるよ。何で?」
「だって昨夜…」
ユイが一緒に寝た事を口にしかけた時、パタパタと慌てて廊下を走る音が聞こえて来て言葉が止まる。
「ユイっ!」焦りの表情で、濃いブロンドの少年が飛び込んで来た。
「あらシャーバン。体は大丈夫?まだあんまり走ったりしない方がいいわよ」
「起きたんだね、ユイ」シャーバンが言う。
「ええ。起こしてくれれば良かったのに。寝坊しちゃったじゃない?」
シャーバンに向かってこんな事を言うユイが不思議で、ヴァシルはすぐに頭の中を覗く。
――ふう~ん。シャーバンのヤツ、昨夜ユイと一緒に寝たのか…。珍しいな――
理由はすぐに判明し、シャーバンに目を向ける。
心を読まれた事を察したシャーバンは、仁王立ちする兄に懇願を始めた。
「ヴァシ兄、お願い!ラドゥには黙ってて!ね?いいだろ?一生のお願いっ」
「シャーバンったら、一生は大袈裟じゃない?で、何を黙ってるの?」
心の会話が分かっていないユイは首を傾げる。
それには答えず、ヴァシルがシャーバンに言う。「まーまー。そういう時もあるって。昨日はお前も頑張ったしな、許す!」
「ねえ、だから何の話?」
またも答えずヴァシルが言う。「そんでもって、ユイも頑張ったし!寝坊してもいいんじゃない?」
「でもヴァシル、そう言いながら起こしに来てるじゃない」
「だ~って、もうお昼だし?大丈夫かなって思って」
「それって心配してくれたの?ありがとっ!」そう言ってユイはヴァシルに抱きついた。
そして立ち竦むもう一人の息子に手を伸ばす。
「シャーバンも来て」
呼ばれたシャーバンは笑顔になって二人に抱きついた。
「ところでラドゥは?」
ユイの問いにヴァシルが答える。「ダイニングにいる」
「もうランチ始めてるの?まだ早くない?」
「ずーっとお腹空いたって騒いでてさ。うるさいから先に食べさせた」
「朝ご飯は?」
「食べたよ。10時頃だけどね。実はオレ達も寝坊したんだ」
「いいのよ。昨夜遅かったんだから。今日が学校お休みの日で良かったわ」
支度をするからと子供達を部屋から出して、ユイは一人になる。
「あ~あ。こんなに寝てたの久しぶり…。なのにまだ疲れが取れてないみたい。年を感じるわ!」
重怠さはしつこく残っている。大きく深呼吸をしてから立ち上がった。
「…っ!何?胸が痛い」鋭い痛みが左胸に走り、動きを止める。
だがそれはほんの一瞬で、すぐに何も感じなくなった。
昨夜のヘリの中でも、同じ事が起きていた。「目聡く察したダンには驚いたけど」
あの時はとっさに誤魔化したが、こうも頻発するとは予想外だ。
「今の何だったの?きっと寝すぎなのよ!」
不安を吹き飛ばすようにそう言ってドレッサーに向かう。
手早く着替え、身支度を済ませてダイニングに足を運ぶと、そこには子供達3人が並んで座っていた。
――こうして黙って座ってると、皆素晴らしく品があるわ。さすがはラウルの息子ね…。うふふっ――
ユイが入口に立ってニヤケているところに、給仕担当の使用人がやって来る。
「ユイ様。お食事されますよね、すぐにご用意いたします」
「あ、私は朝の分でいいわ。軽く食べたいから」
「でも、昨夜から何も召し上がられてませんし…」
「あ…ほら!寝起きだから食欲なくて?」
「さようですか。かしこまりました」
定位置の席に着き、改めてユイは思う。
――一人も欠ける事無く、こうしてまた食事ができて良かった。早くラウル、帰って来ないかなぁ――
こんな思考は当然ヴァシルに読まれている。
「ユイ、そんなにダーに会いたいの?さっきもオレの事ダーと間違えてたし~」
「え~そうなの?ユイ!」正直者のラドゥが驚きの声を上げる。
「っ!…また読んだわね?ええ、会いたいわよ。あなたは会いたくないの?」
「会いたいよ。でもユイがいるし?別に平気!」
――え…その程度?知ったらラウルが悲しむわ!――
ラウルは子供達とふざけ合ったりもしない。遊び相手は主にユイである。
どこまでも真面目で感情表現も乏しいラウルは、困った時の駆け込み寺的存在だ。
それはつまり、大いなる信頼を勝ち得ているとも言えるのだが、子供達が日常側にいてほしいのはユイなのだ。
・・・
ラウルがニューヨークから帰国したその日、シャーバンはヴァシルの後ろに隠れて出迎えた。
「ラウル!お帰りなさい、会いたかったわ…っ」
「ユイ。色々とさせてしまって済まなかったな」
「ううん、全然」
何年経ってもアツアツな二人は、きつく抱き合った後に一通りお互いの存在を確認し合って、ようやく体を離した。
――子供達を差し置いて、私が一番にラウルに抱きついたのはマズかった?…でも別にいいよね?私が一番会いたがってたのは皆知ってるし。ねえヴァシル!――
思考を読まれているのは分かっていたので、ユイはわざとこう問いかけた。
ラウルも黙って様子を見ていた子供達の方に目を向ける。
その目はシャーバンの所で一旦留まったが、再び3人の息子を順に見てから、おもむろに口を開いた。
「まずはシャーバン、おいで。きちんとこの目でお前の無事を確認させてくれ」
父に真っ先に呼ばれた事で、シャーバンはユイの言い分が間違いではなかったと知る。
――ダーはちゃんと心配してくれてた!聞く必要もないや――
「ダー!お帰り!」シャーバンはラウルの胸に飛び込んだ。
「ああ、ただいま。ケガは大丈夫か?」ラウルがその顔を覗き込む。
「うん、もう全然平気」
そう言って笑うシャーバンの頭から肩、腕、体へと手を添わせて行くラウル。
――どこもケガはなさそうだ。良かった…――
「済まなかった、私のせいで危険な目に遭わせた」
「いいんだよ、勝手に遊びに行ったオレも悪いし」
ここでユイが口を挟む。「その件については私も悪いの。考えが甘かったわ」
「二人とも、やめてくれ。全ては私の立場のせいなのだ」
ユイとシャーバンを同時に抱きしめてラウルは言った。
「これからは必ず護衛を同行させるようにするわ」
――ようやく分かっていただけたようだ。何より何より!――
後方に控えるダンが一番に安堵した。
「そうしてくれ。だがお前達は束縛されている訳ではない。気にせず行きたいところへ行けばいい。そこへ警護が付くだけなのだから。お前達は自由だ」
――その付いて来られるのがヤダって言ってるんだけど?分かってないな、ダー…――
そんなシャーバンの気持ちは、心を読まずともユイには分かる。だがここは心を鬼にしなければならない。
――ゴメンね、シャーバン、ラドゥ…――
「二人もおいで、父にハグをさせてくれ」
ヴァシルとラドゥを呼び、ラウルは3人纏めて抱きしめた。
「私の愛する息子達。無事で本当に良かった…守ってやれなくて済まなかった」
「ユイとダンが助けに来てくれたから大丈夫だよ」シャーバンが改めて言う。
「ああ。私の妻と側近は本当に頼りになる」
「ユイがヘリ飛ばせるなんて!ボク大興奮しちゃったよ!」
ラドゥが興奮冷めやらぬ様子で言えば、それを肘で小突きながらヴァシルが茶化す。
「ずっと食ってたクセに良く言うよ、ラドゥ!」
この指摘に、ラウルが改めてラドゥを見下ろす。
「そう言えばラドゥ、少し太ったか?」
ブルーグリーンの瞳をキラキラさせながら笑うラドゥ。これがダメ出しとは思いもしない。
そこへヴァシルが横槍を入れた。「ダーは変わってないね!ジャンクフードは美味しくなかったの?」
「は?何の事だ」意味が分からず首を傾げるラウル。
「良かったね、ユイ!」
「こらヴァシルっ!余計な事は言わなくていいの!」
たちまちその場は笑いに包まれる。
一人取り残された感のあるラウルは目を瞬くばかりだ。
――私はジャンクフードは食さない。そもそも一週間でどう変わると?――
「ラウル様、不在中の報告をしたいのですが」
親子の感動的再会シーンを見物していたダン。恐縮しながらの耳打ちであったが、この判断は正しかった。母子の会話の意味をひたすら考えていたラウルは、このどうでもいい考察に終止符を打つ事ができた。
「分かった。書斎で待っていてくれ」
「はっ」
短く返事をしてダンは姿を消した。
そして子供達は3人仲良く外に遊びに行って、ユイとラウルだけが残された。
辺りは一気に静かになる。
「ユイ、着替えを手伝ってほしい。一緒に寝室へ」
「ええ、分かったわ」
ユイの腰に手を当てて促し、ラウルが後に続く。
心なしか後ろからの圧を感じて、ユイはさり気なく声をかける。
「ラウル」
「ん?」
「何か焦ってない?今からはしないからね?」
――考えてる事なんて、お見通しよ!――
このコールド・リーディングは、ユイ的にはかなり自信ありだ。
「何を?」ラウルはとぼける。
「もうっ…分かってて言ってるでしょ」
もちろんユイの主張が何を意味するかは分かっている。
――おまえを抱きたいという思いが、そんなに態度に出ていたか…――
こう反省しつつ答えるラウル。
「フフ!そのつもりはない。ダンを待たせると面倒だからな」
「それは言えてる!」
寝室にはすでにラウルのキャリーバッグが先に運ばれてあった。
「さあ、じゃあ着替えを…」
そこまで言ってユイの唇は塞がれた。「ちょっ!…んっ」
「ユイ、今回おまえがいてくれて本当に良かった。子供達を守ってくれて感謝する…愛している」
「ラウルっ」
熱いキスが止まない。
言い返したいのにさせてもらえず、ユイは諦めてそれに応じた。
しばらく続けて気が済んだラウルは、ユイの体をやや離す。
「しないって言ったのに!」
「キスしないとは言っていない」
「屁理屈っ!子供達の屁理屈はあなたに似たのね」
「今頃気づいたのか?」ラウルが笑った。
その笑顔があまりに魅力的で、ユイはたちまち蕩けた。恐るべき愛の力である。
――もうダメ…私の方が我慢できなくなっちゃったじゃない――
「ねえ?ちょっとなら…ダンの事待たせてもいいんじゃない?」
「しないのではなかったのか?」
「だって…ラウルのせいよ?あんなキスするから…」
ユイの甘い声がラウルの意欲を掻き立てる。
――計算通りだ。…ふふっ、我ながら完璧な誘導だな。一週間も我慢したのだ、こっちはもう限界だ――
こうして二人はしばし真昼間の情事に耽った。
その頃ダンは、一人書斎で悶々としていた。
「遅い、遅すぎます、ラウル様!」
だがしかし、寝室に乗り込むような事はしない。ラウルの行動は手に取るように分かる。今や気持ちも分かるようになった。
それは、この男にも愛する妻と子ができたから。
「ああ、俺も早く家に帰りた…いやいや!何を言ってるんだ、俺は?ラウル様がご帰還されたというのに、それを差し置いて帰りたいなどと…っ、あり得ん!」
ダンにとってラウルは、愛する妻子とは別格の比べようもない存在だ。
書斎にラウルがやって来たのは、それから1時間が経過した後だった。
「待たせたな」
「いえ。こちらこそ、帰国早々お疲れのところ申し訳ございません」
「気にするな。今しがた精気を補充して来たから絶好調だ」
「さようで…」
――相変わらずそっちの方もお元気だな!それでこそフォルディス家の男、か…。俺はその域には到達しそうにない――
ダンは変わらぬラウルの溌剌とした様子に畏敬の念を抱く。
「どうかしたか?」
「いえ!最初に、報告が遅れておりました例の組織の件ですが、先日ようやく末端の始末が完了しました」
「そうか。ご苦労だった」
「時間がかかってしまい申し訳ございませんでした」
「いや。ああいった連中は裾野が広い。見つけ出すのも手を焼いただろう」
これはシャーバンを誘拐した組織の件である。あの手の寄せ集め集団は、どこから新たなリーダーが生まれるか分からないだけに、根こそぎ一掃する必要がある。
志を一つにする集団というのは恐ろしいのだ。
「今回はお前にも助けられた。礼を言う」
「いいえ!自分はほとんど何も…ユイ様がいなければ、あのようなスピード解決には至らなかったと思います」
「ああ…」ラウルが不意に口を閉ざす。
「ラウル様?どうかされましたか」
「私の不在中、ユイに何か気になる様子などはなかったか」
「気になる様子、でございますか…、あ」
「あるのか?」ダンを真っ直ぐに見つめて問うラウル。
その真剣すぎる眼差しに、ダンは息をのむ。
――ああラウル様…このまま時が止まればいい…――
無言のままのダンに、容赦ない催促の声が掛かる。「おい」
「はい!失礼しました。私の思い過ごしだと思うのですが、一つ」
「何だ。思い過ごしでもいいから言え」
「はい。例のシャーバン様救出の帰りの機内で、ユイ様が左胸を押さえられて、一瞬苦しそうにされていたように見えたのです」
――左胸…心臓か?やはり一度検査を受けさせるべきか――
ずっと心にあったこの心配事。無理をさせたくない理由はここにある。
「本人は何と?」
「ケロリとしたいつものお顔で、何でもないと」
「そうか」
――目に浮かぶ!だがそれに惑わされてはいけない――
「それと疲れたお顔をされている事が増えた気がします。食欲もあまりないようですし」
「一つではないではないか」
「ああっ、申し訳ございません!そうですね…」
「本人の意向はいい。病院の手配をしろ。明日の午後、ユイに検査を受けさせる」
「かしこまりました」
――疲れた顔、か…。言われてみれば先程の情事の際も、心なしかそんな様子が見られたか――
自分の欲を満たす事に集中しすぎて、そこまで気を回せなかった。
ラウルは欲に溺れた自分を大いに悔やんだ。
常に冷静で計算高いこの男も、愛には盲目になってしまうようだ。




