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エメラルドグリーンの誘惑  作者: 氷室ユリ
第五章 築き上げる覚悟
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小さなわだかまり(1)

 ヴァシルも3歳を迎えた。ユイが主に使う英語と、母国語のルーマニア語の二言語をすでにマスターしつつある秀才だ。


「やった~、ダドゥ、マム、ダンと、3人でお出かけだ~!」

「ヴァシル、ちょっと待って、帽子被って行って!」


 ここルーマニアは冬は寒く夏は暑い。ちょうど良い気候の今は、外出に最適だ。


「陽気もいいし、特に今日はお出かけ日和ですね」

「ダン、無理に付き合ってくれなくてもいいのよ?奥さん、妊娠中でしょ」

「幸い、つわりも軽く付き添い人もいるので問題ありません。お気遣いいただき恐縮です、ユイ様」

「相変わらず堅苦しい人っ!」

 何と言われてもダンのこの態度は変わる事はない。


 待望の第一子を身籠った元メイドは、ダンと共に現在フォルディス家の敷地内の別邸にて何不自由なく暮らしている。

 ダンは今も変わらずフォルディス家に勤務し、元メイドは専業主婦となった。


「支度はできたか?」カジュアルな服装で現れたラウルが愛する妻子に尋ねる。

「ええ」

 答えたユイに近づくラウル。「ユイ、少し顔色が良くない…。大丈夫か?」

「そう?別に普通よ。行きましょ!」


 ユイはここのところあまり元気がない。慣れない子育ては何かと疲労が溜まるだろうと思いながらも、やはり気にかかる。


 そんな父の心境など知る由もなく、子供は元気いっぱいだ。

「ダドゥ!早く行こうよ~、ほらほら~っ」

「ああ、分かったから…そう急ぐな」

 元気な息子に引っ張られて、ラウルは考えるのをやめた。



 屋敷を出ると、長閑な草原が見渡す限り続いている。フォルディス家の敷地は驚くほど広い。


 しばらく車を走らせて、見晴らしのいい丘に出る。

「この辺でいいか」

「いいんじゃない?」

「そこで止めろ。本当はもっと遠出したいところだが…」


 ラウルの気がかりはやはりユイの体調だ。

 だが面と向かっては告げない。逆にユイが気にしてしまう事を知っているからだ。

――例え病気になっても、病人と呼ばれる事を嫌がるのだろう!――


 本当はそろそろ一度病院に行かせたい。ユイがミサコの心配する心臓の病に侵されている可能性を排除するために。

 どう切り出すべきか、ラウルは悩んでいた。


「ラウル?どうかした?」

「何でもない、ヴァシルがもうあんなに遠くにいる。追い駆けよう」

「ホントだ、何て足の速い子…っ」

「おまえにそっくりだな」

「そういえば、前にあなたに言われた事あるわね、ユイは足が速そうだって…」

 当時を思い起こして笑うユイ。そしてダンは遅そうだと笑い合った。


 振り返れば、荷物を山に抱えたダンがのそりのそりと重い足取りで近づいて来る。


 ユイの要望により、護衛達は車の付近で待機させている。

「全く。いくらユイ様の指示とて、誰一人手伝おうともしない!せめて荷物運びの後に待機しろと命じてほしかった…」

 ダンは一人ブツクサ言いながら歩みを進めていた。


「ふふっ…楽しいなぁ、こんな日が来るなんて思ってなかった。さあラウル、どっちが早いか競争よ!」

「待てユイ、そんなに急に走るな!」


 久しぶりに全力疾走したユイは、追い付いたヴァシルに抱きつく。

「マム~、苦しい~」

「ゴメンゴメン!駆けっこ早いね、ヴァシルは」

「えへへ~っ!ダドゥは?」

 後ろを振り返ると、ラウルとの距離はたちまち開いている。息を切らしたラウルは優雅に歩いていた。


「競争って言ったのに!体力落ちたんじゃない?ラウル!」

 二人の元に辿り着いたラウルが答える。「勘弁してくれ、私はお前達よりも大分年が上なのだぞ?」

「あら。でもダンよりは若いじゃない」

 ね~!と笑い合う妻と子を眺めて、ラウルもまた幸せに浸る。

――こんな日がずっと続けばいい…――


「ああ、やっと追いついた!どこまで行かれるのですか?ダンはもう限界ですぞっ」

 ようやく追いついたダンが嘆いている。

「気合足りないんだよ、ダン!ね~マム?」

 こんなコメントが飛び出してしまうのは、常日頃ユイが口にするからだ。

「そ~そ~、その通り。安心して、今度特別メニューでしごいてあ・げ・るっ」

「ユイ様ぁ、勘弁してください、こんなに頑張っているのにっ!何の罰ゲームですか」


 楽し気な笑い声が、風に乗ってどこまでも流れて行く。


 ラウルとヴァシルのグリーンの瞳が、緑の草原を映してより濃い色を帯びている。

 二つの淡い金の髪は、風に揺れてサラサラ鳴る若草よりも軽やかになびく。

 その対面でユイが笑っている。腰辺りまで伸びたブラウンの緩ウェーブが揺れる。


――ああ…とても絵になる光景ではないか。記念に一枚撮っておこう――

 ダンは一人離れてカメラを向ける。そしてこの家族団欒を見守った。


「ねえダン!もっとこっちに来なさいよ!ダンの子が生まれたら、今度は皆で来ましょうね」

 ユイの誘いを受けて、少しだけ近づいたダンが激しく首を振る。

「そんな恐れ多い!私達はご一緒できません!」

――こんな神々しい方々と一緒になど、滅相もない!――

「何が恐ろしいって言うのよ。ねえラウル?」


 ラウルは何も言わずにダンを見ている。

 無言のラウルに恐れをなしたダンが俯く。


「ユイ様、お願いですからそんなお誘いはしないでいただきたく…」

「何でよ。大勢の方が楽しいじゃない」

「ユイの言う通りだ。機会があればそうしろ、ダン」

「え…ラウル様、よろしいのですか?」

「そう言っている」

「有り難きお言葉!ああ、何と申し上げればっ」


 大人達のこんな訳の分からない会話に飽きたヴァシルは、いつのまにか離れた場所で一人で遊んでいる。


「あの子だって、遊び相手欲しいでしょうし…」

「ああ…さようですな」

 心の葛藤が消えた途端、ダンは新たな使命に燃える。

――これはどうあっても、ヴァシル様のお相手ができる賢い子に育てねば!――


 そして一頻り遊んで、ランチタイムとなる。


「本当は私が作りたかったんだけど」

「え~、マム料理なんてできるの!」

「失礼ね、私だってやればできるのよ?」

「必要ない。家には専属のコックがいる」

「ま、その方が確実だわね…。ラウルはお母様の手料理とか食べた事ないの?」

「ない」

「そっか…」


 こんなところも一般家庭とは異なる。それを思い出してユイは小さく息を吐き出す。


「ほらヴァシル、野菜も食べなさい。美味しいわよ?」

「マムだって食べてないよ?」

「まだお腹空いてないのよ。あなたはあれだけ走り回ってペコペコでしょ」

「うん!」


 二人のやり取りを黙って聞いていたラウル。やはりユイの様子が気にかかる。

――どこか具合が悪いのか?切り出しても良いものか――


 こんな考えはエスパー・ヴァシルに筒抜けだ。「マム、具合悪いの?」

「どうして?そんな事ないわよ」

「だってダドゥが」

「ラウルが何よ…」そちらに疑惑の目を向けるユイ。

――また余計な事を考えてたのね?んもう…――


 わざと首を傾げて見せるラウルだが、誤魔化しは効かず。ユイの目が見開かれたが、いつもの勢いがない。

「ちょっとラウ、ル…」

 言いかけたが言葉は続かず、そのままラウルの方に倒れ込む。

「ユイ、どうした!」驚いたラウルはとっさにユイの体を支える。

「マム!」


 倒れ込んだままのユイは、呼びかけても反応がない。


 ラウルはその体をそっと起こして胸に抱き様子を見る。

――いつの間にか、顔色がこんなに悪くなっている――

 無意識にラウルの手がユイの心臓に当てられた。


「ユイ、病院に行こう。ダン、ここまで車を回せ」

「は、直ちに!」

「ダドゥ…マムは?大丈夫なの?ねえっ!」

「大丈夫だ。一緒にユイの側に付いていてくれ、ヴァシル」

「もちろんだよ!僕なんでもする、マムを助けるためなら!」

「ありがとう、ヴァシル」

 小さくも頼もしき息子に、ラウルは心から感謝した。



 すぐに向かった病院にて、第二子の妊娠が発覚した。


「ただの貧血だった。ユイ、ずっと無理をしていたのだろう?」

「そんなつもりはなかったんだけど…」

「私は心臓の病を疑った」

「ラウル…心配かけてごめんなさい」

「いや。そちらの方も異常はなかった。これで安心した」


 こんな事態のお陰で、ラウルの不安は払拭された。

 その上ユイの二度目の懐妊。思わぬ朗報だ。


「ユイの体に負担を掛けているのは、むしろ私かもしれないな」

「ラウル、それってもしかして夜の事?」

 申し訳なさそうに肩を竦めるラウルに、ユイは微笑む。

「ふふっ、ラウルのそんな顔、きっと見られるのは私だけね」

「それは…どんな顔だ?」


「内緒っ!大好きよ、ラウル。気にしないで。ずっと我慢してくれてた分、答えてあげたいの。だから気にしないで?」


「ねーねー、何かするの?僕も手伝おうか?」

 息子の存在を思い出し、二人は目を丸くした。

「ヴァシル、お前はもう時期兄になるのだ」

「あに?なにそれ」


「新しい家族が出来るって事よ」


・・・


 ユイの腹の中の子は着々と成長を続ける。

 今回はつわりに加え、貧血が事のほか酷い。ユイは今日もベッドに横になったまま、ほぼ一日が終わった。


「ヴァシルの時はこんなに貧血にならなかったのに」

「きっと元気の良い子なのだろう。もっと食べて栄養を摂らないと」

「気持ち悪くて無理っ!」

 ユイの頭を優しく撫でていたラウルだが、振り払われて困り顔になる。


「ユイ、あまり酷い時は入院し…」

「イヤっ!」

 弱々しい声を出していたユイが突如鋭い一声を放ち、呆気なくラウルの声は打ち消される。


 思わず身構えるラウル。それは超能力が発揮される事を想定しての事だ。

 だが、辺りを見回すも何も変化は見られない。

――…何も壊れる気配はない、か――


「…ゴメン」

「なぜ謝る?おまえは何もしていない。…まだ、と言うべきか」

「変よね。前はもうとっくにエスパーになってた」

「ああ…」

――つまり今回の子には能力がないという事か?――


 当初はヴァシル以上に元気な子かもしれないと思われていたが、その謎はすぐに解き明かされた。



『双子?!凄いじゃない、ユイ!』

「お母さん、声デカいって…」

 ユイは今、第二子妊娠をミサコに電話で報告している。


『身近に双子がいないから、何だか新鮮ね~!凄い楽しみっ』

「お気楽でいいわねっ、こっちは大変なんだから。いろんな事が二倍になって襲って来てるカンジで!」

『だから手伝いに行くって言ってるのに。断ってるのはそっちじゃない?』

 どこかムッとした様子で返され、ユイは黙り込む。


『ユイの事責めても仕方ないわね。ゴメンゴメン。フォルディス様が嫌がってるんでしょ?旦那様の意思は絶対だもの。いいのよ、でもユイ、無理はしないようにね』


――ああお母さん、それもちょっと違うんだけど…――

 本当の事を話せないのは何とも心苦しい。

 そして母の優しさが身に沁みる。


「ありがとう…お母さん」

『ちょっと何?あなた泣いてるの?情緒も不安定みたいねぇ』

「泣いてないもんっ。じゃ、もう切るね!」

 ユイは一方的に電話を終わらせた。そして大きく鼻を啜る。


「変なの。私何で泣いてるの?」


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