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エメラルドグリーンの誘惑  作者: 氷室ユリ
第三章 試される絆
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ある男の葛藤(1)

 イタリア・シチリア島に滞在中のユイと新堂には、少々の変化が現れていた。


 フォルディスというしがらみから解放された新堂は、本格的にオペがしたくてウズウズし始めているし、ユイに至っては日本語はイマイチ進展がないものの、時折多国語が飛び出すようになったのだ。


「ミ、キャーモ」

「あらユイ。自己紹介?今度こそ自分の名前言ってみて。ほら、ユ、イって」

「サ、ヴァ!」

「え?何て?」

 この日もユイは絶好調。ミサコに突然問いかけて、そこからリハビリが始まる。

「フランス語ですね、大丈夫ですという意味かと」

「何が大丈夫なの、ユイ!ちゃんと言いなさい!」

「まあまあミサコさん、言わせておきましょう。きっと意味は分かっていません」


「パカー」

 一言口にしてユイが部屋を出て行った。


「バカにされた訳じゃないわよね…今のは分かる?」

「ロシア語ですね。またね、って感じですか」新堂がミサコに説明する。

 絶妙に言い分が当てはまってしまう言葉だけに、二人は首を傾げた。



 この平穏な毎日は、新堂により苦痛を与え始める。ここへ来て以来ユイが殺し屋の顔になる事はなく、また発作のような事も起こっていないからだ。


 それはつまりこういう事である。

「少しくらいなら、離れててもいいんじゃないか?なあユイ」

 新堂がユイにこんな問いかけをした。

――いい加減オペをさせろ!高望みはしない。まずは手慣らし程度でいい――


 声を受けて振り返ったユイは満面の笑みで返す。

「せんせえ。ボン・ボヤージュ!」

「おい、それって行ってもいいって事か?」

 ユイはフランス語で良い旅を、と言ったのだ。


 こんなやり取りを経て、この日ついに新堂はミサコに切り出した。


「そろそろ一度、日本に戻ろうかと思っているんですが…」

「まあ先生!それはもちろん、ユイも連れて行ってもらえるのよね?」

「え?ええと…」

 目的が仕事である以上、ユイがいれば障害になるのは間違いない。

――やっぱり見逃してはもらえないよな…。日本は言い過ぎだったか――

 発言を若干後悔しつつ補足する。

「ほら、滞在のビザももうすぐ切れますし。一度帰国をと思っただけですよ」


「それならユイもじゃない」

「そう、でしたね…」

「ここへ来た時みたいに、また環境を変えればユイが何か思い出すかもしれないわ」

「ですが、日本に行けば日本語中心になる。今のユイにはむしろ海外の方がいいのかもしれませんよ?」

「いいえ。新堂先生の所がいいんです!ねっ、ユイ」


 最後にはこう押し切られる。強引さはユイよりも遥か上だ。

――まあ、治安から言っても日本が最適か。環境の変化がもたらした実績もある。ここに残して行くのも心配だしな――

 下手に海外に連れて行って面倒に巻き込まれても敵わない!と新堂は強く思う。


 こう自分を納得させて、二人での帰国を決意した。



 やがて帰国に向けて、一通りの荷物も纏め終えた。


「なあユイ。ここにいたいなら、いてもいいんだぞ?」

「ノンノン。せんせえ、ゴー!」

「レッツ・ゴーってか…おまえ、この間は良い旅をって言っただろ」

「ホワ?」

「…何でもない。はいはい、仰せのままに!」


 そして出発の日を迎える。


 あれこれ荷物を確認し終えたミサコが、今度はユイに向かって注文をつけまくる。

「いい?ユイ。ちゃんと先生の言う事聞くのよ?ああ…やっぱり心配だわ!私も付いて行こうかしら」

 さすがのユイも煩わしく感じたのだろうか。こんな一言が飛び出した。

「おかあさん、ラ、ズメッタ!」

「まあ!ユイったら。何なの?んもうっ!」

「ミサコさん、今ユイは何と?」


「ストップ・イット!ですって。まあ、向こうに私の住む場所もないし?私まで先生の所に転がり込む訳に行かないものね」

 短いため息の後、ミサコは最後にユイの耳元で、二人のお邪魔をしたら悪いし?と悪戯っぽく囁いた。

 ユイはくすぐったさに身を捩っている。


「何ですか?二人でコソコソと」

「いいえ!では先生、娘の事、よろしくお願いします。いつでもまた来てちょうだいね。あ、あと住所教えてね、必要な物があったら送るから」

「ありがとうございます。行って参ります」


 こうして笑顔でミサコと別れ、ユイは思わぬ形で数年ぶりの帰国となった。


「取りあえず俺のマンションでいいよな。あそこも長らく帰ってないな」

「トレ、ビヤン!」

 無邪気なユイを横目に、新堂が苦笑する。

「笑顔って、それだけで心を軽くするな。フォルディスはさぞつらかっただろうよ」


 一時期のユイは全てにおいて無だった。感情も表情も何もかも。その中で、笑顔を絶やさず側に居続けたラウルを思う新堂。

 かつての恋敵にさえ同情する。冷酷なようでいて心根は優しい男なのだ。


「全く罪な女だよ、おまえってヤツは!」

「ヤー、ダス、シュティムト」

「ん?何だって?今のは何語だ」

「ビッテ、シェーン」

「ビッテって言うとドイツ語か…分からん、俺の知ってる言語で話せ!」


 ユイは、はいそうです、どういたしまして、と言っていた。


・・・


 新堂のマンションは、二人で住んでも申し分のない広さではあったが、当然ベッドは一つしかない。


 夜になり、寝る場所の事でこんな言い合いとなる。

「一通り持ち運べる日用品は持って来たが、家具類はどうしようもない。おまえがベッドを使え」

「せんせえ、そいね」

「は?添い寝?いやまさかな…きっと日本語じゃないんだ。何語だ?それは」

「…いや?」ユイが新堂の袖を掴んで上目遣いに訴えてくる。


 そのまま見つめ合う二人。


「いやって…。俺はいいが、いいのか?って何本気にしてるんだ、俺は!」

 一瞬そんなシーンを想像してしまった新堂は、慌てて首を横に振る。

「フォルディスさんとこのベッドみたいにデカくないから、二人は無理だ。いいからおまえがそこで寝ろ、分かったな!」


 一人でまくし立てて寝室の扉を閉めてしまった。

「はあ…。何を翻弄されてるんだ…やって行けるのか、こんなんで?」


 せっかく解放されたというのに、二人きりになったというのに、新堂はユイに手を出そうとしない。すでに母親公認の仲なのだから、何をしても問題ないのにである。

――無理やりものにするなんて論外だ。ユイに心から求められない限りは…――

 これが新堂の言い分だ。律義すぎるこの性格が仇となっていた。


 それに加え、ラウルの無償の愛を間近で見て来た新堂は、あんなふうに愛せる自信がないのだ。生き甲斐である仕事さえも放棄して、自分の全てを投げ打って人生を捧げる自信が。

「オペがしたくてウズウズしている時点で、俺には不可能と言わざるを得ないだろ?」

 現に少し前まで、ユイを置き去りにしてオペの依頼を受けようとしていたくらいだ。


「フォルディスには敵わないよ…」

 一人、こう自嘲気味に呟くのだった。



 そんな新堂の心の葛藤など知る由もなく、ユイは久しぶりの日本を満喫…しているかは不明だが、こちらでもそれなりに平穏に暮らしている。


 ユイが落ち着いている今では、依頼先の病院に連れて行き、オペの間だけ誰かに預ける形で仕事を受けたりもするようになった。お陰で新堂の欲求不満も、少しではあるが解消しつつある。


「済みません、何も問題はなかったですか?」


 オペを終えた新堂が、小児病棟に入院する子供達と戯れていたユイの元へ戻る。

 今日は子供達の遊び相手にとユイを提供する傍ら、ついでに見てもらっていたという訳だ。

 楽しそうに子供達と輪になってクルクルと回っているユイ。もうどちらが遊んでもらっているのか分からない状態である。


「新堂先生!ユイさん、すっかり大人気ですよ。皆はしゃいじゃって大変です」

「それは済みません…、ユイ!また回ってるのか?」

「待って先生っ、もう少しだけ子供達を遊ばせていただけませんか?」

 足を踏み入れようとした新堂は、ナースに引き止められる。

「ほらあの子、あんなに笑うの、本当に久しぶりなんです…ユイさんのお陰です、私嬉しくってっ…」

 ナースは泣き始めてしまった。


「そうでしたか。そういう事なら構いませんよ、私の方の用事は済みましたので。時間は十分あります」

 新堂はナースの背にそっと手を当てて微笑むと、隣りに腰を下ろした。


「ユイさん…事故の後遺症で、脳に障害を抱えていらっしゃるんですよね」

「はい。もう時期1年になります。ああして笑えるようになったのは、つい最近なんです」

「大変でしたね。先生の恋人なんでしょう?」

「ええと…どうでしょうか」肯定せずに肩を竦めた新堂。


 その顔を不思議そうに覗き込んだナースだが、ふと思い至る。

「記憶障害も、あるんですね。ごめんなさい、余計な事を聞いてしまって…」

「いいえ、そういう事ではなく。彼女には別にいたんですよ、婚約者が」

「まあ、そうでしたか…」


「こうして引き取りはしましたが、どうしても自分が彼のようにあいつを愛せる気がしなくて…ああ済みません、こんな話を!」

 思わず本音を語ってしまった新堂が我に返って断りを入れるも、ナースは満面の笑みで言った。

「ユイさんが羨ましい。こんなに想ってくれる人が二人もいるなんて?」

「ユイが、羨ましい?」

「はい。私、思うんです。神様は全ての人に、幸せと不幸を均一になるように与えているんだって」


 神や仏を信じていない新堂は、聞き役に徹する事にした。幸い意見を求められる事もなくナースは勝手に語り続ける。

「事故に遭ったユイさんは不幸だし、婚約者がいながらもそれを支えて来た新堂先生も、きっとつらかったと思います。でもその分、ユイさんは二倍の愛をもらって、先生は今、ユイさんの存在に癒されて、幸せを感じているのでしょう?」


「なるほど…」

 相槌を打った新堂だが、決していい加減に放った言葉ではない。本当にそう感じたのだ。

――俺もユイも今は幸せ、か…。だがそうするとフォルディスはどうなんだ?――


 複雑な気持ちで病院を後にした。



「コマン、タレ、ブー?」不意にユイが問いかけてくる。

「ご機嫌いかがって?トレビヤン、メルスィ」

「ハラショー!」

「フランス語にロシア語…。おまえには日本語の方が難しいのかもな」


 日本に来た意味はないかもしれない。そう考え始めた新堂に、それを決定付ける出来事が起こる。


 ユイが熱を出したのだ。しばらく在宅で様子を見ていたのだが、熱は下がるどころか上がり続ける。

「もう限界だ。ユイ、病院に行くぞ。この間の遊んでもらった病院ならいいだろ?」

 すっかりユイが遊んでもらった事になっている。

 おどけてこんな事を言う新堂だが、高熱にうなされ続けるユイを見る目は真剣そのものだった。



 病院にてすぐに検査を行うも、発熱の原因は不明。入院の手配を済ませ、出来得る限りの処置を施したものの、一週間過ぎても熱は下がらない。


「高熱が続けばまた脳障害が起き兼ねない。早急に解熱させなければ…!」


 こんな焦りの中で目を付けた、なけなしの薬剤が効き目を発揮したのか、ユイの熱はようやく下がった。


 だが、今度はいつになっても目覚める気配がない。

「おいユイ、いつまで眠ってるつもりだ?いい加減目を覚ませ。そんなにこの病院が気に入ったのか!」

――すっかりこの病院に居ついてしまったじゃないか――


 新堂が心で嘆いた時、例の小児科担当のナースが様子を見にやって来た。

「どうですか、ユイさん」

「相変わらず眠っていますよ。困ったものです…」

「そうですか…」

 二人でユイの寝顔を見下ろしながら会話する。

「環境も変わって、こいつなりに無理をしていたんだろう。本人が訴えられないのは痛いですね…」

「子供達もそうです。自分で言えない分、私達が気づいてあげないといけません」


 新堂から返事が来なかった事で、自分の失言に気づくナース。

「あっ、ごめんなさい!ユイさんを子供だって言ってる訳じゃ…」

「お構いなく。事実ですから!私が気づいてやれなかったのがいけないんです」

「えっ、先生のせいじゃないですよ!…きっと大丈夫、この後に絶対いい事が起きますから。ね?」ナースは力強く言い切る。


 そんな強気でプラス思考な姿勢は、どこかユイと重なる。

 気づけば何の根拠もない希望的観測に、新堂は抵抗もなく頷いていた。

「…そうですね。そう信じましょう」


――そうだ。朝霧ユイは強い。ただでは起きない!――


 ナースの一押しのお陰で吹っ切れた新堂。病院に留まる必要はないと判断し、マンションに連れて帰る事にした。


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