目覚めた性分
ラウルが仕事そっちのけでユイに付きっ切りとなり、すでにふた月が経過した。
「もう限界だっ、ラウル様に決裁をいただきたい案件がこんなに…溜めすぎだろう、さすがに?」ついに根を上げたダン。
怒り狂うラウルが目に浮かび、それだけで縮こまってしまう。
だがしかし。ラウルの邪魔は死んでもしたくない。
――何事にも一直線のラウル様は、あれこれ同時に手を付けるような浮気者ではない。それを知るからこそ、声を掛けられないっ…――
ユイの後遺症が一刻も早く回復する事を願うばかりだ。それ以外にラウルが仕事復帰を果たす道はない。
ここでダンは新堂のある言葉を思い出す。
「そうだ、甘い愛では目覚めない、別の刺激だ!」
早速ラウルの元に向かう。扉越しに声を掛けるダン。
「ラウル様、少しよろしいでしょうか」
「緊急の要件以外は受け付けないと言ってあるが、緊急なのか?」
「いえ…その、業務の事ではなく、ユイ様の事でご提案がございまして」
返事はなかったがドアが開いた。開けた人間はいない。ラウルとユイは窓際のソファに座ったままだ。
「失礼します」
平静を装って入室したダンだが、もちろん心中は穏やかではない。
――かなり久方ぶりにまともにお話ができる!ああラウル様…少しお疲れのように見える。しかし相変わらずの神々しさ!眩しい、眩しすぎるっ――
ぼんやりするダンに、ラウルは透かさず言い放つ。「早く要件を言え」
「は!その後、ユイ様は何か思い出されましたか?」
「いや。進展はあまりない。…そうだ、お前は日本語ができたな」
「はあ。それが?」思わぬ指摘にダンは首を傾げる。
「ユイに日本語で問いかけてほしい」
「分かりました。何と問えばよろしいですか?」
あの日の考えを実行に移すべく、ラウルは密かに日本語の勉強を始めたのだが、語り掛けても何も反応が返って来ないため、通じているのか判別できない。
そこでダンを見て、手っ取り早く確認する事を思いついたのだ。
――この手があったな――
「おまえの望むものは何だ、何をして欲しい、と」
「は、かしこまりました」
ダンはそれを日本語に訳してユイに問いかける。
突如目の前に現れたダンに一旦は意識を向けたユイだが、すぐに興味を失ったらしく、窓から見える空に視線を移してしまった。
「っ、おいユイ・アサギリ!聞いてるんだが?無視するな!」
そっぽを向かれた事に腹を立てたダンが、日本語で声を荒げるも振り返りもしない。
「ダン。…もういい」
「はっ…お役に立てず、申し訳ございません…」
「いや、気にするな」
――やはり日本語だから、という理由ではなかったか――
すぐに結論が出た。
――ムダに勉強せずに済んで喜ぶべきか――
「それで、お前の要件は?」
「あ、はい!これまでユイ様がされていた日常を再現するのはどうかと思いまして」
「日常を再現?」
「習慣付いた事は覚えていらっしゃるのですよね?部下達の鍛錬風景や射撃の訓練などを目にされたら、何か思い出されるかもしれません」
ラウルの眉間にシワが寄ったのをダンは見逃さない。
「これは出すぎた事を!私が思いつく事など、ラウル様はすでにお考えですよね!今のはなかった事に…」
「ダメなのだ」
「もう試されたのですね…」
――当たり前だろう、ああ、俺は何と間の抜けた提案を!時間を戻したいっ――
ダンが猛省し始めた時、ラウルはため息をついて語った。
「そうではない。ユイは銃やナイフを目にすると危険なのだ」
「はい?」
「元々ユイ・アサギリは殺し屋。そちらの顔が現れる気配を感じた」
「何と…。ですが、それもユイ様なのでは?そこをきっかけに別の事も思い出すかもしれませんし」
ラウルしばし考え込む。思考を邪魔してはいけないとダンは沈黙を保つ。
すると突然ユイが振り返り、二人の前を素通りする。
「ユイ様?どうかされたのですか」
「トイレだろう」
「ああ…さようで」
だがユイは廊下に続くドアを開けた。
「…どうやら違うようですぞ」
「ユイ、どこへ行く?まだ紅茶が残っている」
後をついて二人も部屋を出た。ユイはそのまま一直線に地下へ進んで行く。
「もしやトレーニングルームへ?」
「お前の話を聞いていたのだろうが…これはユイの意思と取っていいのか…」
「そうですよラウル様!進展アリじゃないですか!」
――いいぞユイ様!このまま一気に思い出して、早くラウル様を返してくれ!――
地下の廊下を進むと、ガラス越しにマシンの並ぶ部屋が見えて来た。数人がトレーニング中だ。
その前で立ち止まりぼんやりと中の様子を見つめた後、ユイは再び歩みを進める。
その先にあるのは、マットが敷かれただけの広い部屋。ユイが部下達を毎日のようにしごいていた場所だ。
ダンが率先して扉を開けるも、中には誰もいない。
「ああ残念、なぜこういう時に誰も使っていないのだ!」
――もしやあいつ等め、俺もユイ様も不在とあって、トレーニングをサボっているのではあるまいな?――
その誰もいない空間に、スタスタとユイが入って行く。
履いていた靴を脱ぎ捨ててマットの上に立ち、体を揺らし始めた。クリーム色のニットワンピースの裾が一緒に揺れている。
「あれは何をしているのだ?」不思議そうにラウルが問う。
「さあ…準備運動のつもりなのかもしれません」
「一度見学したいと思っていたのだが、できず仕舞いだった。ユイはここではどんな事を?」
「はい!そりゃあもう、手加減なしで部下達をしごいていましたよ。あの細腕のどこにそんな力が?というような…」
ラウルはある事を閃き、ユイからダンに視線を移した。
「試しにお前がそこに立て」顎でマットを指し示す。
「…え?」
「早くしろ。ユイの気が変わらないうちに」
「そっ、それは私にユイ様の相手をしろと?ご容赦ください!まだ今日の分の仕事が山のように…」
――まだ再起不能になるには日が高すぎる!せめて夜にっ――
ラウルはそれ以上何も言わず、無言で圧を掛け続ける。
観念したダンは覚悟を決めて靴を脱ぎ、靴下のままマットの上を歩いて行く。
そしてふと考える。
――…いや待てよ。今のユイ様は本調子ではない。以前のようにボコボコにされるとも限らないではないか?――
ダンは急にやる気になる。「これは俺が手加減しないとならんか!」
これまでこんなセリフは言えた試しがない。嬉しくなって笑顔が零れる。
ダンの笑みはなかなか見られない貴重なものだ。
それを見ていたラウルはこう思う。
――あの男があんな顔をするほど、ユイとのトレーニングは楽しいのか…。私も是非一度受けてみたい――
「ジャケットくらいは脱いでやる、か…あ?」
ダンがジャケットから片腕を抜いた時、不意にユイの姿が消えた。小柄なためダンの懐に入り込んで見えなくなったのだ。
次の瞬間、巨体は宙を舞っていた。ダンは一瞬にして投げ飛ばされた。
「おいっ、ユイ・アサギリ!今のは卑怯だぞ?フライングっていうんだ、そういうの!」
マジになって反論したものの、その後に訪れた沈黙にダンは青ざめる。
――しまった…つい本音が!いつもなら言い合いが始まるところだが…――
ユイの無反応ぶりに若干の寂しさを感じつつ、呆気に取られているラウルに恐る恐る目を向ける。
「…ラウル様」
「いつもこのような感じなのか」
「はい!変わらぬ技のキレ、少々意表を突かれましたが…ユイ様は健在です!」
「確かに…」
――動きが見えなかった。こんな機敏な動きができるとは…。だが無理は禁物だ――
まだやり足りないと言わんばかりのユイに、ラウルが手を差し出す。
自分も投げられる可能性もあるが、その警戒心は微塵もない。そんな事にはならないとの確信があるのだ。
「さあユイ、もう部屋に戻ろう。疲れを溜めてはいけない」
ラウルに殺気を感じなかったユイは素直に手を取った。つまり先程のダンには殺気が感じられたという事。実はそれだけの違いだ。
この先の突き当たりに射撃場があるが、そこには寄らずに地下を後にした。
この日から、常に緩慢だったユイの動きに少しだけ機敏さが現れ始めた。
「表情は変わらずないが、いい兆候ですよ。ユイさんらしさを取り戻す事が重要です」
庭で無意味にクルクルと回り続けているユイの姿を遠巻きに見ながら新堂が言う。
「お前の言うユイらしさ、とは?」
「そうですね…。少なくとも、動かずじっと座っている姿は似合わない。ああして体を動かしている方が、彼女らしいと思いますよ」
「…ああ」
こんな光景を眺めていたのはラウルと新堂だけではなかった。
「おお、見ろ、ユイ様が踊っていらっしゃる!何と美しい舞いだ…。動画取っちゃおう」
スマホを取り出してこっそり撮影を始めた一人に続き、次々と同じ事をし始める。
「押すなよ、ブレるだろうが!」
「お前こそそこ邪魔だ、もっとずれろ!」
「だけど、元気そうで何よりだな」
「…で、ボスはいつになったら仕事に戻るんだ?」
「さあ…」
部下達さえもフォルディス家の事業があまり上手く行っていない事に気づくくらい、業績が傾いていた。
「ダンも強がってないで、いい加減ボスに言うべきだよな」
「せめてボスに、一度だけでも会合に顔を出してもらえればいいんだからさぁ」
「それってアレか、死亡説」
ユイの世話で2か月近くも公の場に姿を見せていないラウルに、そんな噂が立っても不思議はない。これを期にフォルディス家を潰そうとする連中が現れるのは、もはや時間の問題か。
「まさか本当にこのまま引退されるなんて事は…」
一人がこんな事を口にした時、後ろから恐ろしい低音が響いて、全員の鼓膜だけでなく足元をも震わせた。
「死亡だの引退だのと縁起でもない!今度そんな事を言ってみろ、二度と口を利けないようにしてやる」
「ダンっ、またいきなり現れた!瞬間移動でもできるんじゃないのか、お前!」
「残念ながらできん」
――一番欲しい能力だ。それがあればいつでもラウル様の元に参上できるのに!――
クモの子を散らすように退散した部下達に目もくれず、ダンは未だクルクルと踊り続けるユイを見つめる。
「ラウル様ご不在の今、自分がこのような体たらくでどうする?ファミリー存続の危機を招くなど…そんな事は許さん、許さんぞぉ!」
力不足の自分に嫌気が差し、怒りが噴き上がる。
その怒りのパワーに反応したのか、ユイがピタリと動きを止めこちらを凝視している。
それに気づかず、ダンは背を向けて怒りに打ち震え続けた。
一方ラウルサイドでは、突然回るのをやめたユイを見て新堂が反応する。
「おお。ようやくやめたか。まるでゼンマイが切れた人形みたいだな!…っと失礼」
新堂は気にしたが、こんな事でラウルは怒らない。そんな心の狭い男ではない。むしろ感心しているくらいだ。
――新堂、なかなか的確な表現をするではないか――
その後間もなく、ラウルだけがユイの放つ異様な気を感じ取った。背を向けているため顔は見えない。
動きを止めたのはターゲットを捉えたからと察し、ユイの視線の先を予測して同じ方に目を向ける。
――また殺し屋の顔になっているのだとすれば、止めねば…――
「ユイ。こっちに来て休め。…ユイ!」
急に声に力を籠めたラウルを、新堂は不思議に思う。
ユイは振り返りもしない。その左手が腰の辺りに伸びた。その仕草は明らかに銃を抜く動きだ。
だが新堂には分かるはずもなく、気の抜けたセリフを吐く。
「回り過ぎて腰でも痛めたか?」
「違う、…ああ、向こうにいるのはダンだな。あいつならば自分で対処するだろう」
――またムダな殺気を立てるからこうなるのだ!あの単細胞バカめ――
ユイの標的になっている人物が特定できると、ラウルはほっと息を吐き出した。
拳銃を持っていなくとも、朝霧ユイは十分殺せる力を持っている。
――標的がダンと私以外だったなら、阻止しに向かわねば死人が出る――
「ダンさんがどうしました?ダンさんが腰を痛めているんですか?」
「…だから、違う」
さらなる的外れなコメントにラウルが頭を抱えた。
「フォルディスさんもお疲れのようですね」
「疲れてはいない。呆れているだけだ」
「呆れましたよね~私もですよ!よくもまあ長時間クルクルと回っていられたものだ」
――勝手にしろ――
説明の必要もないと判断し、ラウルはユイだけに意識を向ける。
やがて前方の標的が動き出したようだ。
「新堂。お前はもう部屋へ戻れ」
「そうですね。フォルディスさんもそろそろユイと休んでください」
「ああ、庭をもう一回りしたらそうする」
――このひと仕事を終えてからだ――
会話の最中にもユイは移動を始めている。その隙の無い動き方は、まるで以前のユイが戻ったようにも見える。
――今、後ろから抱きしめたら、私をどうする?…投げ飛ばされるだろうな――
確実にそうなる予感がして、欲求を押し留める賢いラウル。
今や小走りになったユイの後を早歩きで追う。リーチの差が小走りと早歩きの違いだ。
「あの頃が戻ったようだ。もう少しこのユイを見ていたい…後ろ姿なのが残念だが」
ラウルは完全に傍観者を決め込む。
一方ダンは何も知らず裏庭に向かう。裏は主に住人用の駐車スペースになっており、ダンは私用車のドアに手を掛けるところだった。
「っ!殺気、何ヤツ?!」
取っ手から手を離し、すぐさま懐から拳銃を抜いて構える。ここでようやくユイの放つ殺気に気づいた。
その直後、ユイに体当たりされたダンは、構えた拳銃をどうする事もできず固まる。この時すでにユイは投げ技の体勢に入っていた。
「うおお~っ!!」
ドスン、と地響きがして、ダンは仰向けに投げ飛ばされた。
「…お前も学習しないな。そもそも緊張感がなさすぎる自覚はあるか?」
「ラウル様まで?!これは一体…うがぁっ、や、やめろ!」
倒れ込んだダンに馬乗りになって、ユイが首を絞めていた。その的確な絞め方にラウルは感心する。
「確かに。細腕にその力があるとは思えない、だな」
「ぐっ…、参った、参りましたユイ様っ、ご容赦を!ぐおぉっ…」
地面を叩いて降参を猛アピールするも、ユイは一向に力を緩める気配がない。次第にダンの顔色が青黒くなって行く。
――この大男が身動きもできないとは!ここまでとは驚いた…と、眺めている場合ではなさそうだ――
「ユイ、手を離せ、もう気は済んだだろう?」
ラウルがユイの肩に手を置く。ビクッと反応してユイが固まった。まるでゼンマイが切れたように。
ダンが激しく咳き込んでいる。「ユイ様、冗談が過ぎますっ、ゴホゴホ…!」
「冗談などではない。お前が性懲りもなく殺気を放つからユイが反応してしまったのだ。殺されなかっただけマシと思え」
事実を知り驚愕の表情となるダン。
――お、お、俺は何てバカなんだ!ウオーっ!――
思い返せば、ダンにとって心穏やかでない日々が続いているのは事実だ。
それはユイがラウルと出会って以来ずっと続いている事ではある。それでも、ここまでコントロールできない事はなかった。
心休まる時間を奪われたダンは、身も心もボロボロなのだ。
本人も意図せず涙が零れ落ちる。巨体のスキンヘッド男の涙はある意味見ものだ。
今ユイが正気だったなら、間違いなく冷やかしていた事だろう。
「男の涙は見苦しいぞ、ダン。ユイも困っている」
「ラウル様…、自分に構わず、どうぞお部屋へお戻りを。こんな見苦しい物は見せられません」
しおらしいダンはいつも通りだが、なぜかラウルは心が騒いだ。
――それほどに悔しかったか。これを教訓に鍛錬を積む事だ。そうして成長するのだ。…これ以上デカくなられても困るが!――
「ユイ、行こう」
何事もなかったように、ユイは大人しく差し出されたラウルの手を握って立ち上がった。
――ダンが気を抜いていた事もあるが、あのまま止めなければ本当に殺していた。やはりユイを一人にはできない――
ラウルは増々ユイから離れられなくなってしまったのだった。




