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黒百合の仮面  作者: 翡翠


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第一話「転生した暗殺者は、今日も完璧に微笑む」

 朝の光は、いつも少し遅れてやってくる。


 ノワール公爵家の東棟、最上階の角部屋。カーテンの隙間から差し込む細い光が、漆黒の髪の上に落ちた瞬間、ヴィオレット・ド・ノワールはすでに目を覚ましていた。


 正確には、覚ましていた、という表現は正しくない。


 眠っていなかったのだ。


 厳密に言えば、眠ってはいた。ただし一般的な意味での「眠り」ではない。意識の七割を覚醒させたまま、残りの三割だけを休ませる、前世で身につけた暗殺者の眠り方だ。完全に意識を手放すことなど、十数年とうの昔にやめた。


 深く眠る者は、深く眠ったまま死ぬ。


 それが前世の鉄則だった。


 今世では、その必要はないのかもしれない。しかし十数年分の習慣とは、転生という荒療治でも抜けきらないものらしかった。


(やれやれ)


 ヴィオレットは静かにベッドから起き上がり、窓の外に視線を向けた。夜明けの庭が、青白い光の中に広がっている。よく手入れされた生垣、季節の花々、そして――


 庭師が一人、早朝の作業を始めていた。


 ヴィオレットは三秒、その背中を見た。


 歩幅。重心。視線の向き。


(庭師だ。本物の)


 判断に三秒かかったことが、今朝の自分への評価だった。昨日は二秒だったから、一秒の劣化である。紅茶の砂糖が一つ増えたせいかもしれない、と根拠のないことを考えながら、ヴィオレットは鏡台の前に座った。


 鏡の中に、一人の少女が映っている。


 漆黒の瞳。漆黒の髪。白磁の肌に、薄く引かれた唇。まだ寝起きであるにもかかわらず、その姿には乱れというものが存在しなかった。ヴィオレットが「乱れた姿」を鏡で見たことは、この十六年間、ただの一度もない。


 鏡の中の少女は、表情がなかった。


 正確には、あった。ただそれは、人間の顔に貼り付けられた「無表情」という仮面であって、感情の欠如ではない。仮面の下に何があるかは、鏡を見ても自分でもよくわからなかった。


(さて)


 ヴィオレットは小さく息を吸い、鏡の中の自分に微笑みかけた。


 完璧な微笑みだった。貴族画の令嬢が額縁から抜け出したような、気品と柔らかさを兼ね備えた微笑み。何年かけて磨いたものでもなく、意識するものでもなく、もはや呼吸と同じ次元で出てくる仮面の一部だった。


(今日も、よくできました)


 前世の自分が今の自分を見たら、何と言うだろうか。


 おそらく何も言わない。前世の自分は必要なこと以外を口にしない人間だった。ただ一言だけ言うとすれば、おそらくこうだ。


(随分と、楽な仕事をしているな)


 そうかもしれない、とヴィオレットは思う。


 殺さなくていい。追われなくていい。名前がある。家族がいる。温かい食事が三食出てくる。眠れる場所がある。


 前世では、そのどれもが贅沢だった。


 今世では、そのどれもが当然として与えられていた。


 問題は。


(この「当然」が、どうにも居心地が悪い)


 ヴィオレットが鏡台から立ち上がったとき、扉が三回、丁寧にノックされた。


---


「お嬢様、起床のお時間です」


 扉の向こうから、声がした。落ち着いた、低い声。しかしわずかに、どこかほぐれたような響きがある。


「入りなさい、ミア」


 扉を開けて入ってきたのは、褐色の肌に金色の瞳を持つ少女だった。年齢はヴィオレットより一つ下、十五歳。公爵令嬢の戦闘メイドという肩書きを持つその身体は、しかし今この瞬間、盛大に眠そうな顔をしていた。


 目の下にうっすらと隈がある。髪の結い方が昨日より雑だ。右の手袋が微妙に裏返っている。


「ミア」


「はい、お嬢様」


「手袋」


 ミアは一瞬固まり、自分の右手を見て、音もなく猛烈に動揺した顔をした。貴族令嬢のメイドとしてあってはならない失態だと、彼女自身が一番わかっているのだろう。


「も、申し訳ございません、ただいま」


「よろしい。昨夜は遅かったの?」


「……お兄ちゃんに稽古をつけてもらっていたら日付が変わって……」


「カインに言っておきます。加減しなさいと」


「それはやめてください!お兄ちゃんに心配かけたくないので!」


 ヴィオレットは何も言わず、ミアを見た。


 ミアはすぐに気づいた。主人の「今の発言は矛盾していますよ」という無言の視線に、この一年で慣れていたから。


「……はい、善処します」


「よろしい」


 ヴィオレットは再び鏡台に向かい、ミアが髪を整え始めるのに任せながら、窓の外の庭を見た。先ほどの庭師はまだ作業を続けている。別の使用人が二人、厨房の勝手口から出てきた。


 全員、今朝はじめて確認した顔だ。全員、問題なし。


(日課)


 今日も屋敷に異常はない。


---


 公爵家の食堂には、すでに父が座っていた。


 エドワール・ド・ノワール。ノワール公爵家の現当主。黒髪に白いものが混じり始めた四十八歳は、今朝も変わらず新聞を読みながら、コーヒーを飲んでいた。娘が入室したことに気づいて顔を上げる。その目元が、娘と同じ形をしていた。


「おはよう、ヴィオレット」


「おはようございます、お父様」


 ヴィオレットは完璧な所作で椅子を引き、腰を下ろした。ミアが茶器を準備する間、父は新聞に視線を戻していた。この朝の静けさが、公爵家の日常だった。


 しばらくして、廊下の方から軽快な足音が近づいてきた。


「おはようございます!ヴィオレット、今日の髪素敵ね!エドワール様も今日はお顔の色がよくてよかったわ!ミアちゃん、手袋ちゃんとしてる?」


 イザベル・ド・ノワール公爵夫人が食堂に入ってくるだけで、室温が二度上がる気がした。


「おはようございます、お母様」


「お母様、その帽子は今日の御召し物には少し」


「あら、そう?じゃあ青い方にしようかしら、ねえヴィオレット、青と緑どちらが」


「青でしょう」


「やっぱりそうよね!さすがヴィオレット!」


 母は満足そうに頷いて着席した。父が新聞越しに妻を見て、小さく目を細めた。ヴィオレットは紅茶に砂糖を一つ落とした。


 一つ、だ。今朝は一つにしようと、鏡台の前で決めた。


 理由は特にない。


(……嘘だ)


 昨夜、父と書斎で紅茶を飲んだ時、砂糖の数を数えられていたことに気づいたからだ。父は何も言わなかった。しかしあの目は、確実に数えていた。


 世界最高の暗殺者が、父親に砂糖の数を観察されている。


(笑えない)


 ヴィオレットは完璧に優雅な所作で紅茶を口に運んだ。


---


 馬車は定刻に出た。


 御者台にカインが座り、馬車の中にヴィオレットとミアが乗る。王立貴族学園まで、公爵家の屋敷から馬車で約二十分。ヴィオレットにとってその時間は、一日の中で唯一、完全に仮面を外せる時間だった。


 正確には外せない。ミアがいるから。


 しかしミアは、仮面の外し方を知っている数少ない人間の一人だったから、まあいい。


「お嬢様」


「なに」


「今日、剣術の授業ありますよね」


「ありますね」


「手加減してくださいね」


「いつもしています」


「先月、先生が腕を押さえながら保健室に行ったんですが」


「あれは先生が転んだのです」


「お嬢様が受け流した瞬間に?」


「偶然の一致です」


 ミアは何か言いたそうな顔をしたが、主人の微笑みを見てやめた。正しい判断だとヴィオレットは思う。


 馬車の窓から外を見た。王都の朝が、通勤する人々で動き始めている。パン屋の親父が店を開け、花売りの少女が籠を抱えて走り、貴族の馬車が石畳を蹄の音で叩いていく。


 平和だ、とヴィオレットは思う。


 前世では知らなかった景色だった。


(三百年の腐敗の上に咲いた、平和という花か)


 根が腐っていても、花は咲く。


 花が美しければ、根の腐臭には気づかない。


 気づく者だけが、息の詰まる思いをする。


 馬車が速度を落とした。学園の正門が見えてきたのだ。石造りの門柱、鉄の門扉、その向こうに広がる広大な敷地。ヴェルナ王立貴族学園。この国の未来を担う貴族子弟が集う場所。


 そして、この国の腐敗が次の世代に引き継がれていく場所でもある。


「着きましたよ、お嬢様」


 御者台からカインの声がした。馬車が完全に止まると、ミアが先に降りて扉を開ける。ヴィオレットは、その瞬間に仮面を完成させた。


 何かが変わったわけではない。


 ただ、微笑みの質が変わる。柔らかさの中に、見る者をわずかに緊張させる何かが加わる。背筋が伸び、歩幅が完璧に整い、視線が正面を向く。


 ヴィオレット・ド・ノワール公爵令嬢が、降車した。


 門の近くにいた生徒たちが、意識するともなく視線を向けた。いつものことだった。「黒百合令嬢」が登校してきたとき、人は自然に振り返る。それが畏敬なのか、好奇なのか、あるいは別の何かなのか、ヴィオレット自身はいつも判断を留保していた。


 どうでもよかったからだ。


「ヴィオレット様!」


 どうでもよくない声が、飛んできた。


 栗色の巻き毛が、人波をかき分けるようにして近づいてくる。緑の瞳が朝の光を受けてきらきらと輝いている。アメリ・ド・ソレイユ伯爵令嬢、十六歳。学園内でヴィオレットに最も積極的に話しかけてくる人間であり、ヴィオレットが最も「対処に詰まる」相手だった。


「おはようございます、アメリ様」


「おはようございます!今日ね、お母様がクッキーを焼いてくれて、持ってきたんです!昼食のあとに一緒に食べませんか!」


(クッキー。小麦、バター、砂糖。アーモンド入りか。

 毒の可能性:ゼロ。アメリが仕込める技量ではないし、そもそもこの娘が毒を使う理由がない。

 断る理由:ない。

 受け入れた場合の問題:この笑顔を、どんな顔で受け取ればいいかわからない)


「……喜んで」


「やった!じゃあ昼に中庭で!」


 アメリは満足そうに笑って、自分の友人たちの方へ戻っていった。その後ろ姿を見送りながら、ヴィオレットは思う。


(まったく)


(前世で刃を向けてきた暗殺者より、あの娘の方が対処が難しい)


 ミアが隣でこっそり笑っているのがわかったが、見なかったことにした。


---


 校舎に入ると、廊下の空気が変わった。


 よく言えば整然、悪く言えば張り詰めている。ヴィオレットが歩くと、生徒たちが自然と道を開ける。敬意と、それと同量の何かが混じった視線が、すれ違うたびに向けられた。


 ヴィオレットはその全てを、視界の端で処理しながら歩いた。


 誰が第一王子派か。誰が第二王子派か。誰が本当に中立か。誰が誰に弱みを握られているか。誰が誰を好いていて、誰が誰を憎んでいるか。


 学園は縮図だ。王国の、そのままの。


(今日も平和な戦場だ)


 角を曲がったところで、ヴィオレットは気配を感じた。


 足を止めることはしない。歩幅も変えない。ただ視界の解像度を上げた。


 廊下の奥、窓際。


 金色の瞳が、こちらを見ていた。


 レイン・ヴェルナ第二王子。同じ三年次、十六歳。赤みがかった茶髪に、整った顔立ち。しかしその目だけは、年齢に似合わない鋭さを持っていた。


 視線が合った。


 レインが、わずかに口角を上げた。


(また始まった)


 ヴィオレットは完璧な微笑みを返した。一歩も止まらずに、完璧な速度で歩き続けながら。


 すれ違い際、レインが低く言った。


「今日も完璧ですね、令嬢」


「おかげさまで、殿下」


「そのご様子では、昨夜も十分な睡眠をお取りになったようだ」


(探りを入れている)


 ヴィオレットは歩みを止めず、ただ微笑みのまま答えた。


「ええ。夢も見ずに熟睡しましたわ」


(嘘だ。七割覚醒で眠っていた)


「それは羨ましい。私は昨夜、少し考えごとをしてしまいまして」


「まあ、それはお疲れが出ませんよう」


「貴女のことを考えていたんですがね」


 ヴィオレットはその言葉を聞いて、初めて少しだけ足を止めた。振り返りはしない。ただ、止めた。


 そして、振り返らないまま、肩越しに一言だけ言った。


「殿下。夜に考えごとをする時間があるのでしたら」


「ええ」


「政務の予習に使われることをお勧めします」


 返事を待たずに歩き出した。


 背後でレインが、今度は声を出して笑うのが聞こえた。楽しそうな、しかしどこか本気の色を含んだ笑い声だった。


(あの王子は食えない)


(学園内で最も気を抜けない相手だ)


 ヴィオレットは教室の扉を開けながら、密かに計算する。


 レイン第二王子が本当に《枷》の手の内に収まっているのか。それとも《枷》を利用しながら独自の動きをしているのか。どちらが正しいかによって、この先の対処が大きく変わる。


 影廷への報告に追記が必要かもしれない。


(今日の放課後、リュカに確認を)


 席につき、教科書を開いた。


 政治学。今日の講義は「王国の財政構造と貴族の役割」だ。


(ドレヴァン侯爵家が王国財政をいかに食い物にしているかを、教師が何も知らずに解説する授業か)


 ヴィオレットは窓の外を一瞬見た。


 青い空が広がっていた。どこまでも澄んだ、秋の空だった。


(前世では、こんな空を見上げる余裕がなかった)


 そう思った次の瞬間、自分でも驚いた。


 そんなことを考えたのは、今世に転生してから、初めてだった。


 ヴィオレットは視線を教科書に戻し、完璧な令嬢の姿勢で、政治学の講義が始まるのを待った。


 微笑みは、完璧だった。


 ただ。


 その目が、今日は少しだけ、空の色を映していた。


── 黒百合は今日も、完璧に咲く。

── ただ誰も知らない。その根が、どこまで伸びているかを。

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