第7話 匂わせ女子、北方に現る
その日の午後、港にひどく場違いな船が入った。
霧に沈んだルーンサンドの海へ、真珠色に磨かれた船体がゆっくり滑り込んでくる。帆布には金糸の縁取り、船首には白鳥を模した飾り彫り、甲板には冬だというのに色の薄い花まで積まれていた。働くための船ではなく、見せるための船だと、岸壁に立つ誰の目にもわかった。
「なに、あれ……」
アレンが目を細める。
「祭礼の客船でも、もう少し港に気を遣うわよ」
マグブラが鼻を鳴らした。
「香油の匂いが、ここまで来る」
「来なくていいのにね」
ハウケアがさらりと言う。
アヌッカは波止場の端で、息を止めた。
見覚えがあった。
あの船腹の白、あの金糸、あの“ここへ来たこと自体が贈り物です”と言わんばかりの佇まい。王都で人目を集める者たちは、だいたいああいう飾り方をする。
「……リディベル様」
口の中で、名前だけが冷たく転がった。
ほどなくして、船から白い毛皮の外套をまとった令嬢が降りてくる。足元が濡れた桟橋だというのに、一歩ごとに舞台へ出るみたいな角度で顎を上げる。薄紅の唇、銀の髪飾り、風に揺れる長い耳飾り。そのどれもが“見られている”ことを前提に整えられていた。
「ごきげんよう、皆さま」
リディベルは港全体へ向けて微笑んだ。たった一言で、自分が歓迎される側だと決めてしまう笑い方だった。
「まあ、思っていたより寒いのね。でも景色は素敵。霧まで飾りに見えるなんて、北方らしいわ」
その後ろから、もう一人の影が降りてきた。
セルギオだった。
王都にいたころより厚手の外套を着込み、靴は高価そうなのに歩き方だけがぎこちない。北の港の板は、彼の足に似合わなかった。けれど顔だけは愛想よく整え、いかにも“心配して追ってきました”という表情を作っている。
アヌッカは胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
怖いのではない。
ただ、嫌だった。
やっと海風の匂いに馴染み始めたところへ、王都の都合と化粧の匂いがそのまま持ち込まれたことが。
「アヌッカ様」
最初に気づいたのはリディベルのほうだった。彼女は驚きより先に、見つけましたわ、という顔で唇をほころばせる。
「やっぱり、こちらにいらしたのね。ご無事そうで安心しました」
「……お久しぶりです」
「まあ、ずいぶん他人行儀。王都ではあんなにお顔を合わせていたのに」
その言い方に、アレンの眉がぴくりと動く。ハウケアは無言で一歩だけアヌッカの斜め前へ出た。何も言わずとも、背中に“ここは港の人間が見ている”という気配が並ぶ。
セルギオもそこで、気の毒そうな顔を作って近づいてきた。
「アヌッカ。急に送り出されて、心細かっただろう」
「いいえ」
「強がらなくていい。王都でも皆、君のことを案じていた」
嘘だ、とアヌッカは思う。あの日、誰も案じなかった。人前で婚約破棄を宣言されたあと、助け船を出したのはただの老神官の眉間の曇りだけだった。
だが今のアヌッカは、昔のようにすぐ俯かなかった。
「王都の皆さまは、ずいぶんお忙しいでしょうに」
静かに返す。
「私ひとりを案じる余裕がおありだったのですね」
「それは、もちろん」
「それなら、婚約を解消なさる前に一言くだされば助かりました」
セルギオの口元が一瞬だけ引きつった。
周囲にいた荷運びたちが、あからさまではない程度に動きを止める。港の人間は噂好きだが、表面上は仕事を続けるふりがうまい。
リディベルはすぐに笑みを立て直した。
「まあまあ、昔のお話はそのくらいにして。今日、わたくしたちが参りましたのは、揉めごとのためではありませんのよ」
「では何のために?」
「もちろん、月食のお手伝いですわ」
その言葉に、ポリミリスがわずかに眼鏡を押し上げた。
いつの間にかロイトも執務舎の前へ出てきていた。濃灰の外套姿のまま、一段高い石段に立つ。歓迎も驚きもない顔で、ただ来訪者を見下ろしている。
「お手伝い、とは」
ロイトの声は低い。
「許可した覚えはない」
リディベルはその冷たささえ、自分への関心だと解釈するように目を細めた。
「まあ、ロイト様。王都からの善意に、そんな」
「善意なら事前に文を寄越す」
「急いで参りましたの。北方の灯が危ういと聞きましたから」
「その情報源は」
「王都の祈祷院や、祭礼関係者のお話ですわ」
ベルノアの影がそこにもあるのだと、アヌッカにはすぐわかった。
しかもリディベルは、こちらの事情を知っていること自体を武器にしている。事情通であるふり。王都と北方の両方に顔が利くふり。自分こそ役に立つ女だと印象づけるための、いつもの手口だった。
「わたくし、王都では祭礼の飾り付けや祈願の進行にも関わっておりますの。願文の読み上げの作法にも詳しいのよ」
リディベルは港の人々へ向き直る。
「北方の皆さまがお困りなら、少しでもお力になれればと思って」
やわらかな声音だった。だが、よく聞けば“北方の皆さまは田舎でお困りでしょうから”という響きが混ざっている。
「余計なお世話だな」
ジャファルがぼそりと言った。
その声は十分に聞こえる大きさだった。
リディベルの笑顔が、目元だけ少し硬くなる。
「失礼な方」
「俺は大体いつもこうだ」
「自慢することではありません」
ポリミリスが淡々と補足し、港のあちこちで小さな笑いが起きた。
リディベルはすぐに照準を変える。今度はアヌッカへ、慈愛ある姉のような顔を向けた。
「でも安心しましたわ。あなた、北での暮らしにずいぶん慣れたのね」
「はい」
「良かった。王都では心配していたの。急なことで、きっと取り乱しているだろうって」
「取り乱してはおりません」
「あら、そう?」
リディベルは首をかしげる。
「でも、王都でのあなたは、もっと……そうね、自分の意見を強く言う方ではなかったでしょう? こちらでは、少し気が大きくなってしまったのかしら」
遠回しに“北方に来て生意気になった”と言いたいのだろう。
以前のアヌッカなら、言葉を飲み込んでいたかもしれない。けれど今は、ハウケアたちの立つ気配、食堂の湯気、幸せ丼を食べて本音をこぼす人々の顔、砂浜で拾った月種の微かな脈動が、背中のどこかを支えてくれていた。
「気が大きくなったのではありません」
アヌッカはまっすぐ言った。
「北方の皆さまが、最後まで話を聞いてくださるので、私も最後まで自分の言葉で話せるようになっただけです」
一瞬、場が静まる。
リディベルの笑顔はそのままだったが、唇の端がわずかに強張った。セルギオのほうは、露骨に居心地が悪そうな顔をしている。
「なるほど。北方の風は、ずいぶん率直なのね」
「ええ。回りくどくないぶん、わかりやすいです」
「それは、王都が回りくどいと言いたいのかしら」
「そう聞こえたなら、残念です」
静かな返しだった。けれど港の人々の何人かが、こらえきれないように肩を揺らす。
セルギオはそこで、話の流れを変えようとしたのだろう。慌てて一歩前へ出る。
「ロイト侯。誤解なさらないでいただきたい。私はただ、アヌッカの力が必要とされているなら、王都側としても調整役を担いたいと」
「王都側?」
ロイトが低く繰り返す。
「彼女は今、ルーンサンドの臨時願文師だ。お前の管轄ではない」
「ですが元は王都の祈祷院に属しており」
「元婚約者の立場で干渉する権利もない」
その一言で、セルギオは完全に口をつぐんだ。
アヌッカは息をのみ、すぐに視線を伏せた。胸のどこかで熱いものがふくらむ。かばわれた、というだけではない。ロイトは自分を“便利な人材”としてではなく、“勝手に扱わせない相手”として置いてくれている。そのことが、静かに嬉しかった。
リディベルはまだ諦めなかった。
「まあ。ロイト様は、ずいぶんアヌッカ様をお気遣いになるのですね」
「当然だ」
「当然……」
「今この町で働く者を守るのは、私の役目だ」
「あら、それだけ?」
匂わせるような言い方だった。周囲へ“もっと特別なのでは”と想像させたうえで、自分もその輪へ入り込もうとするいつもの手だ。
だがロイトは瞬きひとつせず答えた。
「それ以上でも、それ以下でもない」
言い切りは冷静だった。けれどアヌッカには、その声の底へ別の熱が沈んでいるのがわかった。今ここでそれを見せる気がないだけで、何もないわけではない。
リディベルは空振りを悟ったのか、今度は港の人々へ視線を流した。
「わたくし、せっかく参ったのですもの。月食前の奉納行事もぜひ拝見したいわ。王都へ良い形で伝えることもできますし」
「良い形って何だ?」
ジャファルがまた口を挟む。
「立派に見える形じゃない?」
マグブラが続ける。
「この町、立派に見せるより、ちゃんと灯がつくほうが先なんだけど」
アレンまで腕を組む。
リディベルは薄く笑った。
「もちろん、実務も大事ですわ。でも外へ伝わる見え方も大切でしょう?」
「見え方より、中身です」
アヌッカが言う。
「月種は、見栄では目覚めませんから」
その瞬間、セルギオの顔がはっきりと曇った。図星なのだろう。願文の改竄が月種を眠らせると、彼ももう知っているはずだ。
ロイトの視線も鋭くなる。
「……面白いな」
「何がでしょう」
セルギオが愛想笑いを浮かべる。
「お前は北方の事情にやけに詳しい」
答えに詰まったのは一瞬だった。だが、その一瞬で十分だった。
「祭礼に関わる者なら誰でも」
「誰でも、月種の状態まで知っているのか」
「それは、その」
「立ち話で聞き出せる話ではない」
ロイトの声は低いまま、温度だけが消えていく。
セルギオは言い逃れの言葉を探したが、見つからないらしい。代わりにリディベルがふわりと前へ出た。
「まあ、ロイト様。責め立てるようなことはなさらないで。セルギオ様は、ただ王都で耳にしたことを気にかけていただけですの」
「耳にした、か」
「ええ。わたくしも同じですわ」
「どこで」
「祈祷院や、祭礼の準備をなさる方々のあいだで」
「名を挙げろ」
「それは、相手の立場もありますもの」
答えない。それが答えだった。
ポリミリスが横から穏やかに言う。
「お二人とも、ようこそルーンサンドへ。ですが現在、月食前の重要時期につき、よそからいらした方には滞在先と行動範囲を限らせていただきます」
「監視なさるの?」
リディベルが目を細める。
「保全です」
「まあ、ものは言いようですのね」
「ええ。ルーンサンドでは、実体に近い言い方を好みます」
その返しに、今度こそリディベルの笑みが少しだけ欠けた。
結局、二人は港の中央宿へ通されることになった。表向きは客人扱いだが、実際には見張りつきだ。ジャファルが誇らしげに胸を張り、「俺が見張ってやる!」と宣言した結果、「あなたが一番見張りに向いていません」とポリミリスに即座に却下される一幕までついた。
騒ぎがひとまず収まると、アヌッカはようやく息を吐いた。
胸の中には嫌な疲れが広がっている。言い返せた。立ち尽くさなかった。それでも、王都の匂いは思った以上に身体へ古い緊張を呼び戻すらしい。
「少し休みましょう」
ハウケアが言う。
「顔色が白いわ」
「大丈夫です」
「大丈夫の顔ではない」
今度はアレンが言った。
「幸せ丼、食べる?」
「合言葉みたいですね」
「実際、大体のことはそれで少しましになるわ」
断る理由が見つからず、アヌッカは食堂へ連れていかれた。
昼を少し過ぎた時間の食堂は、まだ客がまばらだ。窓際の席へ座ると、すぐに湯気の立つ椀が運ばれてくる。魚と豆のだし、雑穀、刻んだ海菜、香草、そして今日は小さな焼きねぎまで乗っていた。
「焼きねぎ?」
「気が立ってる日向けの追加よ」
アレンが当然のように言う。
「香りが強いと、余計なことを考える隙が少し減るの」
「経験則ですか」
「経験と勘!」
ひと口食べると、確かに少しだけ力が抜けた。
王都でのことを思い出すとき、いつも先に来るのは胸の締めつけだった。けれど今は、温かいものが先に腹へ落ちる。その順番の違いだけで、同じ記憶でも刺さり方が変わるのだと知る。
「よく言えたわね」
マグブラが向かいへ腰を下ろす。
「何がですか」
「“最後まで自分の言葉で話せるようになった”ってやつ」
「……聞こえていましたか」
「港は狭いのよ。それに、ああいう女が来ると、耳が勝手に良くなるの」
その言い方に、アヌッカは少し笑った。
「本当のことでしたから」
「なおさらいいわ。ああいうのは、飾った反論より本当のことのほうが刺さるのよ」
「刺さっていました?」
「かなり」
ハウケアも頷く。
「以前のあなたなら、黙ってしまったでしょう?」
「はい。たぶん」
「でも今日は違った」
「……ここでの暮らしが、そうさせてくれました」
「違うわ」
ハウケアはきっぱり言った。
「暮らしがきっかけでも、言ったのはあなたよ」
その言葉が、幸せ丼の湯気より深く沁みた。
夕方近く、執務舎へ戻る途中で、アヌッカは回廊の角に立つセルギオと鉢合わせた。
見張りの目をどうにか誤魔化して抜けてきたのだろう。けれど彼は、今にも親しげな会話が始まると信じている顔をしていた。
「少し、二人で話せないか」
「話すことはありません」
「そんなふうに言わないでくれ。あのときは、僕にも立場があった」
「今もあるのでしょう?」
「それは……」
「王都の祭礼で、願文を整える人手が欲しい。北方の事情も知りたい。だから私に声をかけるのですよね」
セルギオは目を見開いた。
図星だった。
未練のふりは、薄い紙みたいにすぐ破れる。
「誤解だ」
「いいえ」
「君は昔よりきつくなった」
「そうでしょうか」
「王都では、もっと素直で」
「都合が良かった、の間違いではありませんか」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
怒鳴る必要がないと、もうわかっている。相手が何を欲しがっているのか、どこを曖昧にしているのか、全部見えるからだ。
「私は戻りません」
はっきりと言う。
「王都にも、あなたの隣にも」
「……北方侯に何か吹き込まれたのか」
「誰にも吹き込まれていません」
「なら、どうして」
「ここで、自分の願いを後回しにしなくていいと知ったからです」
セルギオは黙り込む。
その沈黙へ、別の足音が重なった。
「何をしている」
ロイトだった。
夕暮れの逆光の中に立つと、その声は昼間よりさらに低く聞こえる。セルギオは露骨に顔色を変えた。
「いえ、少し旧知の間柄で」
「見張りの範囲外へ出たな」
「それは、アヌッカが偶然ここへ」
「偶然でも二人きりにする理由にならない」
ロイトはアヌッカを見ない。まずセルギオへだけ視線を向け、その場の主導権を完全に奪ってから、ようやく一歩こちらへ寄る。
「アヌッカ」
「はい」
「戻る」
「はい」
その二語だけで、もう十分だった。
セルギオはまだ何か言いたげだったが、ロイトの横顔を見た瞬間、飲み込んだ。自分より格上の男に怒鳴られたからではない。ここではもう、自分の都合のいい言葉が通じないと悟ったのだろう。
回廊を並んで歩き出すと、しばらく誰も口を開かなかった。
やがてロイトが低く言う。
「怖かったか」
「少しだけ」
「そうか」
「でも、前ほどではありません」
「なぜだ」
「……守ってくださる人がいると知っているので」
答えた途端、言いすぎたかもしれないと思った。
けれどロイトは足を止めなかった。ただ、ほんのわずかに歩幅が変わった気がした。
「なら、次からは一人で会うな」
「命令ですか」
「違う。頼んでいる」
「前にも聞きました」
「同じことが二度起きるなら、二度言う」
相変わらずだ、とアヌッカは胸の中で笑う。けれどその不器用さが、今は頼もしかった。
執務舎の前まで戻ると、ロイトはようやく足を止めた。
「リディベルもセルギオも、まだ動く」
「はい」
「君を揺さぶるために来たのだろう」
「だと思います」
「だが」
ロイトは短く区切る。
「君がどこにいるかを決めるのは、もう君だ」
夕暮れの霧の中、その言葉だけがやけにはっきり届く。
アヌッカは頷いた。
「はい。私が決めます」
「ならいい」
ロイトはそれ以上何も言わなかった。だが去り際、アヌッカの外套の袖口を一瞬だけ見て、そこが風で少しめくれているのに気づいたのだろう。無言で直して、それから何事もなかったように執務舎の中へ入っていく。
その背中を見送りながら、アヌッカは胸へ手を当てた。
王都の人間が現れても、自分は崩れなかった。
怖さはあった。嫌な記憶も甦った。それでも、もう全部を飲み込んで黙るだけではない。
そして何より、ここには自分の言葉を聞き、信じ、必要なら前へ出てくれる人たちがいる。
夜、宿のほうからまた少し騒ぎが聞こえた。どうやらリディベルが「もっと海の見える上の部屋へ」と言い、アレンが「見えるけど風も入るからやめときなさい」と真顔で返し、ジャファルがなぜか「俺は見張っている!」と張り切っていたらしい。
それを聞いたマグブラが、窓辺で肩をすくめる。
「港に匂わせ女が来ると、風まで面倒くさいわね」
「でも、負ける気はしません」
アヌッカが言う。
「もう、前みたいには」
「うん」
マグブラは短く頷いた。
「だって今のあんた、けっこう強いもの」
強い。
その言葉はまだ少し照れくさかった。けれど否定はしなかった。
窓の外では、霧の向こうに灯がいくつも揺れている。
見え方だけを整えた光ではない。
誰かの暮らしを照らすための、実際に温かい灯だった。
その灯の中に自分の居場所があると、アヌッカはもう知っていた。




