潜入開始
前から、後ろから、聞こえてくるのはいくつもの若い話し声。
今日の小テストの勉強をしたかとか、ゲームでなんのキャラを引いたとか。
視界を埋め尽くすのは、いくつもの同じブレザーの制服。濃紺のジャケットと灰色のスラックスやスカート。とある高校の通学路の中を、自分だけが真っ暗なスーツを着て歩いている。
時々、近くを歩く女子生徒のグループが、俺の方を見てひそひそと盛り上がっている。
別に気にする必要なんてないと思いつつ、好奇の目に晒されているみたいで落ち着かない。
住宅街に沿った狭い歩道をしばらく進むと、やがて二つの大きな校舎が見えてくる。その手前には正門があって、濃紺のブレザーが次々と吸い込まれていく。見えるもの全部が懐かしい。
正門の抜けた先には恰幅のいい男性教師が立っていて、入ってくる生徒一人ひとりにあいさつをしている。学校の敷地の周りには二メートル近い壁がぐるりと囲んでいて、出入り口はこの正門一つだけだ。
その教師に一礼だけして正門を通り抜ける。すべての教師に話は伝わっているのか、特になにか言われることもなく、あっさりと学校の敷地の中に入ることができた。
まずは最初の関門を突破だ。安堵して、小さく息を吐く。
それでも気を抜いている余裕はない。今までも何度か潜入捜査の形をとったことはあったが、教師のフリなんて今までで一番の難題だ。気をつけなければいけない時間は、この後も続いていく。
学校の敷地内に入って少し進んだ時、ふとどこかから微かな物音が聞こえた気がした。足を止めて耳を澄ます。聞こえたのは、物音ではなく鳴き声だった。
ピーピー、という弱々しい鳴き声。その声の主は、少し探すとすぐに見つかった。
学校の周りを囲む壁の近くに植えられた広葉樹の下で、一羽の雛鳥が一生懸命に声を上げている。その木を見上げてみると、枝のところに巣があって、親鳥と雛鳥がひしめいていた。心なしか、落ち着かない様子に見える。
きっと、この巣から落ちてしまったんだろう。
不幸中の幸いか、巣の位置はそれほど高くなくて、落ちた雛鳥は怪我をした様子もない。少し腕を伸ばせば、どうにか巣まで手が届きそうだ。
傷つけないように雛鳥を右手でそっとすくって、頭上の巣まで戻す。突然現れた人間の手に、親鳥も雛鳥も大合唱だ。
「もう絶対に落ちないでよ」
鳥たちはまだピーピーと叫び続けている。助けてもらった実感があるのかないのか、それでも、助けられたなら満足だった。
だって、こんな巣から落ちたくらい、まだいくらだってやり直せるはずだから。
「なにしてるんですかー?」
突然、背後から声がした。
振り向くと、目の前に一人の女子生徒の顔があった。その距離があまりにも近くて、思わず大きくのけぞった。
「あ、ごめんなさい。驚かせちゃいました?」
そう言う彼女は、ちっとも悪びれない笑顔を浮かべている。
「あ、いや……」
思わず言葉につまったのは、鳥のことを隠したかっただけじゃなくて、思わず彼女に見惚れてしまったから。
すぐ目の前に立つこの女子生徒は、ひと目で惹きつけられるほどの美少女だった。
色白の顔はひと目で分かるほどに小さくて、ふわりとしたセミロングの髪は、片側だけが編み込まれている。ぱっちりとした二重の目は、色素の薄い瞳と長いまつ毛が印象的だ。
「あ! もしかして、この鳥を見てたんですか?」
彼女は、頭上の鳥の巣に気づいたみたいだ。気恥ずかしくなって、つい突き放すような声になる。
「鳴き声がうるさかったから、少し気になっただけだよ」
「そうなんだ? それより、お兄さんはうちになにか用ですか?」
声をかけてきたのはこっちが本題だったのかもしれない。確かに知らないスーツの男が自分の学校の敷地にいたら、気になるのも無理はない。
「まあ、用事といえば用事なのかな。きっとすぐに分かるよ」
「えー、なんでもったいぶるんですか」
今は生徒と無駄話をしている場合じゃない。無理やり話を切り上げて歩き出す。女子生徒は、慌てて後ろをついてきた。
「もしかして、なにか訳ありだったりするんですか?」
「別になにもないよ。ただ仕事で来てるだけ」
「じゃあ、そのお仕事って?」
なにを言っても、彼女は面白そうに顔を輝かせながら追求してくる。邪険にするのも気が引けて、いきなり厄介な相手に絡まれたと思った。
「そうだ! 学校案内してあげましょうか。職員室には行きますよね?」
早足に変えてみても、彼女はペースを合わせてついてくる。このままどこまでもついてきそうな勢いで、さすがに困ってきた。
「職員室にはあとで行くよ」
「じゃあ、最初はどこに行くんですか?」
その質問は無視をして、俺は進行方向を左に転換する。
この学校は、正門を抜けた正面に二つの大きな校舎がある。右側に見えるのが、今の生徒たちが使っている新校舎。そして、左手側には少し小さな古めかしい校舎がある。
「あの、そっちは旧校舎ですよ!」
俺の向かう場所に気づいて、女子生徒は足を止めた。
目の前の旧校舎こそが、俺がこの学校に潜入をする最大の目的だった。
「知ってるよ」
俺はその女子生徒まで聞こえない程度の声でつぶやいて、そのまま目の前の古びた校舎を目指して歩く。
この場所のことなら、もう十分すぎるほどに知っている。
私立國城東高校。
東京都内の歴史ある高等学校で、有数の進学校としても知られている。十年ほど前からは、スポーツに力を入れるためのコースも新設され、まさに文武両道の学校として、今も成長を続けている。
都内にありながらも、二十三区外ということもあって、広大な敷地面積を誇る。ただ、それを持て余しているのは、十年近く前から使われなくなった旧校舎だ。下手に古い建物なせいで、この旧校舎自体に歴史的価値があるとかで、今日まで取り壊されることなく残り続けているらしい。
レンガ調の旧校舎の壁面は黒くくすんで、永く風雨にさらされてきた歴史を感じる。自分が知っているより、ますますその荘厳さが増しているように見えた。まだ朝日が眩しい時間だというのに、いかにも”何か”が出てきそうな雰囲気が漂っている。
「まさか、五年も経ってまたここに戻ってくることになるなんてね」
本当に、人生何があるか分からないものだと思う。
もう二度と、この建物を見上げることも、この学校の敷地を踏むこともないと思っていたのに。……いや、そんなこと、想像さえもしていなかったのに。
「莉菜……」
思わず彼女の名前をつぶやいた。この旧校舎の中に消えていった彼女のことは、今日まで一日だって忘れたことはない。
その時、旧校舎の窓が揺れた。正確には、窓の向こうで何かが揺らめくのが見えた。
この建物の中には、"彼ら"が潜んでいる。その気配を建物の外からでも強烈に感じていた。
大きな両開戸の旧校舎の玄関前には、立ち入り禁止の看板とロープが張られている。ロープは簡単に跨ぐことができた。
正面のドアを開けて中を覗く。玄関には昔ながらの木箱の靴箱が並び、その奥には深い暗闇が広がっている。
朝だというのに、校舎の中は不思議なほどに仄暗い。開いたドアと窓からかろうじて薄明かりが差し込むだけで、闇に慣れない目では中の様子も分からない。ひんやりと、冷たい空気が漂うのをただ感じていた。
少しずつ目が慣れてくると、中の様子も見えてくる。
壁面の一部はコンクリートの打ちっぱなしで、廊下は古めかしいタイル張り。壁には一部の掲示物が取り残されていて、物悲しさを醸している。この建物自体の歴史を感じるとともに、その歴史の分だけ目に見えない何かが積み重ねられてきたのだと思う。
まさに、彼らが生息するには絶好の場所だ。
玄関を上がった先は、左右と正面で三方に廊下が伸びている。正面廊下はそのまま真っ直ぐに続いていて終わりが見えない。その先は暗闇に溶けていた。
ふと、玄関の靴棚の陰から、ちらちらと微かな光がのぞいているのが見えた。それは、いわゆる人魂のイメージにも似た、電球ほどのサイズの不定形な光の塊だった。
その光の球体が、靴棚の裏から一つ二つ……。次の瞬間、物陰からいっせいに光の球が飛び出した。その数は、十や二十ではない。真っ暗だったこの校舎が明るくなるほど、視界をその球体が埋め尽くした。
無数の光の球体はゆらゆらと空中を漂う。彼らに目なんてついていないけれど、まるで俺のことを観察しているかのようだ。
「これは、なかなか骨が折れそうだな」
これから待っているだろう苦労を思って、ため息と合わせて一人こぼした。
少し小手調でもしておこうか。
校舎の中へ一歩踏み出そうとした瞬間、キーンコーン、と、どこか間抜けな音が鳴り響いた。朝の時間五分前を知らせる予鈴だ。非現実的な光景から、一気に現実に引き戻された。
下見はここまで。本番は今夜になる。
俺はその場で回れ右をして、最後に一度無数の光の球たちへ振り向いてから、この旧校舎を後にした。
まずは、こなさなければいけない仕事が別にある。