君が死ぬまで、待っている 5
エミリアは、順調に成長していった。大きな病気も怪我もなく、十六の年を迎えた。
そして――はじめてオスカーと一線を越えた。それは、ごく自然な流れだった。
月明かりが窓から差し込み、オスカーの白い髪を柔らかく照らす。
キスをして、お互い、服を脱ぎ落として。
互いの素肌が触れ合うところが暖かい。これ以上の安心感など、他では得られない。
エミリアは幸福だった。あの初恋から六百年。
夫となるはずの人だった。“エミリア”が、風邪をこじらせて死んでいなければ、二人は夫婦となっていた。
ようやく、あるべき形に収まった。そう思えた。
うとうと、まどろみの中で揺蕩っていると、エミリアの頬をそっとなでる手を感じる。
細くて長い、オスカーの手だ。
「こうなることを、ずっと恐れていた」
「……どうして?」
互いに向き合う格好で寝そべり、エミリアはオスカーの手に己の手を重ねた。
「君を愛しているから」
「うん。私も愛してる」
「でも、君はすぐに死ぬ。病気、事故、事件、数えればきりがない」
「うん」
「そして俺は、たくさん君を見送ってきた」
「うん」
「愛する人が、目の前で死んでいく。何度も、何度も」
「すぐにまた生まれて来るわ……」
「そうだな。君はまたすぐに生まれてくる。でも、残された俺はどうだ? いつ君が現れるのか、待って、待ち続けて、時々三十年も当てなく待ち続けている。その間、ずっと一人だ」
「うん……」
「そうしてやっと会えた君は、今度はたかだか三年程度で死んでいく。俺に、幸福を知らしめて、絶望に突き落とす」
ぎゅっと、触れたオスカーの手を握り締める。ごめんね、と言ってしまいたかったけれど、言葉には出せなかった。
それでもエミリアは、待っていてほしかったからだ。醜いエゴであることはわかっている。たった数年でも、一緒に過ごせる日々が何よりも必要だった。
その為に、彼に苦しみを敷いていたのだとしても。
「君が愛おしい。でも、時々憎らしくなる」
キスをする。
オスカーの瞳から、一筋、涙が零れ落ちた。
――死にたくない。
エミリアも泣いて、彼の喉元に額をつけた。
――死にたくない。死にたくない。
強く、そう思った。
オスカーと結婚して、二年。
エミリアは、十八になった。今までのどの人生よりも、長生きをしていた。
――でも多分、もう長くない。
エミリアは安楽椅子にゆられてマフラーを編みながら、窓の外をぼうっと見ていた。
「ねぇ、予感があるんだけれど……」
オスカーが読書をしていた目線をエミリアに向ける。
エミリアは、ほほ笑んだ。
「きっと、これで良かったのよ。あるべきところに収まって、ようやく全部が終わる……そんな気がするわ」
「君は時々、よくわからないことを言う」
怪訝に眉を寄せる夫に「絶対そうよ。その時が来たらわかるわ」と、茶目っ気を込めて返した。
「――ね、言ったとおりになったでしょ」
生まれたばかりの我が子を胸に乗せ、息も絶え絶えにエミリアはオスカーへ手を伸ばした。
「エミリア、死ぬな……死ぬな!」
涙を流す夫の頬に手を当てて、柔らかく微笑む。
「ほら……ここ」
目の下を、なでる様に触って。
「しわが、できたね」
決して老けないオスカーに、はじめてできたそれ。
エミリアはもう一度微笑もうとして、失敗した。もう、力が入らない。泣く息子の声も、遠い。
落ちそうになった手を、オスカーがつかんだ。強く、強く握られて、オスカーは「死ぬな! 死ぬな!」と繰り返す。
「俺を、一人にするな!」
「だい、じょうぶ」
オスカーの涙を見るのは、これで二回目だ。エミリアは、最期の力を振り絞った。
「あなたが死ぬまで……待っているから」
そう呟いて、目を閉じる。
そうしてエミリアは、死んだ。
慣れ親しんだ樹の塔の窓から、外を見つめる。
相変わらず、ここから見える景色は何一つ動かない。
あれから、何年、何十年が経っただろう。
他の死者の様に、エミリアはまだ無になっていない。次の生へ向かう訳でもない。
多分、エミリアにかけられていた輪廻の鎖はもう解かれていて、その気になれば、いつでも他の死者と同じようにまっさらになるのだと思う。
それを押しとどめているのは、強い意志だ。多分。理屈はわからないけど。
あくびを一つして、上の方を見上げる。そろそろ、枯葉がいっせいに落ちる頃合いだ。
そう思ったまさにその瞬間、エミリアの目の前を落葉が音を立てて天へ散らばった。
その時だ。
「……聞いていた以上の光景だな」
びくり。
背後からかけられた声に、からだが一瞬硬直する。
おじいさんの声だった。張りはもうなくて、でも、一本芯は通っていて。
「エミリア、久しぶりだ」
振り返り、目にとらえたその姿に、エミリアは涙をこらえきれなかった。
そのまま、おじいさんの胸に飛び込む。
「会いたかった」
「ああ」
「六百年、かかったね」
「ああ」
「ずっと、待ってたわ」
しわくちゃな顔で穏やかにほほ笑み、オスカーは静かに呟いた。
「やっと、死ねたよ――」