21* 散る
信じてはいなかった。
だって、あり得ない事だから。
信じてなどいなかったのに。
「不思議だわ。何でここで和めてるのかしら」
しみじみと呟いてレジーナは、こぽこぽと温かい香茶を注ぎ入れる。
こうばしい匂いが部屋に満ちて、リゼイラは差し出された茶器を受け取って微笑んだ。
デイルの取り計らいかレジーナやライドールが昼間に一緒にいてくれるようになった。
狭い部屋だから三人もいれば窮屈だが、触れ合う場所に人が居てくれるのは何だか嬉しい。
「あ、リゼイラ様、お菓子もどうぞ」
蔓籠に盛られた焼き菓子を差し出したレジーナは、リゼイラの隣りあわせて寝台の上に座っている。
ライドールが一つきりの椅子に納まると、そこしか座れる場所はのこっていなかった。
だが、リゼイラが気にすることはないし、レジーナも勧められれば素直に従う。
ライドールだけが最後まで抵抗していたが、結局押し切られた。
「……私が一人で椅子に座るわけには」
「まだ、言ってるの。いい加減に諦めなさいな。ですよね、リゼイラ様」
ニッコリ笑顔を向けられてリゼイラも同じように微笑み返す。
ライドールが、疲れたようにため息を吐いて深く椅子に座りなおした。諦めたらしい。
「あれからちゃんと眠ってますか?公爵様から苛められたりしてません?」
真剣な顔で尋ねてくるレジーナに、気圧されるようにコクコクと頷く。
「何かあったらちゃんと教えてくださいね!」
意気込む彼女の優しさが嬉しくて、リゼイラはちょっとだけ困惑しながらも笑う。
「レジーナ、また先走って」
「先に勝手に走って行った人の意見は聞きません」
いつものように口を挟んだライドールの言葉をレジーナは、ツンッと退ける。
先走る?
疑問符を浮かべたリゼイラにライドールが珍しく慌てた表情をする。
「レジーナ!」
「あら、慌ててる。リゼイラ様、何したか気になりませんか?怪しいですよね」
「……レジーナッ!」
どうやら勝手に公爵と話をつけたライドールに対しての意趣返しらしい。
デイル相手には何処までの対等に渡り合ったが、この侍女に対してだけは弱いようだ。
良く判らないリゼイラは、戸惑うように二人を見比べるだけだ。
ライドールが何かをして、レジーナはそれがちょっと面白くないらしい。
そこまでは何とか思い至って、けれどやっぱり何が何だか判らない。
でも、二人の様子はどこか楽しそうだ。
くすくす笑ってリゼイラは、慌てるライドールと素っ気ない対応するレジーナを見守ったのだった。
「今日は楽しそうですね」
夜になってデイルが、やって来たとき明るい表情を示されてリゼイラはパッと顔を手で押さえた。
そんなに判りやすい表情をしていたかな。
外は冷えてきたのか羽織ってきた外套を脱いで、デイルは昼はライドールが座っていた椅子に腰掛ける。
まだ少しだけ遠慮しながら、リゼイラは革長靴の紐を緩めるデイルに近づく。
デイルの身体からは、夜露と緑の匂い、そして太陽の香りがした。
「そんな所に座っては身体が冷えますよ」
ぺたんと床に座り込んだリゼイラを抱き上げて、少し考えてから自分の膝の上に乗せる。
重くないだろうか。
慌てて降りようとするリゼイラを片手で制して、それでも身体が冷えるだろうかと机の上に置いていた外套をふわりと着せ掛けた。
少しだけ重い布地は、まだほのかに温かく。さきほどデイルから香ってきた外の匂いがもっと強く漂ってきた。
全身すっぽりどころか母親の服に紛れた幼子のようになっているリゼイラに、デイルは気付かれないように小さく吹き出す。
何とも可愛らしい様子だった。
しばらく落ち着かないようでデイルから身体を離そうと頑張っていたが、途中で疲れたらしい。ぽすっと胸に倒れこんできた。
視線を落として見ると貝のような耳がほんのりと色づいていた。
「今日は、何かお話でもしましょうか」
とくんとくん、と優しい鼓動を数えていたリゼイラはそっと顔を上げる。
見上げたデイルの表情は、過去を思い出しているように淡い。
「昔、まだ私が子どもの頃の事です。この屋敷の近くに一人の女性が暮らしていたんです」
女性?
首を傾げたリゼイラの髪をそっと一房掬い上げる。
「貴方と良く似た髪をしていましたよ。いつも明るく笑っている人で、豪快で、料理はちょっと苦手だったみたいですが」
何だかデイルさま、楽しそう。
笑ってくれるとリゼイラも楽しくなる。
膝の上に座っている緊張感も忘れて、リゼイラは話しに聞き入る。
「子どもの頃の私は、勉強が嫌いでね。その人の所に先生の目を盗んで逃げ込んでたんです」
悪戯っぽく目配せしたデイルに、青灰色の瞳がきょとんと丸くなる。
デイルさまがお勉強が嫌いだったなんて不思議な気がする。
何となく、やらなければならない事はちゃんとしている様な気がしていた。
「意外ですか?」
驚きを見透かされて、今度は外套に顔を隠す。
本当に、そんなにわかりやすい顔なのかな。
そう思うと顔を見せるのが恥ずかしくなる。
デイルは笑いながらも、無理に顔を覗くような無礼は働かない。
代わりに、肩から落ちかけた外套を持ち上げて着せ掛ける。
「彼女には、一人家族がいて、可愛い子どもがいたんですよ」
子ども。首を傾げたリゼイラは少し考えてふと思う。
そう言えば、子どもって見た事がない。
「小さな子で、彼女に似たのか良く笑う子でしたよ」
リゼイラの戸惑いはすぐに消えて、デイルの影を差すような微笑みが気になった。
目元を隠す前髪を梳き上げると、そっと頭を撫でる。
何故かはわからなかったけれど。ただ、そうしてあげたくなった。
リゼイラの拙い手の感覚にデイルは、ふっと笑う。
「その子も、良く頭を撫でてくれましたよ。撫でると言うより、軽く叩かれてるみたいでしたけど」
きっととても好きな人たちだったのだろう。
寂しそうな顔は、見ているほうも少しだけ悲しくなる。
「……ミルレイア、という名前の子です。今は、貴方よりも一つか二つ上ですね」
生きていれば、その言葉は飲み込んだ。
まるで、自分の気持ちを映し出すように切ない表情をしている令嬢にこれ以上悲しい顔をさせたくはなかった。
そろそろ眠る時間だろう。
抱き上げて寝台まで運ぼうかと思っていると、ぎゅうっと強い力でリゼイラが外套を握り締めているのに気がついた。
……ミルレイア。
声のない言葉が繰り返される。
どうしてだろう。
そんな名前知らないはずなのに。
……ミルレイア。
誰かの声がする。
とても、懐かしい、とても、悲しい声が。
「リゼイラ殿?」
さすがに奇妙しいと感じたデイルは、肩に手を当てて強く名を呼んだ。
ふっ、と花のような唇から吐息が漏れる。
もう一度、名を呼ぼうとした時。
乱暴な音がして、頑丈な扉が蹴破るように開けられた。
信じてなかった。
だって、あってはならないことだから。
だから真実を確かめに来たのに。
どうして、お兄様はあんな娘を抱いているの。
どうして、あたくしではない、あんな子を抱きしめているの。
あってはならない。
そんなこと、あってはならないのに!
「マリーニエ……。お前、何故ここに?」
真っ青な顔をして部屋に踏み入って来たのは、黒い外套をまとった異母妹。
いつも美しく飾り立てて自分の部屋で過ごしている彼女が、何故この時間にこんな場所に居る。
不審に思いながら、まだ虚ろな様子のリゼイラを膝からおろす。
その様子を心配しながらも背に庇うようにして、マリーニエと相対した。
「どうして、ですの?」
「何?」
か細い声に、デイルは眉をひそめる。
会えば自らの誇りに輝きを乗せていたマリーニエからは、考えられない様子にデイルは何が目的なのかと考えを巡らせる。
リゼイラが誕生会の時に襲われた事件を丁寧に調べていって判った事があった。
そして、デイルの執務室にリゼイラが入った時にも言える共通の事実。
それはいつでもマリーニエの姿があったこと。
自分の身内を無闇に疑うのは、恥ずべき事だと思う。
だが、状況はそんな生易しい事など許しはしない。
身分も立場も全てを取り払って考えれば、怪しいのは一人だけなのだ。
全ての状況を操る糸を持つ先にいるのはただ一人。
だが、その動機だけがデイルには理解出来ない。
「どうして、お兄様がここにいらっしゃいますの?」
まるで酔っ払ってでもいるような覚束ない足取り。
ふらふらと近寄ってくるマリーニエを警戒して間合いを取るが、唯でさえ狭い部屋にそれも無意味だ。
「お兄様が、こんな娘に関わる必要なんてありませんでしょう。こんな娘、こんな薄汚い人間なんて!」
悲鳴の様に甲高い糾弾の声に、リゼイラが大きく身体を震わせた。
背中でそれを感じ取って、安心させるように後ろ手に腕の辺りを撫でた。
「マリーニエ、口が過ぎる。それに、彼女は…私の妻だ」
確固たる口振りで言い切ったデイルに、リゼイラまでが驚く。
だが、それ以上にマリーニエに与えた衝撃は計り知れなかった。
「何ですの?嘘ですよね?お兄様、ご冗談でしょう?あたくしは、認めませんわ。こんな、こんな人間公爵家に相応しくない!」
涙を浮かべて言い募るマリーニエに、デイルは揺ぎ無い沈黙で答えを返した。
それが、何よりも真実を突きつける。
「……やはり、貴方ですの。お兄様を誑かして。貴方がこの家に来てから全てが狂ったんですわ!」
バッと外套の下から突き出されたのは、鋭い光を反射する短刀。
過たずリゼイラを目指すマリーニエに、デイルも剣を抜こうとするが狭すぎる空間に上手く行かない。
血走ったマリーニエの瞳には、憎い相手しか映っては居ない。
短刀は、真っ直ぐにその肉に身を沈めた。
「……あ、あぁ、あああ」
ぽたぽた、と赤い滑りで彩られた刃物を手にマリーニエは、錯乱状態で立ちすくんでいた。
リゼイラには何が起こったか、判らない。
デイルさまの身体が大きくて、何も見えない。
ずるりとその大きな身体がリゼイラの上に覆いかぶさってくる。
重さに耐え切れずに、床の上に座り込む。
膝の上には、赤い色に染まったデイルさま。
赤い、赤い色。
いつかも見た色。でも、こんなに多かっただろうか。
床が真っ赤になっている。絨毯を敷いたみたい。
赤い、赤い色。
どんどん広がっていく。
それは膝を濡らし、温かな命の鼓動を奪っていく。
「……さん」
同じ光景を見た事があった。
あの時、赤い花の中で寝ていたのは誰?
今、こうして倒れているのは誰?
「……ぉかあさ、ん」
夢の中。全身を血に染めて倒れていたのは、たった一人の家族だった人。
そして今、その色にそまっているのは誰よりも傍に居てもらえて嬉しい人。
「……ぃやあああああああぁぁっ!」
閉ざされた喉から、悲鳴が迸った。