22* 月光
耳の奥でジンジンと空気が鳴っている。
脇腹が熱い。
幾度か経験のある感覚だ。痛覚が鈍くなっている。
己の身体から流れる血を見ながら、襲ってくる眠気の中でデイルはそれでも身体を起こした。
腕に力を入れるたびに、脇腹が引き攣れるように痛み、血が流れていく感覚が明確になる。
圧縮された空気の向こうで、悲痛な叫びが聞こえてくる。
聴覚が麻痺しかけている中でその声だけが、デイルに訴えかける。
あぁ、どうか泣かないで欲しい。
その瞬間、大気が止まった。
気を失したような無音が部屋を支配した。
異常な空気に、初めて人をその手で刺し取り乱していたマリーニエも虚脱して座り込んだ。
虚無の静寂。
打ち砕かれたのは、その一瞬後。
ドンッと館中を揺るがすような音が響いた。
小さな部屋に渦巻くのは、目を開ける事すら儘ならない程の突風。
壁際に寄せられていた机が大きく揺らぎ、先程まで使われていた椅子が煽られて飛び砕け散った。
螺旋をえがく風の中、先程まで喉を裂くような悲鳴を上げていたリゼイラはかっくりと首を落として項垂れている。
亜麻色の髪がうねるように舞う。
壊れた人形の様に傷ついたデイルを抱いている姿は異様だ。
唸る強風は呼吸すら奪う。
部屋の隅に座り込んでいたマリーニエの喉から吐息のような悲鳴が漏れた。
体温を奪い、身体から水分を奪いさる暴虐の風。
「あ。ああ……」
見開かれた目が乾くのも気付かず、マリーニエは一点を見つめ続ける。
視線の先。
糸の切れた人形の様だったリゼイラの様子が、まるで変わっていた。
上を向いていく顎先に従って巻き上がる髪が肩を泳ぐまでに落ち着く。その色は、柔らかな亜麻色から劇的に変わる。
天を仰ぐ瞳も、青灰色から更に青味が強まっている。
輝く金色は小窓から降り注ぐ月光を弾き、金色に映える瞳は蒼空の色。
か細い身体をしていた子どもの姿はそこにはなかった。
けれど、表情豊かな優しい雰囲気の子どももいなかった。
表情をそぎ落とした容貌は、硬質で玲瓏だ。
過ぎた美貌は恐怖に繋がりやすい。
冷めた蒼の瞳に無感動に見つめられて、マリーニエは喘ぐように喉を上下させて壁に背をはり付ける。
怖い。
何も考えられず、そればかりが身体から思考までを支配する。
その余りの重圧に耐え切れず気を失った。
倒れこんだ令嬢には欠片の興味も示さずに金色の天上人は膝の上に力なく横たわっている人間に手を差し伸べた。
「癒して」
囁くような声は、かすかに嗄れていたが不思議と風に散らされずにはっきりと届いた。
血にまみれたデイルの上空に、一瞬だけ透き通る精霊の姿が浮かび上がる。
葉や泉にひそむような小さな者たちではなく、人とそう変わらない姿をしていた。だが、その微細な美しさは比べるべくもない。
「……リ、ゼイラ、殿?」
癒されていく傷に、デイルはゆっくりと身を起こした。
まだ治りきれていない傷から新たに血が流れるが、そんな事に構ってなどいられない。
霞んだ瞳がふらつきながらもリゼイラだった人の姿を見上げた。
痛みに呻いていた口から、切れ切れに驚きが漏れる。
「いず、み、の……」
声と共に幾筋かの血が流れる。
見開かれた目が力を取り戻す。
全てを見透かすような蒼空色がデイルと結びつく。
だが、その目はデイルを見ても何の感情も浮かべない。
身体を起こそうとして失血の酷さから床に倒れこんだ公爵を横目に、夜着からのぞく白い足が立ち上がる。
吹き荒れる風が、動きに合わせるようにして勢いを増す。
表情がないだけであまりに印象を違えた横顔。
デイルは、食い入るようにその顔を見つめる。
この人はいったい誰だ。
ぼんやりと巡る疑問に、重複するように答えが降りかかる。
泉で出会った人、だ。
子爵家の令嬢、だ。
すぐ先程まで、この腕の中にいた少女、だ。
それならば。
それならば、自分が愛した人は誰だ。
一歩、また離れていく人に、混乱しながらも声を掛ける。
「リゼイラ殿!」
それしか、呼ぶ名を持たない。
知っているのは、その名だけだ。
だが、声は風の壁に阻まれたのか。清麗な人は振り返ることも足を止める事もなかった。
まるで何かに囚われているかのように虚ろに足を進めている。
部屋の中程まで進んで、華奢な身体が止まった。
背に流れる金の髪がさわっと風に浮く。
上向いた瞳が、何を思ったのか微かに眇められる。
瞬間、屋根が吹き飛んだ。
土塊と木っ端が部屋中に降り注ぐ。
デイルも降りかかる土ぼこりに目を腕で庇う。
「な……っ」
何だ、と口に出す余裕もない。
吹きすさぶ風の中。デイルは輝く月を見上げて息を呑んだ。
屋根が見事に砕かれていた。
薄い月光の帯が深い青味を含んだ夜空を覆っている。
月に照らされた姿が、より一層美しさを増す。
夜空に消えて行きそうな程、その姿は美しく儚げだ。
覚束ない足で、デイルは立ち上がった。
風に足を取られながら、時折膝を付きながら、デイルは真っ直ぐに進んでいく。
「リゼイラ殿!……っ!?」
叫びながら、か細い腕に手を伸ばした、その時。
真っ白な閃光がその場を支配した。
視界を奪われ、デイルは平衡感覚を失う。
クラクラとする中で、気がつけば壁にもたれるようにして膝をついていた。
何が何だか判らないまま、顔を上げ新たな光景に言葉を失った。
「“凪”」
染み入るような研麗な声音が、その場を満たす。
切り取られた空から舞い降りたのは、柔らかな光。
輝くばかりの黄金に飾られた人影はまるで人形のように立ち尽くす華奢な子どもに慈愛の微笑みを浮かべた。
「凪」
囁くように声は繰り返す。
優しい声に従うように、暴れる風は瞬く間に収まっていく。
「変わらない者、穏やかなる者、静寂をもたらす者。そなたの名だ。“凪”」
謳い上げる声が静かに収束した時、金砂の輝きが小さな背に走った。
複雑な図柄が真白の背に描かれる。光は一瞬で、すぐに消えたが薄っすらとほとんど膚と同化するようにその紋様は残されている。
鳥の翼にも似たそれは、神族の証。
地下に囚われ、名すら与えられなかった子どもに意味ある名が与えられた瞬間だった。
ふるり、扇形の睫毛が月光を弾いた。
明確な意思の光を持って蒼空色の瞳が、宙に留まる人の姿を見上げる。
「……おとうさん?」
たどたどしい単語が喉を震わせる。
竪琴の様に伸びやかで、小鳥のように可憐な声は天上からの訪い人を喜ばせた。
「そうだよ。凪。ようやく逢う事が叶った」
性別を感じさせない神族らしく、父と呼ばれた筈の者も一目では男女とも言えない微妙な美しさを持っている。
何処か誘惑的な眼差しは女性を感じさせるが、落ち着いた笑みを浮かべる口元には男性的な揺ぎ無さがあった。
『旋様』
ふわりと夜風が動き、白透明の精霊が姿を現す。
「ハクランか。久方ぶりだ」
『こうして再びお会いできた事、嬉しく思います』
短い遣り取りの後、ハクランは立ちすくんだままの子ども、リゼイラと呼ばれていた子どもを、新たに凪と言う名を与えられた子どもを見つめた。
「ハクラン?」
精霊の言葉でなく、声を通して意思を伝える子にハクランは安心させるように微笑んだ。
『愛しい子。ようやくそなたの名を呼ぶことが出来る』
「名前?」
『そう。そなただけの名だよ』
リゼイラと言う固体を示すだけの記号ではなく、存在を存在たらしめるための名前。
「アリゼイラの与えた名も美しいが、今まで逢えずに居た父からの最初の贈り物だ。そなたに相応しい名を」
「……凪?」
「あぁ。永久に平穏をもたらす名だ」
穏やかに微笑んでいられるように。安らかに過ごせるように。
溢れるばかりの願いが込められた名前。
片手間にではなく、長い時間をかけて考えられた大切な贈り物。
「凪」
噛み締めるように呟いて、リゼイラは、凪はぎゅっと胸元を握り締める。
『もう一つ、アリゼイラ様から預かっている名をそなたに』
「アリゼイラ……おかあさん」
呟いた凪は、一瞬だけ酷く苦しそうな表情を浮かべた。
痛みを堪えるように、白い額に皺が寄せられる。
「凪?」
訝しげにした旋に、ふるふると首を横に振る。
先を促すようにハクランを見つめた。
こちらも心配そうであった風の精霊は、それでも途中であった言葉を口にする。
『ミルレイア』
ぴくっと薄い肩が跳ねた。
丸くなった蒼空の瞳が、吸い寄せられるようにハクランを見つめる。
『いつか、そなたを迎えに訪れる父上が見失う事がないように願われた名だよ』
隣りあう旋も、幾ばくかの悲しみを乗せて微笑んだ。
「ミルレイア、幸福の導の花。私の、無二の宝だ」
幸せそうな声は、たおやかな調べとなって部屋を流れる。
その時、大きな音が立ち、人間にあらざる者たちは一斉に其方を向いた。
青の瞳に射抜かれた場所に立っていたのは、酷く憔悴した顔の人間。
「……ミルレイア?」
「何だ、お前は?」
折角の親子の邂逅を邪魔された旋が途端に不機嫌になる。
だが、デイルはそんな事に気付かずに凪を見つめる。
困惑の視線を受けた凪は、どうしようもなく俯いた。
「ミルレイア、なのか?あの小さな家の?」
一歩踏み出したデイルに、旋は更に訝しげに表情を歪める。
「何だ、この人間は」
『……これまでの凪様の記録です』
ふわりとした光の玉が渡される。
溶け込んでいったそれを噛み締めるように抱いた旋は、強い憤りの眼差しをデイルに向けた。
「それ以上、近寄るな!」
力ある命令に、精霊たちが即座に反応した。
見えない力に足止めされたデイルが、それでも視線だけは逸らさない。
「それ以上、我が子に近づくな。己の家族によってどれだけ凪が傷つけられたと思うのか」
デイルには反駁の余地すらない。また、言い訳は何一つ言う気もなかった。
罵倒され、恨まれても当然の事を己はしたのだから。
「デイルさま!」
身動き一つ出来ないようにされたデイルに、凪が近寄ろうとするが、その前に父親の腕に阻まれた。
「おとうさん!」
「可愛いそなたの頼みなら、幾らでも聞きたいところだが。こればかりは駄目だ。…しばらくお休み」
白い手が凪の目に翳されると華奢な身体はぐったりと力を失った。
愛おしそうに抱きしめて、厳しい眼差しがデイルに向けられる。
「アリゼイラと凪に免じて、その命ばかりは助けてやろう。だが、二度と凪の前に現れるな。その時は、容赦せず叩き潰す」
掛け値なしの本気の通告にデイルは、動けぬ筈の中で手を握り締めた。
そんな事、納得出来ない。
まだ、話さなければならない事が多くあるのだ。
父親だろうが、何だろうが。
第三者に阻まれる謂れはない。
「……ど、……に」
「ふん、お前なんぞに関係ない。もうここに用はない」
あっさりと背を向ける神族に、デイルは絡め取られた喉を必死で開く。
だが、満足に声も出せないまま、目の前で神族は姿を消した。
その手に、大切な者を抱いて。
残されたのは瓦礫と壊れた屋敷。
そして、何も出来なかった自分。
「ちくしょうっ…」
がっくりとくず折れたデイルの声は、寒空に虚しく響いただけであった。




