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20* 陽だまり

デイルは、上へと続いていく階段を前にして躊躇っていた。

滅多に使用されない階段は、さすがに手も届かないのか固まった埃が隅にたまっている。

朝だと言うのに灰色の空気に満ちたそこは、清々しい風など流れるはずもない。

ライドールと話してから、一睡もせずにデイルはこの場まで来ていた。

さすがに深夜や早朝に押しかけるわけにもいかないと時間が経つのを待っていたのだが、いざとなるとやはり臆してしまう。

それでも、心を決めて足を踏み出した。



小鳥の鳴き声を耳にしながら、リゼイラは膝に当てていた額を持ち上げる。

結局、今日も眠れなかった。

ボーっとする頭が重くて、壁にもたれた背を動かすのも億劫だ。

床に落ちた日の光は朝が来た事を知らせてくれるが、リゼイラはぼんやりとまた目を閉じる。

ちょっと辛いかもしれない。

回らない思考で、緩く考えながらか細い腕で自分の身体を抱きしめた。

だが、力をこめたはずの手はピリッとする痺れと共にぱたりと寝具の上に落ちる。

こぼれるため息すら重い気がする。

苦しいとか痛いとか、辛いとか。

ほとんど感じた事がなかったけど。

何故だろう。

今は、辛いような気がする。

知ってしまったから、かな。

隣りで笑ってくれる人のいる暖かさとか。

優しく労わってもらえる心地よさとか。

……想うだけで幸せになれる人の存在とか。

あまりに沢山の幸福を知ってしまったから、いつの間にか欲張りになっていたのかもしれない。

あの暗い地下の世界が、自分に相応しい場所だったのに。

それでも、自分は幸せなのだ。

こんな状況なのに、レジーナは毎日温かいご飯を持って来てくれる。

いつも少しの時間しかいられない事を謝りながら、それでも笑って話してくれる。

リゼイラは、それがとても楽しみだった。

レジーナの来てくれる時間だけが、いつも鮮やかで一人で過ごす、こうした時間は酷く現実味が薄い。

曖昧な感覚は、五感にまでおよび段々と全てを麻痺させていくようだ。

ふうっと意識的に息を吐いて、まどろむとも言えない漫然とした眠気が全身を浸している。

絡め取られるように意識を手放そうとした時。

聞き慣れない靴音が耳をかすめた。

レジーナの足音ではない。彼女ならもっと軽くてこんなに足早ではない。それにお皿がぶつかり合うようなカチャカチャとした音も混じっているはず。

そんな事ばかり、しっかりと聞き分けている自分にちょっと笑う。

でも、レジーナでなければ誰だろう。

今までこの部屋まで来たのはレジーナだけだった。

真っ直ぐに近づいてくる足音に、遠くない過去の記憶が甦る。

あの暗い地下での生活をおくっていた時も、予期せぬ足音がしてから沢山の事が起きた。

本当に、たくさんのことが。

また、何かが起きるのだろうか。全てを変えてしまうような、たくさんのことが。

じっと身体を強張らせて頑丈な扉を見つめる。

少しばかりの間の後で、軋む金属の音が響いた。

リゼイラは、知らず息を止めていた。



ようやく踏み入れた部屋の中、デイルは一瞬その部屋に居る人を見つけられなかった。

堅い寝台の上には眠っていた痕がない。

視線をそのままずらしていくと壁に接した寝台の隅に丸くなったリゼイラがいた。

ぼんやりとした視線が、それでも驚きを乗せてデイルの方を見つめていた。

薄い夜着だけをまとった姿は、その身体の細さを浮き彫りにする。

華奢などと言うものではない。

両腕などまとめて片手で掴み取れそうだ。

まるで飢え切った猫だ。

一歩、一歩慎重に近づいていく。

怯えたリゼイラを刺激しないように。

「朝早くに、失礼します」

極力優しい声を出したつもりだが、リゼイラは更に身体を強張らせる。

丸まった膝の間から覗いた瞳は戸惑うような光が揺れている。

憔悴しているのはデイルも同じだったが、リゼイラは更に消耗しているように見えた。

ぼんやりとした表情は、初めて出会った時の可憐さをそぎ落としている。

そうさせたのは自分だ。

悔恨に唇を噛んで、リゼイラの傍に膝をついた。

「貴方に謝りたくて来たのです。一晩、考えました」

考えた。今度こそ間違わないように。

不思議そうなリゼイラの眼差しが痛い。

ライドールの言葉と己の見た光景を何度も反芻しながら、考えた。

そして、真実など見つからなかった。

ある訳がない。

真実など見ていなかったのだから。

愚かな自分ばかりがそこにいる。

「許して欲しいとは思いません。けれど謝罪だけでもと思って…」

言いながら、ただの自己弁護だな、と自嘲う。

今さらなのだ。本当に、ここまで来なければ何一つ気付けなかった自分。本当にいまさらでしかない。

苦い表情で俯いた額に、ひやっとした何かが当った。

ひんやりと、けれど心地の良い何か。不思議に思って顔を上げると、パッとそれは引っ込んだ。

デイルの前で、リゼイラが困ったように自分の手を引き寄せていた。

途切れた言葉と吸い込まれるような青灰色の瞳にデイルは呑まれてしまう。

固まってしまった公爵に、リゼイラは更に困ってしまう。

小さな頭の中は混乱に次ぐ混乱でもう何が何だか判らない。

どうしていきなりデイルさまがいらしたのだろう。

それに、どうして謝るのだろう。

謝らないといけないことなんて何かあっただろうか。

上手く頭が回らない。

それでも、デイルさまが苦しそうな顔をしているのは嫌だ。

触っても嫌がられないかな。

そんな不安と共に、一度伸ばした指を再度差し伸べる。

サラリとした乾いた肌と堅く張った骨の感触。

どちらもリゼイラには持ち合わぬもの。

くたびれているような目の下あたりをそっと親指の腹で撫でる。

暗く色の着いたそこは撫でると一瞬だけ薄くなって、少しでも消えれば良いと無心に繰り返す。

沈黙の中、二人を繋ぐのはリゼイラのか細い手だけ。

「……あ、なたは」

目を閉じて、小さな手の温もりを感じていたデイルの口から掠れた声が切れ切れに漏れた。

ピクッと指先が振るえ、慌てたように遠退く。

離れていく手を掴んだのは、大きくしっかりとした大人の男の手。

力強く握られた驚きに思わず目を閉じると、戸惑うように手の力が緩められた。

それでも、リゼイラの手はデイルの拳の中だ。

冷えた自分の手に流れてくる熱が、怖い。

心臓の音と一緒に全てを飲み込んで行ってしまいそう。

「貴方は、優しすぎる」

搾り出すような声にリゼイラは、ただ首を傾げるしかない。

優しいのは、ライドールやレジーナ。

自分が優しいなんて思わない。

だって、何をすれば優しくなれるのかも判らないのに。

眉を下げて困惑するリゼイラを、デイルは苦笑して見上げる。

優しくて、優しすぎて、優しさの意味すら知らない人。

怖がられないように、ゆっくりと手を伸ばして少しやつれた頬を撫で擽るように流れる髪を掬った。

線の細い亜麻色がデイルの指に絡んで、すぐに解けていく。

「本当であれば、すぐにでもこんな所から出して差し上げるべきなのですが。まだ確固たる証拠もない中でお出しすれば、貴方にとって辛い事となるでしょう。本当に言えたことではありませんが、私を信じてくれないでしょうか?」

自分の償いとして、何一つ不自由なく元の生活に戻れるようにする。

子爵家にも戻さずに一生をかけてでも償う。

そんなデイルの決意までは判らなかったけれど、リゼイラは素直に頷いた。

デイルさまを信じていればいいのなら、それはとても簡単なこと。

そして、嬉しいことだ。

小さく上下した顎に、デイルはホッと息を吐いた。

嬉しげな微笑みはリゼイラを幸せにする。

ふんわりと儚げな花のような笑みを浮かべたリゼイラに、デイルは目を見張り次の瞬間、衝動的に抱きしめていた。

驚いたのはリゼイラで、初めての抱擁に大きな目が更に大きくなっている。

「あの時の誓いをもう一度。今度はこの命にかけて誓います」

デイルの声が、心臓の鼓動と一緒に振ってくる。

少しだけ早い拍動は、腕の中の温もりと一緒にリゼイラを安らがせてくれた。

久方ぶりに、健やかな眠りへの誘いがリゼイラを包み込む。

「貴方を守りますから」

強く噛み締めるような言葉を、嬉しく思いながらリゼイラは眠り込んでいた。




抱きしめたまま腕の中で身動き一つないリゼイラに、デイルが慌てて身体を離すと可愛らしい寝息が聞こえて、思わず脱力してしまった。

何かまたやらかしたのではないかと動揺した自分が滑稽で、腕の中のリゼイラが愛おしかった。

もうここまで来たら開き直る。

ずっとリゼイラを愛おしいと感じていた。

それが、あの泉の方に似ているからなのかどうかなんて判らないけれど。

今、この腕の中で無防備に眠る少女に何がしかの愛情を抱いているのは確かなのだ。

無理に否定し続けた結果が、こんな歪みでしかなかったのなら取り繕う事は害にしかならないのだろう。

こんこんと眠るリゼイラの額に口付けを落として、これは親愛の印だが、そんな訂正を自分に入れる辺りまだ完全には開き直れて居ないらしい。

ともあれ、もっとゆっくり眠らせてやらねば、とデイルの胸に倒れこむようにして眠っている身体を抱え上げた。

「……っ軽い」

あの誕生会の時にも抱き上げたが、あれは衣装の重さがほとんどだったのだ。

予想外の軽さに勢い込んだ分だけよろけそうになった。

これならリゼイラの半分の年齢の子どもの方がまだ重いかもしれない。

噛み締めるようにぎゅっと抱き寄せて、再度己自身に誓った。

今度こそ守る。

己の名と命にかけて。

寝台に横たわったリゼイラの頬を撫で、ご令嬢の寝顔を見るのも無作法だろうと立ち上がろうとして中腰で止まった。

自分の服の胸から白い腕が伸びていた。

見下ろせば、リゼイラがしっかりと握っている。

微笑ましいやら困ったやらで、とりあえず起こさないように手を外そうと格闘してみる。

だが、結局どれも失敗に終わって諦めて枕元の床に座り続けることを選んだ。

一日くらい、リゼイラのために使っても悪くはないだろう。

もぞもぞと寝返りを打ったリゼイラは、デイルの方に身体を寄せて身体を丸める。

「良い夢を……」

照れくささに顔を赤らめながらも、そう囁いてデイルは微笑んだ。

やがて朝食を運んできたレジーナが見たのは、寝台に顔を寄せ合うようにして眠る公爵とリゼイラの姿だった。



それからデイルは仕事の合間を縫っては、こっそりとリゼイラの元を訪れた。

やはり、あまり大っぴらに行く事は出来ないのだが、今までの分を取り返すように通い詰めている。

最初は、やはり戸惑ってばかりのリゼイラだったが最近では、一緒に画集を開いたりと仲睦まじく過ごすようになった。

やっぱり何があってデイルが怒らなくなったのかリゼイラには判らない。

不思議ではあったが、笑ってくれるデイルが嬉しくて気にすることもなかった。

公爵が訪れるのは、たいていが夜の遅い時間。

だから、あまり長い間一緒に過ごす事は出来なかったけれど、短い時間でも楽しい時を過ごせる。

「今日は帰ります。……良い夢を」

デイルはそう言って、帰り際にいつもリゼイラの額に口付ける。

リゼイラはその意味を判っていなかったが、そのおまじないをしてもらうと不思議とちゃんと眠る事ができた。

きっととっても凄いおまじないなのだろう。

だから、その日もやっぱり同じように額に唇を寄せられた後、屈めた身体を起こそうとする公爵の顔に手を伸ばした。

「どうかし……」

不思議そうなデイルの頬に、ちょんっと柔らかい感触が移る。

寝台の上で膝立ちになりながら贈られた口づけ。

理解すると同時にデイルの顔は真っ赤になった。

ただの就寝の挨拶だ。

そう判っているのに、何をこんなにも動揺しているのか。

自分を叱咤しながら慌てて立ち上がって、ニッコリ笑っているリゼイラに赤い顔を更に赤くした。

「あ、ありがとうございます。それじゃ、これで!」

もう自分の言っている言葉すらわかっていない。

フラフラと出て行ったデイルの背中を不思議そうに見送って、寝台の中にもぐりこんだ。

もう眠るのは怖くない。




リゼイラが唐突にもたらされた幸福に、戸惑いながらも嬉しく思っている頃。

全く、正反対の気持ちに怒りを浸透させている人物が居た。

デイルの異母妹である、マリーニエだ。

夜闇に満ちた部屋の中、手燭の明かりだけで公爵家のご令嬢は憤激にそまった瞳で侍女を睨みつけていた。

「どう言うこと!」

投げつけられた銀の手鏡が侍女の額をかすめて毛足の長い絨毯の上に転がる。

「お兄様があの女の所に通っているなんてっ。あり得ないわ!」

金切り声で詰る声にも、侍女は表情をゆるがせない。

ここで何がしかの反応を見せれば、マリーニエが更に逆上することは長い経験からわかっていた。

「本当に、何て女かしら。まだお兄様を誑かすなんて……」

ブツブツとした囁きが暗い部屋を満たす。

「ちゃんと退治しなくては。これ以上のさばらせて置くなんて許せない」

常軌を逸した光を瞳に乗せてマリーニエは立ち上がる。

何かを考え始めた令嬢の背後で、長く仕えてきた侍女は悲しそうに目を伏せていた。



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