19* 採光
おねむり、おねむり
かわいいわこよ
おねむり、おねむり
いとしいわこよ
かぜのゆりかご ゆらゆらゆれて
おねむり、おねむり
やさしいゆめにおねむりなさい
何か小さな物音がしてリゼイラは、ふわりと目蓋を揺らした。
横たわった視界にぼんやりとしながら、もう一度目を閉じる。
ひらひらと目蓋の裏に赤い残像が散る。
この部屋に来てから、良く眠れない。
うつらうつらとすれば赤い花の散る夢を見る。
そうして悲鳴をあげて飛び起きるのだ。
何を見たのか、起きた時にはわずかも覚えてはいない。
全身が汗で濡れ、身体は冷え切り、それなのに吐く息は喉を焼こうとしているように熱い。
幾夜もそれを繰り返せば、いつしか眠りは恐怖になる。
夢を見るのが怖い。眠るのが怖い。
怯える心は眠りを遠ざけ、慢性的な疲労を肉体に与える。
一人、幽閉室で過ごすようになって幾夜か。
寝台に起き上がって、鉄格子のはまった小窓から背伸びをして外を見る。
どうやら夜のようだ。
ぼんやりしながら寝台に戻って、膝を抱えて丸まる。
最近、精霊たちが静かだ。
まるで何かを恐れているかのように、それぞれの本体から顔を覗かせようとしない。
ハクランとも何日も会っていない。
いったい何が起こってるのだろう。
まるで惰性のように考えて、けれど本当に知りたいとは思えない。
ただ、ハクランと会えないのが寂しい。
『会いたいな…』
呟いて、無意識に思い浮かべたのは精霊の顔ではなかった。
白い額に不似合いな皺が寄る。
棘を飲み込んだような痛みを感じて、リゼイラはぐっと唇を噛んだ。
『デイルさま』
労わるような微笑みが浮かんだ、すぐ後にあの冷たい視線に切り替わる。
悲しみに浸された中で、ふっと微笑んだ。
でも、もう会うこともないから。
あの泉での事だけ、覚えておこう。
とっても素敵な思い出をもらったから、それだけ大事にしよう。
デイルさまの笑顔だけ、覚えておこう。
膝の間に額を乗せて笑んだ表情が、酷く大人びていた事をリゼイラは知らない。
幼い姿でありながら、それは余りに深い微笑みだった。
滾々と湧き出る泉。
そこは、公爵家の敷地内にある小さな泉だ。
庭から外れた場所にあるため、ほとんどの者はその存在にすら気付いていない。
静寂に満ちた泉には、一つの影。
高い背を木の幹に寄りかからせているのは、この館の主人。
いつもはきっちりと上げられている前髪が、長く目元を覆っている。
深い知性と同時に若さが持つ情熱が混在する瞳は、今はわずかに曇っている。
組んだ腕はまるで他者を拒絶するかのようで、またその腕に抱くものを待ち望んでいるかのようでもある。
数日、デイルはこの泉に来る事が出来なかった。
心は何度も馳せていたが、最近の一連の出来事に身体が空く事はなかった。
結局、あの苦しげな表情を見たのが最後となってしまった。
噛み締めるように思い出していた悲しげな蒼い瞳が、不意に泣き濡れた青灰色の瞳へと変じた。
慌てて指で触れた金色の髪を思い浮かべるが、それもふんわりとした亜麻色の髪へと移ろう。
これではまるであの少女に恋しているようではないか。
そんな事を思って、ハッとする。
「ば、馬鹿な事を……!」
自分の考えに動揺したせいか、思わず声が漏れた。
確かに、あの令嬢に同情してはいる。
信じていた叔父に裏切られ、ぬくぬくとした生活から一変しての軟禁生活だ。
今も泣き暮らしているかもしれないが。
狭く薄暗い、冷え冷えとした部屋の中で涙を流すリゼイラを想像して、デイルの胸が小さくなく痛んだ。
だが、同情と憐れみで己の決定を覆すなどあってはならない。
それは上に立つ者の責任であり、己の地位を守るための鉄則だ。
勿論、過ちであれば頭を下げることも厭わない。
「……過ちであって欲しいのか、俺は」
リゼイラの前で謝罪する自分をごく自然に思い浮かべて苦笑する。
自嘲気味に片手で髪を梳き上げた時、がさりと繁みがなった。
一瞬、期待したデイルだったが、その後顔を覗かせた姿には驚きを隠せなかった。
「申し訳ありません、お邪魔させていただきます」
「何用だ?ライドール」
そう尋ねて、用など一つしかないかと呟いた。
ライドールがここまで来て話したいことなど、心当たりは一つしかない。
「ご令嬢の無実を訴えにでも来たか」
不思議とこぼれた声は、疲れたような憐れむような響きを含んでいた。
公爵のそんな様子にライドールも、わずかに違和感を感じたがすぐに首を横に振った。
「いいえ。証拠もない状況で何を言っても意味はないと存じます」
凛とした返答にデイルは、背を預けていた幹から身体を起こす。
「それでは何の用だ?」
「一つ、お伺いしたいことがあってまいりました」
伏せ目がちに言葉を紡いでいたライドールは、すっと眼差しを上げると臆することなくデイルを見つめる。
ライドールのこんな所をデイルは買っていた。
普段は出しゃばらず、奥に控え、事があれば臆することなく意見する。
ベルリードとは違う意味で、得難い人間である。
「カンターナ子爵は、リゼイラ様のお身柄をお引取りになられるのですか?」
自分の考えを読ませない淡々とした質問に、デイルは一時どう応えるべきか迷う。
だが、結局真実のままを伝えた。
令嬢に忠誠する従僕がどんな反応を見せるのか、知りたくもあった。同時に重苦しい想いを吐き出したくもあったのだ。
その言葉を聞いていたライドールの反応は、デイルのどの予想とも違っていた。
まるで何処かで悟っていたかのように終始冷静な表情を崩さなかった。
訝ったのは公爵のほうだ。
「お前、何故そんなに冷静でいられる?あのベルリードですら、怒り狂っていたぞ」
「ベルリード様は、幸せにお育ちになったのですね」
羨むでなく、揶揄するでなく。
ライドールは、心から微笑ましいと言った表情を浮かべた。
「お前はベルリードの過去を知っているのか?」
知っていたらそんな言葉は出てこないはずだ。
ベルリードは、貴族によって家族を奪われ、辛苦を舐めて市井から這い上がってきた人間だ。
幸せなどと言える育ち方などしていないのは、彼を引き立てたデイルが一番良く知っている。
「えぇ。お母上を何処かの貴族の妾に取られ、その後は兄弟たちと病の父上を支えながら暮らし、学問なさったと聞いておりますが」
平然と返されて、デイルは微かに怒りを覚えた。
「ならば、どうしてベルリードが幸せだったのだと言える」
「お幸せでしょう。家族は、一番の味方はいつだって傍らにいらっしゃったのですから」
家族が一番の敵である苦痛など、知らないのなら幸福な事だ。
ライドールは静かに話しだす。
「私は、貧民層の生まれです。あそこは本当に酷い所でした。子どもは死んで当たり前。むしろ食い扶持が減るだけ有難い。そんな言葉が子守唄の様な場所です」
初めて語られるライドールの過去にデイルは口を閉ざした。公爵であるデイルの耳には決して入ってこない世界の話だった。
「親が無条件に子どもを愛するなど幻想です。子どもと自分、どちらか一方しか生きられなければ、迷わず我が身を選ぶ。それが当たり前。生きるに困った親が子を売ろうと殺そうと、それが当たり前に通る場所です」
そんな陰惨な体験を述べた後、ライドールはニッコリと微笑んだ。
「ベルリード様はお幸せです。子爵様はリゼイラ様のただの伯父。手駒を切るなど当たり前の事でしょうに」
バンッとライドールの身体が強い衝撃に揺れた。
殴られた拍子に切れた唇から血が流れる。
デイルは怒りにそまった目でライドールを睨みつけた。
「お前は!あれだけ、心配しておきながら。当たり前だとその一言で片付けるのか!」
家族に見捨てられた少女を、たったそれだけで切り捨てるのか。
激昂する公爵に、ライドールはため息を一つ吐く。
「そんなに心配して下さるなら、もう一度真実の奈辺をお調べ下さい」
「……それが目的か」
一瞬で、冷静さを取り戻したデイルが冷ややかに問えば、いいえと首を振られる。
「デイル様は、リゼイラ様を何不自由なく幸福に過ごして来たご令嬢だとお思いなのでしょう」
「違うと言うのか?」
「はい。あの方が幸せな生活をして来たなど私には信じられません。むしろ、あの目は私と同じ…」
同じ物、そう言いかけてライドールは言葉を途切れさせた。
同じではない。荒んだ傷など欠片もなく、ただ透明なあの瞳。
「ライドール?」
言いかけたまま黙る従僕に、デイルが訝しげに名を呼ぶ。
「失礼しました。リゼイラ様の足をご覧になられましたか?あの方は歩く事に慣れていらっしゃいませんでした。筋肉などほとんどついていない枝のような足をされていました」
「ほとんど動かずとも生活できたのだろう。子爵家で贅沢に過ごしていたのなら不思議ではないだろう」
「いいえ。贅沢に過ごしてきたのであれば、あのような足になるはずはありません。リゼイラ様のお歳になれば社交会へのご参加を考えて舞踊の練習もなさるでしょう。衣装に合わせた華奢な靴も履きこなさなければなりません。…マリーニエ様を見ればお分かりのはずです」
言われて、デイルはぐっと言葉に詰まった。
確かにマリーニエは、公爵家の娘として贅沢な暮らしを当たり前のように過ごしている。
だが、決してリゼイラのように頼りない細さではない。
歩けないほど足を痛めた事などない。
「リゼイラ様は、恐らく長く歩くことが必要ではなかった。もしくは、許されなかった」
「どう言うことだ?」
答えを想像しながらも、デイルは聞かずには居られなかった。
「私は、リゼイラ様と良く似た身体をしている人間を知っております」
ライドールの目は、デイルも知っているはずだと言っていた。
血色の悪い肌、やせ衰えた手足、そして外界の汚濁を全く知らないあの瞳。
一つ一つを思い返して、デイルは符合していく欠片に苦しげに眉を寄せた。
あぁ、そうだ。知っている。そんな病み衰えた姿になる人間たちを。
幾度か、王城などで見かけたことがある。
リゼイラのように無垢な瞳の落ち主はいなかったが。
それが、それこそがリゼイラが幸福であった筈がない何よりの証。
「……幽閉、監禁。長く拘束された人間は、靴など履きはしません」
静かに悲しむライドールの声は、夜の空の下で厳然たる真実をデイルに突きつけた。
「歩く事など、許されません」
痛みを知らない薄い皮膚。
日の強さを知らない白い足。
それは柔らかな羽毛だけを踏んで生きてきたと言う事ではない。
それは優しく守られた証ではない。
自らの足で、歩く事も許されなかったと言うこと。
自らの体で、日の輝きを知る事も許されなかったと言うこと。
薄い肩、細い腰、痩せた腕、軽すぎた身体。
何故、気付かなかった。
何故、見ようとしなかった。
あんなにも、あの子の身体は告げていた。
それまでの過酷な日々に悲鳴を上げていたのに。
愕然と表情を落とした公爵にライドールは、目を伏せる。
「お願いですから、もう一度お考え下さい。リゼイラ様は、誰かを傷つけるような方ではありません。自らの境遇を不幸であるとも思っていらっしゃいませんでした。お庭に出る事がお好きで、甘い物がお好きで、誰かが微笑んでくれる事がお好きだった方です」
どうかお願いします、静かに告げてライドールは泉から立ち去った。
一人残されたデイルは、長く身動きせずにいた。
齎された事実は重く、己の愚かさこそが罪だったのだと突きつけられた。
苦悩の夜は更けていく。




