18* 温室
花が散っている。
黒の空からひらひらと深紅の花弁がヒラヒラと。
小さく狭い場所に座り込んで空を見上げていた。
ぺったりと両手をついて、まるで見惚れるようにして。
赤光の花びらは、降り注ぐ。
差し伸べた白い手に落ちた花びらは、どろりと融けて逝く。
それは、赤く膚を汚した。
その名前は…。
ひゅっと喉をならして目を覚ますと初めて見る部屋にいた。
眠っていた自分に戸惑いながら、ゆっくり身体を起こして周りを見回した。
今までの部屋よりも狭いけれど小ざっぱりとしていて、リゼイラにはむしろ安心出来る広さだった。
幽閉と言っても、身分ある人を軟禁するための部屋らしい。
取り付けられた小窓に鉄格子が嵌められているのが、初めて見る造りだった。
ぼんやりする頭を抱えながら固めの寝台から降りる。
服はゆったりした物に着替えさせられていた。
懐かしい麻の感触に、少しだけホッとする。
でも、これからどうなるのだろう。
首を傾げながらも、すぐに考えるのを止めた。
考えても仕方がない。また、あの日々に戻ったのだと思えば良いのだろう。
地下の部屋よりもずっと気持ちの良い所だから、そう大変ではないと思う。
寝台と小さな円卓と椅子が置かれただけの部屋だが、リゼイラは贅沢な部屋だなと思っていた。
閉じ込める人にどうして机が必要なのだろう。
公爵様のお屋敷だから、こんな場所も綺麗にしているのだろうか。
立ち上がっても何もすることが浮かばずに、ちょこんと寝台の隅で膝を抱えた。
あの暗い生活を過ごしていた時のように。
顔を埋めて目を閉じると、本当に何もかもがあの頃に戻ったような気がした。
闇の中で、思い起こされるのはマリーニエの悲鳴。
デイルの冷ややかな瞳。
手に触れた血の温度。
そこまで思い出して、ビクッと顔を上げて慌てて自分の手を見つめた。
赤く汚れていた手は拭われたのか、血の染み一つ残っていない。
何度も手を握っては開いて、白い手のひらを何度も見つめて。
ようやく安心したのか、倒れこむように長く長く息を吐いた。
良かった。良かった。赤くない。
噴出した汗にぎゅっと身体を縮めて言い聞かせる。
大丈夫、赤くない。この手は、あの時みたいに汚れてはいない。
……あの時?
あの時っていつ?
自分の戸惑いに、リゼイラは考え込んだ。
気付いた時には地下で生活していた自分の手は、いつでも垢で汚れていた。
夜闇に浮かび上がるほど白く磨かれた手になっているのが、むしろ異質なのかもしれない。
けれど黒く汚れた手をしていたけれど、赤い色にそまった記憶はない。
『……いたい』
蹲ったまま伸ばした手を額に寄せる。
ズクズクと疼く頭を抱えて、噴き出す汗に浅く息を継ぐ。
頭が痛い。気持ち悪い。
疑問は苦痛に消えていく。
込み上げてくる吐き気を必死で飲み下していると徐々に不快な痛みは消えていった。
遠くなる耳鳴りに、はぁと小さく息を吐いた。
その時、二つの足音が聞こえ大きく錠が開く音が響いた。
なんだろう。また、どこかにつれていかれるのかな。
痛みに上手く回らない頭を必死で巡らせて、閉ざされていた頑丈な扉を見つめる。
「……リゼイラ様!」
小さな悲鳴の声は、リゼイラに喜びを感じさせてくれた。
転がるように駆け寄って来てくれたのはレジーナだ。
いつも綺麗に結っていた髪が解れているのを初めて見た。
寝台の隅に痛々しく蹲るリゼイラを見つけたレジーナの方は、明朗な輝きを持った瞳を涙で曇らせている。
「すみません、リゼイラ様。私が、私が先走ったりしなければ良かったんです」
ぼろぼろと透明な雫が頬を伝っていく。
重い体を起こしてレジーナの頬をそっと拭う。
拭っても拭っても濡れる頬にリゼイラはちょっと困ってから微笑んだ。
「あぁ、すみません!私が泣いてもしょうがないですよね。リゼイラ様をお慰めするために来たのに。駄目ですね、私ってば」
泣き笑いの表情でレジーナは自分で頬を拭う。
「顔色が良くないですよ、リゼイラ様。横になっていてください」
優しい手のひらに促されてリゼイラは先程まで眠っていた寝台に再度横になる。
浮いた汗を柔らかい布でそっと叩くように拭いてくれる感触が心地良い。
短い間だったのに、いつの間にか誰かといる心地よさを知ってしまった。
こうして傍に居てくれるだけで幸せだ。
「リゼイラ様……、マリーニエ様の事ですが」
ぴくりとリゼイラの手が動いた。
言い難いのか数瞬だけ優しい侍女は視線を揺らした。
それでもマリーニエの事は気になって、リゼイラはジッと見つめて先を促す。
「傷は大したことはないそうです。痕も、残らないでしょう、と」
その言葉を聞いてリゼイラはホッと微笑んだ。
良かった。大したことがなくて。
「……リゼイラ様」
労わるような微笑みにレジーナが眉を寄せた。どうしてこんな時に人の心配などが出来るのだろう。
「いいえ。何でもありません。ゆっくりお休み下さい」
何か言いたげなレジーナに、不思議そうな顔をしながら目を閉じた。
日が暮れていく。
レジーナは、それから時間の許すまでリゼイラに付き添っていた。
「公爵様、子爵様からの返書が届いていますよ」
騒然とした日から一日が経ち、煩雑な処理を、未消化の気持ちを晴らすかのように行っていたデイルは寝不足で沈んだ目でベルリードを迎えた。
「眠らなかったんですか?」
責めるような声音を無視して渡された封書の蝋を破る。
どうせ、内密に穏便に済ませて欲しいという嘆願書だろう。
リゼイラは子爵の実の娘ではないが、見たところ大事に育てられた令嬢のようだ。
これからの事を考えても、下手な傷はつけたくないだろう。
重いため息をかみ殺しながら、無駄に贅沢な飾りが縁を彩っている封書を開く。
面倒くさそうにそれを読んでいくデイルの横で、ベルリードは処理済の書類を仕分けていく。
いくつか未処理の書類が紛れ込んでいるのも、選り分けておく。
普段ならここで小言の一つも入るのだが、今そんな余裕がないことは判っている。
一山を片付け終わろうとした時、突然デイルが騒然と椅子から立ち上がった。
重厚な椅子が、衝撃で床に転がっている。
「な……、どうしましたか?」
普段の落ち着きをかなぐり捨てたデイルの様子にベルリードの方が驚いた。
「あの男……」
唸るような低い声がデイルの怒りを余さず現している。
か細い音を立てて、封書が握りつぶされる。
「子爵の要求は何だったのですか?」
そんなに不遜な物でも送られて来たのだろうか。
お姫さまの身柄と引き換えに金貨か名誉を引き合いにだすのは、わかりきっていたはずだが。
あの男に品性などデイルも求めていないだろう。
だが、今デイルは心底怒っていた。
一体何に。
困惑するベルリードに、公爵は無言で拳の中の封書を渡した。
既に塵と同じような状態になっていたが、読む分には支障はない。
丁寧に皺を伸ばして達筆な字が踊る返書を読む。
それにしても誰の代筆だろうか、そんな馬鹿な感想は途中まで目で追っていく内に吹き飛んだ。
「な、んですか、これは」
ベルリードの声が震えた。
「何ですか、この返書は。仮にもご自分の姪御さんでしょう!それをお好きなようにご処分ください、とは。あの男家族の情もないんですか!」
その返書の文面には、ただの一文もリゼイラの身を案じる物は含まれて居なかった。
ただ自分とは関係ない事柄だ、一度そちらに嫁に出した身だ、そればかりが繰言のように書かれている。
「どうやら、思っていた以上に腐っていたらしいな」
憤激するベルリードに対して、デイルは何かが突き抜けたらしい。
不気味なまでに平静な声で応対する。
たった一言で良い。
そこにリゼイラの身を案じ、庇おうとする言葉が一つなりと含まれていると思っていた此方が甘かったのか。
身柄の引渡しの条件によって、確かにデイルは子爵の失脚の足がかりにしようと目論んではいた。
だが、たった一言。
たった一言で良い。家族としての情愛を見せてくれれば、リゼイラは子爵家に無条件で引き渡しても良いと思っていた。
子爵はそんな密かなデイルの想いを見事に粉砕してのけた。
もしデイルであれば、どれだけ苦手にしていようがマリーニエに何かあれば何らかの手は打つだろう。
家族とは、そう言うものであると考えている。
一人が窮地に立てば無条件で手を差し伸べるのが家族である筈だ。
こんなにも簡単に切り捨てられるような存在ではない。
「……リゼイラ様のご処分は、どうなさいますか」
一時、感情に支配されたベルリードはすぐに自分を取り戻した。
「しばらくは今の状態のままにしておくしかないだろう。子爵の手に返すわけにもいかない」
渡したが最後、どうなるか。デイルには想像もつかないが、リゼイラにとって良いことではないだろう。
色々と忙殺された後で、随分と感情が落ち着いてきた。
そうして、もう一度己の下した判断を冷静に見つめ直す。
間違ってはいないはずだ。
公爵家の者に軽傷とは言え怪我を負わせたのだから、幽閉措置を取るのは正しい判断だ。
そう思いながらも、誕生会の時に泣き震えていた姿が頭から離れない。
幽閉室は、時に精神を病んだ者を隔離するような部屋である。
屋敷の最上階、そして最も北に位置している。
日が余り差さず、狭い部屋の中での窮屈な暮らしだ。
あの少女に耐えられるだろうか。
抱き上げた時の軽さを思い出して、思わず自分の手を見つめた。
そうして、名前を呼んだ時の嬉しそうな笑顔を思い出す。
あんなに無邪気に微笑んだ子どもが、義妹を傷つけたのか。
だが、リゼイラ自身の考えでの行動だとは思えない。恐らく裏で糸を引いていたのは子爵だ。
一晩たってようやく頭が回転してきたらしい。
当たり前のことに今さら思い至って、恥ずかしくなる。
昨夜の自分がどれだけ動揺していたのか、自覚すると強い羞恥心を感じた。
とりあえず、リゼイラがまだ幽閉と言う立場は変わらない。何にせよ、罪は犯したのだから。
それでも一度きちんと話し合う必要はあるだろう。
「あぁ、ライドールとレジーナはどうしている?」
昨日、凄い剣幕で談判にやってきた従僕を思い出してベルリードに尋ねる。
「二人でしたら、リゼイラ様についてますよ。何がそんなに気に入ったのか判りませんが」
肩を竦めたベルリードに、わずかに苦笑を浮かべる。
子爵の事で、少しばかり同情心は芽生えたようだが、まだ良い印象は持てないらしい。
一度、自分の目で見極めた事を簡単に撤回するような男ではないから仕方がないだろう。
「今度、また会ってみるといい。新しく見えて来る物があるかもしれない」
半分自分に言い聞かせるように呟くと、側近は少し考えるようにして頷いた。
「落ち着いたら、お顔を見に行かせて頂きますよ」
歩み寄りを見せたベルリードに、同じように頷き返しながらデイルは今日の仕事に取り掛かる。
まだ、気付いていない。
リゼイラは狭い部屋の中だ。
赤い花が咲いている。
まるで絨毯の様に一面に。
空は黒くて、星ひとつも輝いていない。
あぁ、夢だ。
不思議に冷静な部分がそう判断している。
そう夢なんだ。
一歩踏み出すたびに、足の裏で花が潰れ紅い液が滲み出す。
足跡が水溜りとなって、転々と後に続いていく。
遠くに誰かが横になっているのが見えた。
眠っているのか。
横たわった場所から、花がつぶれて赤い川がここまで流れて来た。
ぼんやりとした感覚のまま、一歩一歩近づいていく。
暗闇の中なのに、不思議と花とその人の姿は見えた。
赤い流れに足を浸して、横たわった人の直ぐ近くまで来た。
もう顔が見えても良い距離。
その人は、花と同じ赤い服を着て、胸の上で手を組んで眠っていた。
ふわふわとした髪が、肩から胸へと流れている。
静謐な表情で眠るその人の顔は。
リゼイラは、悲鳴をあげた。