17* 剪定
いつかのようにリゼイラは、マリーニエの背中を追いかけていた。
綺麗な絹の裾を見つめながら、小走りについていく。
部屋に訪れたマリーニエは、驚くリゼイラに微笑みながら告げたのだ。
「レジーナなら用を言い付かったようですわよ。温室にいらっしゃるとお聞きして、この前はご案内できなかったですでしょう。だから、是非ご案内させてくださいな」
温室に行く事は、さっき決まったばかりの事だ。
レジーナとライドールしか知らないことだから、きっと二人がマリーニエに伝えたのだろうと素直に思った。
それなら着いていっても大丈夫だろう。
にっこり笑うマリーニエの心の裏側を見通すことなど、リゼイラには出来るはずもない。
足早な令嬢の後を置いていかれないように無心に追うだけだ。
「そうだわ。ここはお兄様の執務室がありますのよ。少し、ご挨拶していきましょう」
今思い出したと声を上げたマリーニエに、リゼイラの胸がドキリとした。
夜には会えなかった。
あの誕生会から一度も会っていない。
今までとっても会いたかったのだと、マリーニエの言葉を聞いて今更の様に胸が苦しくなった。
青灰色の瞳を切なく染めて、とくとくと鳴る心臓に手を当てる。
デイルの執務室は、すぐ近い場所だった。
まるで、最初から目的地だったかのようにマリーニエの足取りは淀みない。
廊下の奥にデイルの執務室はあった。他の部屋の扉と比べても立派だ。
飴色に磨かれた扉は、光沢があってリゼイラの目にはとても美しくみえた。
マリーニエは、贅沢品のような扉を無造作に叩く。返事はない。
いらっしゃらないのだろうか。残念だったけれど、少しだけホッとしてリゼイラは戻ろうと一歩足を退いた。
だが、マリーニエは頓着せずに扉を開く。
「お留守かしら。ちょっと待ってみましょう。大丈夫ですわ」
戸惑うリゼイラの腕には、マリーニエのほっそりとした指がしがみ付いている。
半ば無理やり引き摺られるように部屋の中に招き入れられる。
執務室は、すっきりと整っていた。
それでも所々、書類や本が転がっているのが不在の主の名残の様でリゼイラは一つ高鳴った胸を抱く。
雨に叩かれる窓に近づけば、いつかお弁当を広げた庭が見えてビックリした。
いつも、デイルさまはここからお庭を見ていたのだろうか。
冷えた硝子に手を添えて、こつんと額を乗せる。
少しの間、瞳を閉じてふと机の上に目がいった。
リゼイラには良くわからない書類が積み重なっている。
その中、まるでひっそりと隠すように飾られている栞に目が吸い寄せられた。
日に褪せ、黄ばんだ台紙。
薄紙に覆われ、枯れた小花が貼り付けられている。
そっと指を伸ばして、盛り上がった表面を撫でる。
どうしてだろう。
とても、懐かしい。
―…ェイア―
不意に滑り込むように、遠い声が頭を打った。
ひゅっと息を呑んで耳を塞いだリゼイラはぎゅっと目を閉じる。
何。何。誰の声…。
―…ェイア。…レイア―
優しい声が細波の様にリゼイラを浸していく。
― ミルレイア ―
『あ……』
大きく見開かれた瞳は、栞から離れない。
光が分散した虚ろな瞳が青味を増した事に、リゼイラは気がつかない。
『や、くそく、のはな』
無意識に紡ぎだされた言葉が、記憶を刺激する。
誰かが笑ってる。キラキラ、キラキラした光の中で。
……笑ってる。
いっぱい、いっぱい笑って……。
「ぁ……」
喘ぐように開いた口から、か細い音色が漏れた。
誰にも聞き取れないような小さな音。
「リゼイラ様?」
混濁した意識は、堅い声によって引き戻された。
まるで白昼夢から覚めたように、リゼイラの顔から血の気は引いていた。
だが、マリーニエにはそんな事はどうでも良い。
執務室の重厚な机から、かたんと封書を開けるための小刀を取り出す。
何をしたいのか、判らぬままにリゼイラは鈍く光る刃物とマリーニエを交互に見る。
「あたくし、お兄様のことがとっても大事ですの」
静かに話しだしたマリーニエの口元は笑っているのに、何故か恐ろしい。
「お兄様ほど素敵な男性なんていませんわ。他の貴族の男なんて、器量も度胸もまるで駄目。家柄だけであたくしと並ぼうなんて不遜だと思いませんこと?」
問いかけられてもリゼイラには、他の貴族のことなんて判らない。
ただ光る小刀から目が離せない。
「お兄様と会ったのは、幼い頃に数回でしたわ。お母様がお許しにならなくて。けれど、あの日出会ったお兄様は誰よりも素敵でしたの」
うっとりと呟くマリーニエは、その時の事を思い出しているのだろう。本当に幸せそうに見えた。
「公爵の地位に相応しいだけの知識と品格、教養。全てが段違いでしたわ。お庭で、散策していたあたくしに優しく微笑んでくださった事忘れられませんわ」
ですから、蕩けるような甘い声音が一転して凍える冷気をまとう。
「リゼイラ様が嫌いですわ。どうして、あたくしが立てない場所に貴方ごときがいらっしゃるの?」
真正面からぶつけられた憎悪に、リゼイラの足は竦んだ。
今までにも疎まれたり、軽侮の笑いをぶつけられたことはあった。
けれど、マリーニエの感情はそんな生易しい物ではない。
「お兄様の隣りに、どうして臆面もなく立っていらっしゃるの。子爵の娘が、身の程を知らなくてはなりませんわよ。お兄様だって、貴方の事疎ましくお思いになっておられるのに。嫌われている事にお気づきではなくて」
次々に飛び出す研ぎ澄まされた刃のような言葉は、リゼイラを過たず切り裂いていく。
嫌われていた?疎まれていた?
だから、花嫁ではないと仰った?
だから、もう泉にはいらっしゃらなかった?
呼吸まで止めて、青白い肌がさらに色を失っていく。
強張った表情のリゼイラに、不意にマリーニエが笑んだ。
「ですが、お兄様はお優しいからリゼイラ様にそんな事仰らないでしょう。だから、こうするしかありませんの」
マリーニエが手にした小刀が、振りかぶられる。
鋭い刃の光に呑まれたように、リゼイラはその輝きを見つめるしか出来なかった。
ザッ……!
絹を裂き、白い肌から血が飛ぶ。
リゼイラは宙を舞った赤い飛沫に、表情を失い目を見張る。
ポタポタと落ちる血は、マリーニエの腕から滴っている。
マリーニエは、自らの腕を刃物で切り裂いたのだ。
数瞬自失していたリゼイラだったが、ふらりとマリーニエがよろめきながら更に振り上げる小刀を慌てて取り上げた。
抵抗するマリーニエから、刃物を手放させようとリゼイラは必死だった。
自分の顔や手に血がベッタリとついたことにも気がつかない。
やっとの思いで、刃物から手を離させた時、マリーニエは一瞬だけ暗い笑みを浮かべた。
そうして、部屋の扉まで駆け寄るとその場にしゃがみ込む。
傷が痛むのかとリゼイラが傍に寄ろうとした時、マリーニエは悲鳴を上げた。
館中に響き渡るような、恐怖に満ちた悲鳴だった。
突然の大きな声にリゼイラが戸惑っていると、廊下から数人の足音が聞こえてきた。
「……何があった!」
飛び込んできたのは、デイルとその後ろに従っていたベルリード。
ホッとしたリゼイラに、だがデイルは驚愕を浮かべ、一瞬の後に憤激の色を乗せた。
「お兄様!助けてくださいませ!」
マリーニエが、傷を抑えてヨロヨロとデイルに縋りつく。
え、と戸惑ったリゼイラは呆然と目の前の光景を見ているしか出来なかった。
「リゼイラ様が、リゼイラ様がお兄様の執務室に入られるのを見かけて。あたくし変に思ってお声をかけたら、突然腕を!」
蒼褪めた顔で、涙を浮かべるマリーニエの姿はどう見ても被害者だった。
かたんっ、小刀が床を叩いた音はか細く、だが絶対的な音色で響いた。
血にぬれた小さな手が、震えていた。
どうして。どうして。違うのに。そんなこと、してないのに。
ゆるゆると否定を示すリゼイラだったが、デイルの厳しい眼差しにぶつかって目の前が暗くなった。
「失礼致します」
ベルリードが、リゼイラの身体を拘束する。
違う。やってない。
そんなひどいこと、やってない。
助けたかっただけなのに。傷つくのを見たくなかっただけなのに。
引き立てられるように歩きながら、リゼイラはデイルを見上げた。
「……そうやって無力な顔で取り入れと言われたのか」
冷ややかな声に、リゼイラはもう笑いたくなってしまった。
どうして、一度でも夢を見てしまったのだろう。
嫌われていたのに。疎まれていたのに。
どうして、ハクランのように抱きとめてくれるかもしれない、なんて期待したのだろう。
もう自分が愚かすぎて、可笑しい。
なのに、零れたのは笑みではなく、冷たい涙だった。
「北の幽閉室へ連れて行け」
断罪する声音を背に、リゼイラは目を閉じた。
目蓋の裏で赤い花が散っていた。
「どう言う事ですか!」
ライドールの張り上げた声が、執務室に響いた。
対するデイルも厳しい表情だが、ライドールはそれ以上に怒りを滲ませていた。
侍女頭に呼ばれたと行ってみれば、指定された場所に彼女はおらず。
館中を盥回しにされた。あげく、侍女頭はライドールを呼んだ覚えはないと言う。
嫌な予感に急いで部屋に戻ればリゼイラの姿はなく、レジーナが同じように青い顔をして戻って来たのだ。
そのレジーナは、今無理やりリゼイラの傍に付き添っている。
「どう言う事もない。あれが勝手にこの部屋の書類に手を付け、マリーニエを切り付けた。捕らえるには十分だ」
「その証拠はあるのですか?」
「証拠も何も、目の前で起こったことだ。血まみれで小刀を手にしていたんだ。証拠など必要ない」
吐き捨てるような公爵に、ライドールは必死で己を落ち着けさせていた。
そうでなければ、何を言い出すか自分でも判らない。
そんなライドールに、デイルは怒りを滲ませながら机上の書類を叩いた。
「これは、あの子爵の横領に関する証拠書類だ。大方、この書類目当てで忍び込んだ所をマリーニエに見つかって、後先考えずに刃物を振り回したんだろう!」
「……そんな方ではありません」
震える声でライドールは反駁する。
「そんな方ではありません。あの方は、誰かを傷つけるくらいなら自分を傷つける方です。わがまま一つも言えずに、ただひっそりと生きているのを望むような方です」
「それくらいの演技は出来る」
振り切るようなデイルの言葉に、ぐっとライドールは唇を噛んだ。
今のデイルには何を言っても無駄だろう。
それにリゼイラの無実の証拠などあるわけもない。
これ以上詰め寄っても、リゼイラの立場が危うくなるだけだ。
激情に流されそうになる中で必死で冷静さを取り戻す。
意識的に細く息を吐いて、懐から小箱を取り出した。
デイルが差し出された小箱を見て眉を寄せる。何処かで見た覚えがあった。
「リゼイラ様からです。このような高価な物を頂くことは出来ないと、お返しするように頼まれておりました」
中身は、初めてリゼイラに会った時に渡した黄金と紅玉の装身具。
驚いたらしいデイルをそのままに一礼してライドールは退出する。
それでも、最後にどうしても一言告げたくて扉に手をかけて言った。
「リゼイラ様は、貴方に何一つも望んでいらっしゃいませんでした」
滲む声にデイルが何か返す前に扉は閉まった。
一人、残されたデイルは小箱を片手にぐしゃりと前髪を握りつぶす。
あの時、執務室に居るはずのない二人の姿を見て愕然とした。
混乱する中、両手を血に染めたリゼイラに裏切られたと思った。
部屋の中には、子爵を蹴落とすための証拠書類が並べられていたのだ。それを手にするために来たのかと頭が真っ赤に塗りつぶされた。
血を流すマリーニエの言葉は、そのままデイルの最初の考えを肯定するものだった。
「……なんだ、最初から俺は信じていなかったんじゃないか」
自嘲して、もやもやする不快感を飲み下す。
そうだ。最初から信じてなどいなかった。子爵の娘が馬脚を現した。それだけの事だ。
ライドールやレジーナは、何か取り入られているだけだろう。
頭の良い二人のことだ。すぐに目も覚める。
馬鹿馬鹿しい。何をこんなに混乱する事がある。
むしろ好都合だ。これを手がかりにして子爵を効果的に追い詰める事が出来る。
手始めに、今回の事件を子爵に内密に伝えよう。大切に育ててきた娘の一大事だ。どんな反応を示すかと思うだけで楽しみだ。
……楽しみだろう。これが、俺のやりたかった事だろう。その筈だ。
強く自分に言い聞かせても、先程から亜麻色の髪がちらついて仕方がない。
最後の、酷く傷ついた瞳が忘れられない。
食いしばった奥歯がギリギリと不快な音を立てる。
間違っていない。何も間違っていないだろう。
今まで信じたままを進んできた。これからも同じようにしていくだけだ。何を迷う事がある。
握り締めた小箱を床に投げ捨てる。
留め金が外れ、床に豪奢な輝きが零れた。
こんな物は小細工だ。惑わされるわけがない。
「……くそっ」
小さく自分を罵って、ふと机の上の栞に目が入った。
長く褪せた色で台紙の上にあった小花は無残だった。
栞の花は、まるでデイルを責めるように一つ残らず散っていた。