第20話:黄昏に咲く黒百合
大階段を埋め尽くすのは、かつての英雄たちが自らの末裔を貪る「共食い」の地獄。
返り血に濡れる大理石を踏みしめ、アガサはついに最上階へと辿り着きます。
そこに立ちはだかるのは、かつて彼女に剣を教え、そして彼女を見捨てた老騎士バルトロメオ。
「型」に嵌まった正義を語る師に対し、アガサは積年の怨嗟を込めた黒い刺を放ちます。
「救い? まだそんな空っぽな言葉を信じているの?」
聖域の崩壊を告げる鐘の音と共に、偽りの権威たちが一人、また一人と「ただの肉」へと還されていく。
復讐という名の晩餐、そのメインディッシュをどうぞお召し上がりください。
教皇庁の最上階へと続く大階段は、今や生者と死者が入り乱れる屠殺場と化している。
鼻腔を突くのは、高価な大理石を濡らす新鮮な血の鉄臭さと、亡者たちが吐き出す「腐敗した吐息」が混じり合った、肺を腐らせるような死の臭気だ。
「アガサ様。踊り場に陣取っていた近衛騎士たちも、もはや形を留めておりませんわ。自分たちが守るべき教皇の先祖に、喉笛を食いちぎられる……。これ以上の皮肉が、この世にあるでしょうか?」
プリシラが影の触手で、騎士の兜からこぼれ落ちた「眼球」を無造作に踏み潰す。
アガサの耳には、亡者たちが鎧の隙間に指をねじ込み、肉を引き剥がす「ミシミシ、ベチャリ」という湿った破壊音が届く。
「……皮肉? いいえ、これは『回帰』よ。奪い、欺き、着飾ってきた彼らが、本来持っていたはずの『ただの肉』に戻るための儀式。神の光など、所詮はこの程度の闇にさえ勝てない薄っぺらなものだったのね」
アガサの掌には、杖を通じて、階上の重厚な扉の向こう側に潜む「純粋な恐怖」の脈動が伝わってくる。
口内に広がるのは、他人の命が安易に散っていくのを眺める、砂が混じった蜂蜜のような、ザラついた甘美な味だ。
「さあ、見えてきたわ。この腐った組織の心臓部。そこに潜む『最後の希望』を、私の手で絶望へと塗り替えてあげましょう」
アガサが杖の先で踊り場の床を叩くと、そこから黒い百合の蔓が「シュルシュル」と伸び、まだ息のある騎士たちの傷口を苗床にして、禍々しい蕾を膨らませた。
耳に届いたのは、死を目前にした者たちが、自らの体から花が咲き誇る怪異に上げる、理性を失った絶叫だった。
最上階の扉の前。そこには最後の守護者として、かつてアガサの「教育係」でもあった老騎士バルトロメオが立ちはだかっていた。
鼻腔を突くのは、彼が纏う古い革と鉄の匂い、そして長年の修練で練り上げられた、火花のように鋭い「覚悟」の臭いだ。
「……アガサ。その姿、もはや人の理を超えたか。無能と蔑まれた少女が、よもやこれほどの怨嗟を背負って帰ってくるとは」
「蔑んだのはあなたたちよ、バルトロメオ。
私の中に眠る『これ』を、ただの空虚だと決めつけ、暗闇に葬り去った」
アガサの耳には、バルトロメオが抜剣する「シャリリ」という冷たく澄んだ音が届く。
口内に広がるのは、かつて自分に剣の素振りを教えた男への、ほんの少しの懐かしさと、それを塗り潰す泥のような憎悪の味だ。
「アガサ様。この老骨、心臓の鼓動に迷いがございませんわ。主への忠誠か、あるいは自らへの贖罪か。どちらにせよ、亡者たちの餌にするには少々硬すぎるようです」
プリシラが影の牙を剥き出しにするが、アガサは杖を振ってそれを制した。
アガサの掌には、杖を通じて、バルトロメオが放つ「正道」の魔力が、彼女の「闇」を焼き払おうと激しく火花を散らす震動が伝わる。
「……バルトロメオ。あなたのその高潔さが、私をどれだけ傷つけたか。光の下にいる者が、影に沈む者の絶望を知ったふりをする。その傲慢こそが、今の私を作ったのよ」
アガサが杖を地面に突き立てると、足元から黒い百合が「ドバッ」と噴き出し、老騎士の聖なる加護を侵食し始めた。
耳に届いたのは、揺るぎないはずの老騎士の呼吸が、初めて「ッ……」と短く乱れた、崩壊の予兆だった。
バルトロメオの放つ銀光が、アガサの影から伸びた黒い蔓を「一閃」のもとに断ち切る。
鼻腔を突くのは、切り裂かれた闇の残滓から漏れるオゾンのような臭いと、老騎士が振り絞る枯れ木の皮が焦げたような熱い汗の臭いだ。
「アガサ、戻れ! その闇に飲まれれば、お前の魂は永遠に救われぬぞ!」
「救い? まだそんな空っぽな言葉を信じているの?私を救わなかったその『光』が、今度は自分の身を守るために私を斬るというのかしら」
アガサの耳には、バルトロメオの重厚な足捌きが石床を「ズズッ」と踏みしめる重い響きが届く。
口内に広がるのは、正論という名の凶器を突きつけられ続けた日々の、苦い胆汁のような味だ。
「アガサ様。この男の剣気、貴女の悲しみを見ないように、必死に『義務』という蓋をしておりますわ。その蓋を、内側から溢れ出す絶望で、ひと思いに吹き飛ばして差し上げましょうか」
プリシラが影の粒子を霧のように広げ、老騎士の視界を奪う。
アガサの掌には、杖を通じて、バルトロメオが掲げる聖剣の熱量が、冷たい闇に触れて「ジュウッ」と蒸発していく微かな抵抗が伝わった。
「……バルトロメオ、あなたはいつもそうだった。私の中に流れる『涙』よりも、教会が定めた『型』の方が大切だったのね」
アガサが杖を一振りすると、霧の中から黒い百合の刺が「シュパッ」と放たれ、老騎士の銀の籠手を赤く染めた。
耳に届いたのは、鋼鉄がひしゃげ、肉を貫く「ギチッ」という嫌な音と、かつて自分を導いた師が漏らした、初めての苦悶の呻きだった。
「……さあ、その『型』と一緒に、私に踏みにじられなさい」
バルトロメオの右腕から滴り落ちる血が、床に「ポタポタ」と重い音を立てて波紋を作る。
鼻腔を突くのは、老騎士の傷口から溢れ出した生温かい血の臭いと、彼が握りしめる聖剣が放つ、最期の輝きが放つ焦げたような匂いだ。
「……アガサ。私を、殺すがいい。だが、この扉の奥にいる者を殺せば……お前は本当に……人ではなくなる……!」
「人? ……ああ、そんな不自由なもの、地下牢の冷たい壁と一緒に脱ぎ捨ててきたわ」
アガサの耳には、老騎士の心臓が「ドクン、ドクン」と、死への恐怖と使命感の間で不規則に跳ねる不協和音が届く。
口内に広がるのは、自分を愛してくれたかもしれない唯一の大人を、自らの手で壊していくという、凍りつくような冷淡な甘みだ。
「アガサ様。見てください。この男、命を賭して守っているのは主君ではございません。貴女に殺されることで、己の罪を清算しようという、浅ましい『自己犠牲』という名の自己満足ですわ」
プリシラが影の爪でバルトロメオの脚を「ザリッ」と深く抉る。
アガサの掌には、杖を通じて、老騎士の生命力が急速に地へと吸い込まれていく「スウッ」という虚無の感覚が伝わった。
「……死んで償おうなんて、許さない。あなたは生きて、の影が世界を飲み込む様を、その濁りゆく瞳に焼き付けるのよ」
アガサが杖を軽く払うと、黒い蔓がバルトロメオの四肢を絡め取り、十字架に張り付けるように壁へと固定した。
耳に届いたのは、関節が逆方向に「ミシリ」と軋む音と、老騎士が奥歯を噛み締めて堪える、低く掠れた呻き声。
「……さあ、邪魔者は消えたわ。扉の向こう側で、震えが止まらなくなっている『心臓』へ、
ご挨拶に伺いましょうか」
静寂が支配する回廊に、アガサの杖が「コツン、コツン」と一定のリズムで響き渡る。
鼻腔を突くのは、重厚な扉の隙間から漏れ出す、高級な羊皮紙と、恐怖で煮え詰まった老人の粘りつくような脂汗の臭いだ。
「アガサ様。扉の向こう、この教会の真の支配者たる『枢機卿』が、自らの保身のために描き殴った、無意味な魔術文字のインクの臭いが充満しておりますわ」
プリシラが影の指先で扉の紋章をなぞると、表面に施された防御結界が「ジジ……」と不快な音を立てて火花を散らす。
アガサの掌には、杖を通じて、扉を必死に閉ざし続けようとする、弱々しくも執念深い魔力の震動が伝わってきた。
「……枢機卿。私を地下へ送り、『教会の美しさを損なう醜い石コロ』と呼んだ人。あなたの美学が、今度は血の海に沈む気分はどうかしら?」
アガサの耳には、扉の向こうで震える指先がペンを落とす「カラン」という虚しい音と、荒い呼吸が届く。
口内に広がるのは、かつてこの男の冷酷な言葉を無理やり飲み込まされた、あの日の砂混じりの涙のような不快な苦味だ。
「さあ、見せて。その尊大な椅子の上で、どれほど惨めに命を乞うのかを」
アガサが杖を軽く一突きすると、教会の権威を象徴する巨大な扉は、まるで腐った木切れのように「ドォン!」と内側へ爆ぜ飛んだ。
耳に届いたのは、豪華な執務室の奥で、ガタガタと音を立てて机の陰に隠れようとする、一人の老人の情けない悲鳴だった。
「……枢機卿、その震える指で何を綴るつもりかしら」
アガサの鼻腔を、高級なインクの鉄分を含んだ香りと、老人の死を予感した脂汗の酸っぱい臭いが激しく突く。
彼女の耳には、羽根ペンが羊皮紙を「ガリッ」と無残に引っ掻く音と、男の喉から漏れる「ヒ、ヒイッ」という引き攣った悲鳴が届いた。
アガサの掌には、杖を通じて、彼が必死に縋る机の木目の冷たさと、微かな震動が伝わってくる。
「ア、アガサ……私を殺せば、教会の秩序が……。聖都の民が……」
枢機卿の口から溢れるのは、恐怖に裏打ちされた、乾いた砂のような言い訳の味だ。
プリシラが影の足音を「ペタ……ペタ……」と絨毯の上で鳴らし、彼の背後に回り込む。
「アガサ様。この男の目、救済を語りながら、まだ金庫の鍵を握りしめておりますわ」
アガサの視界には、金糸の刺繍が施された枢機卿の法衣が、恐怖で波打つように細かく揺れる様が映る。
「秩序? 私の人生を奪い、闇に葬ったのがあなたの秩序なら、そんなものは灰に還すべきよ」
アガサが杖を軽く一振りすると、執務室に飾られた聖画が「バサリ」と落ち、黒い百合の刺が枢機卿の頬を薄く裂いた。
耳に届いたのは、額縁が砕ける乾いた衝撃音と、老いた肉体が悲鳴を上げる「ミシリ」という音だった。
「……あなたの死で、この黄昏に最後の花を添えてあげるわ」
口内に広がるのは、長年溜め込んだ怨嗟が昇華される、氷のように冷たくも甘い快楽の味だ。
アガサの掌に、杖に集う闇の魔力が「ドクドク」と脈打ち、解放の瞬間を待ちわびる。
アガサの杖が枢機卿の眉間に突きつけられる。
鼻腔を突くのは、最高級の香の匂いさえかき消す、剥き出しになった「老いと腐敗」の噎せ返るような死臭だ。
「アガサ様。見てください、この男の瞳に映る貴女の姿を。かつて無能と蔑んだ少女が、今は自分たちの神よりも巨大な『死』となって君臨している。絶望の味は、さぞかし芳醇でしょうね」
プリシラが影の茨で枢機卿の体を椅子ごと「ギチギチ」と締め上げる。
アガサの掌には、杖を通じて、枢機卿が必死に守ろうとしていた「偽りの聖域」が、彼女の闇に侵食され、中心から黒く腐り落ちていく確かな手応えが伝わった。
「さらばよ、教会の遺物。あなたの神に祈りなさい。……もっとも、その喉を私の花が食い破るのが、わずかに早いでしょうけれど」
アガサが杖の先で枢機卿の心臓を「トン」と叩くと、彼の胸から巨大な黒い百合が、肋骨を「メキメキ」と押し広げて咲き誇った。
耳に届いたのは、枢機卿が最後に吐き出した掠れた呼気と、教皇庁という巨塔が物理的に内側から崩壊を始める「ゴォォ……」という低い地鳴りだった。
「さあ、行きましょう、プリシラ。この黄昏が完全に沈み、帝国がただの『黒い灰』に変わるで」
窓の外では、沈みゆく太陽が教皇庁の残骸を真っ赤に染め上げている。
口内に広がるのは、復讐という名の長い晩餐を終えた後の、どこまでも冷酷で、静謐な勝利の味。
耳に届くのは、燃え盛る聖都に響く、アガサとプリシラの二人だけの、美しい嘲笑の声だった。
第20話をお読みいただき、ありがとうございました。
かつてアガサを「醜い石コロ」と蔑んだ枢機卿。彼の胸に咲いた黒い百合は、彼らが長年かけて育てた「偽善」という名の苗床から生まれた、皮肉な果実となりました。
バルトロメオとの対峙で見せたアガサの微かな「懐かしさ」さえも、今の彼女にとっては闇を深めるためのスパイスに過ぎません。口内に広がる「砂が混じった蜂蜜のような甘美な味」は、読者の皆様にも届きましたでしょうか。
聖都を赤く染める夕陽は、教会の終焉を告げる幕間の灯。
教皇庁という巨塔が崩れ落ちる音は、アガサにとっては何より心地よい子守唄なのかもしれません。




