これ俺の家、マ?
結花と澪に両脇を抱えられながら、俺はどうにか病院の正面玄関を抜け出した。
自動ドアが背後で閉ざされ外の空気に触れた瞬間、そこには言葉を失うほどの絶景が広がっていた。
夜の暗闇が白み始め、空の果てから燃えるようなオレンジ色が静かに滲み出している。
深い群青色から紫そして黄金色へと移り変わる見事なグラデーションが空全体を鮮やかに染め上げていた。
遠くの町並みが朝の光のベールに包まれてキラキラと輝き出している。
海の方から吹いてくる微かな潮の香りが夜の間にこびりついた血と消毒液の匂いを優しく洗い流してくれた。
澄み切った冷たい朝の空気を肺いっぱいに吸い込む。
あぁ俺は生きているんだ。
恐ろしい死の淵を歩き、人外の怪異に触れ狂気に飲まれかけた長い夜がようやく終わったのだ。
この美しすぎる朝焼けが俺のひび割れた心を静かに満たし温めてくれる。
生き延びた奇跡と自然の雄大さに俺の胸の奥から熱いものが込み上げてきた。
ただこの景色をずっと眺めていたい。
俺は感動に打ち震えながら昇る朝日に目を細めた。
しかし俺の深い感動を完璧に粉砕する強烈なノイズが両腕から発せられていた。
「ねえ空くん。朝の冷え込みは体に毒だよ」
「空くんの体温が下がらないように私がぴったりくっついて温めてあげるからね」
「ほら、私の鼓動を感じて空くんの心臓の音と完全にシンクロさせて永遠の愛を刻み込もう」
「朝日なんて見なくていいの。空くんの視界は私が全部独占してあげるから私の瞳だけを見ていて」
結花が俺の右腕に顔を擦り付けながらねっとりとした熱い吐息を吹きかけてくる。
俺の視界を物理的に遮ろうと必死に顔を覗き込んでくるその目は完全に血走っていた。
景色など一切見ていない。
彼女の網膜には俺という存在しか映っていないようだ。
「ちょっと結花先輩ずるいです。先輩の左半身は私の絶対領域なんですからね」
「先輩こんな眩しい光を浴びたら、先輩の純白の記憶に変な色が混ざってしまいます」
「私が先輩の目を両手で塞いで外部からの不要な刺激をすべて遮断して差し上げますから」
「先輩の脳内には私の声と私の愛だけが響いていればいいんです。さあ目を閉じて私を感じてください」
澪が俺の背後から背伸びをして俺の目を本気で塞ごうと両手を伸ばしてくる。
息継ぎすらない怒涛の言葉の濁流が右の耳と左の耳から同時に流れ込んできた。
目の前には感動的で美しすぎる朝焼けの町。
しかし俺の両脇には湿度100パーセントの重すぎる愛を放つ二人。
澄み切った朝の空気は彼女たちの放つどす黒い情念と甘ったるい香水の匂いによって、完全に相殺されていた。
美しい世界と狂った人間関係のあまりにも残酷なコントラストだ。
小夜が見せてくれたあの涼やかな静寂がすでに恋しい。
俺は感動の涙なのか、絶望の涙なのか分からないものを流しながらゆっくりと天を仰いだ。
俺の戦いは終わったわけじゃない。
むしろこの重すぎる愛から逃げ切るための本当の日常という名の地獄がこれから始まるのだとこの朝日に誓わざるを得なかった。
「それじゃあ俺はもう帰るから。二人ともいろいろとありがとう。気をつけて帰るんだぞ」
俺がきびすを返して歩き出そうとした瞬間、背後から二つの冷ややかな視線が突き刺さった。
「ねえ空くん。帰るってどこに帰るつもりなの?」
「先輩は記憶喪失なんですよ?ご自分の住所がわかるんですか?」
俺の足がピタリと止まった。
言われてみればその通りだ。
俺は自分が何者で、どこに住んでいるのかすら思い出せていない。
家という概念は頭にあるがその具体的な座標が脳内地図から完全に消滅しているのだ。
俺がその場に立ち尽くし撃沈していると、結花がクスクスと笑いながら俺の腕を引いた。
「もう空くんったらドジなんだから」
「私がちゃんと連れて行ってあげるから安心して」
「空くんの帰る場所なんて、私が一番よく知っているんだから」
頼もしい幼馴染だ。
その言葉の裏にある「私が管理している」というニュアンスにはあえて気づかないフリをした。
一方で澪は悔しそうに唇を噛んでいる。
「くっ……先輩の自宅の住所まではまだ特定できていませんでした」
「まさかこんな初歩的なミスで結花先輩にリードを許すなんて」
「中学生の情報網では限界があったか……!」
澪はブツブツと敗北を噛み締めているが自宅を知らないのは俺も同じだ。
仕方なく俺たちは結花の先導で朝の住宅街を歩き始めた。
しばらく歩くと閑静な高級住宅街に差し掛かった。
そして結花はある一軒の家の前で足を止めた。
「着いたよ空くん」
「ここが空くんのこれから帰る場所だよ」
俺は目の前の光景に絶句した。
そこにあったのは家というよりも城と呼ぶにふさわしい巨大な豪邸だった。
天を突くような高い門扉。
手入れの行き届いた広大な日本庭園。
建物の全貌が見渡せないほどの敷地面積。
「まじで……?」
俺はこんな大富豪の息子だったのか。
記憶を失う前の俺は一体どんな生活をしていたんだ。
庶民的な感覚しか残っていない今の俺にはこの豪邸の敷居はあまりにも高すぎる。
呆然と門を見上げていると、隣でプルプルと震えていた澪が突如として爆発した。
「この嘘つきアバズレ女ぁぁぁぁっ!!」
早朝の住宅街に澪の怒号が響き渡った。
彼女は結花に向かって指を突きつけ鬼のような形相で叫んでいる。
「どうしたんだよ澪いきなり大声出して」
「先輩も先輩です!しっかりしてください!」
「その節穴の目は飾りですか!」
「表札を見てください表札を!」
澪に怒鳴られ俺は慌てて門柱にある立派な御影石の表札を確認した。
そこには達筆な文字で堂々と『白川』と刻まれていた。
苗字は覚えていないが少なくとも白川ではないと、直感で分かった。
結花はペロリと舌を出して悪びれもなく微笑んだ。
「あちゃー間違えちゃった」
「空くんのことを考えていたら無意識のうちに私の家に連れてきちゃったよ」
「でも空くんの家は私の家だし、私の家は空くんの家みたいなものだから誤差の範囲だよね?」
「むしろこれからここで一緒に暮らせばいいんだから結果オーライじゃないかな?」
誤差の範囲が広大すぎる。
それにこの豪邸で同棲を始めるという既成事実をナチュラルに作ろうとしていた。
恐ろしい策士だ。
俺が戦慄していると澪がさらにヒートアップして喚き散らした。
「ふざけないでくださいよこの古狸!」
「先輩見てください!結花先輩の顔!」
「今先輩が表札を見ている間に背後でとんでもないバケモンみたいな顔してましたよ!」
「『チッ余計なこと言いやがってこのクソガキが』って顔に書いてありました!」
「目が完全に笑ってないし口が耳まで裂けるんじゃないかってくらい歪んでました!」
澪の必死の訴えに俺はハッとして結花の方を振り返った。
しかしそこには朝日に照らされた天使のように穏やかで美しい笑顔があった。
小首をかしげ、不思議そうにこちらを見つめるその顔には一点の曇りもない。
「ひどいなぁ澪ちゃん」
「私はただ空くんに快適な住環境を提供したかっただけなのに」
「そんな風に言われるなんて心外だよ」
「見ろ澪、どこがバケモンなんだよ。こんなに綺麗で可愛い顔じゃないか」
俺が諭すように言うと澪は「ぐぬぬ」と唸り声を上げて地団駄を踏んだ。
「ずるいですよ!卑怯です!」
「先輩が見ていない一瞬の隙に顔面の筋肉を高速で切り替えているんです!」
「先輩が目を逸らした瞬間にまた般若みたいな顔で私にガンを飛ばしてるんですよ!」
「信じてください先輩!この女は本当にヤバいんです!」
澪は涙目になって訴えてくるが、俺にはどうしても結花が悪女には見えなかった。
俺が再び結花を見ると彼女は聖母のような微笑みを浮かべ、俺が視線を外して澪の方を向いた瞬間に背後から凍てつくような殺気が膨れ上がるのを感じる気もするが、気のせいだろう。
「そんな嘘に騙されないぞ澪。結花は昔から俺の味方なんだ。多少愛が重くて家を間違えるおっちょこちょいなところはあるけど、根はいい奴なんだよ」
俺がそう言って結花を庇うと澪は「あーもうっ!先輩のばか!」と叫んで頭を抱えた。
「先輩のその圧倒的な鈍感さがこの女を増長させていることに早く気づいてください!」
「このままじゃ本当にこの魔窟に連れ込まれて飼い殺しにされますよ!」
早朝の豪邸の前で繰り広げられる泥沼の痴話喧嘩。
俺の本当の家は一体どこにあるのか。
そして結花の顔面変形ギミックの真偽はいかに。
とりあえずこの場を収めるためにも俺は再び正しい帰路を探さなければならなかった。




