胃袋ブラックホール
俺はこれ以上ツッコミを入れる気力を完全に失っていた。
脇腹の傷がひどく痛むし、何よりこの二人の常識の通じなさに精神が限界を迎えていたからだ。
学校内に理の個人的な研究室があるという狂った事実も今は大人しく受け入れるしかなかった。
理が前を歩き俺たちは誰もいない暗い夜の校舎を歩き続ける。
俺の右側には小夜がピッタリとくっついて歩いていた。
彼女の細い腕が俺の腕に強く絡みつき、柔らかな体温が直接伝わってくる。
先ほどまで理が俺に異常なほど密着していた感覚を物理的に上書きして消し去ろうとしているかのようだった。
傷口に響かないように気遣ってくれているのは分かるがあまりにも密着度が高すぎる。
歩くたびに小夜の肩が俺の胸にぶつかり俺は変な汗をかきそうになっていた。
「あのさ小夜さん?近すぎやしませんか?」
俺が遠慮がちに尋ねると、小夜は前を向いたまま冷たく言い放った。
「うるさい」
見事な一蹴だった。
さっきまでの幼稚園児のような無邪気な笑顔はどこへやら。
俺の余計な一言のせいで完全に機嫌を損ねてしまったらしい。
俺は口を噤んで彼女のされるがままになるしかなかった。
これ以上文句を言って日本刀を向けられるのはごめんだ。
やがて理が旧校舎の地下へ続く薄暗い階段の前で足を止めた。
その奥にはひんやりとした分厚い鉄の扉がそびえ立っている。
「ここが私の研究室だよ」
理が白衣のポケットから銀色の鍵を取り出してガチャリと重い音を立てて扉を開けた。
中から消毒液とホルマリンが混ざったような強烈な薬品の匂いが鼻を突く。
俺は恐る恐るその部屋の中へと足を踏み入れた。
天井の蛍光灯がパチパチと点滅しながら、無機質な白い光を放ち始める。
俺は部屋の全貌を見て思わず息を呑んだ。
そこは学校の研究室なんて生易しいものではなかった。
怪我人を治療するための清潔な手術室でさえもない。
部屋の中央には血液を水で洗い流すための溝が深く彫られた冷たいステンレス製の巨大な台が鎮座している。
壁際の手術棚にはメスや骨切りのノコギリのような物騒な刃物がサイズ順に整然と並べられていた。
巨大なガラスケースの中には得体の知れない赤い臓器のようなものがホルマリンの海に浮いている。
どう見てもここは人間の死体を解剖するための部屋だった。
俺の背筋に氷を押し当てられたような強烈な悪寒が走る。
やばい。
こんなところで治療なんて受けたら絶対に原型を留めない姿に身体を改造されてしまう。
本能的な恐怖に駆られ俺はじりじりと後ろへ後ずさりした。
しかし背中に冷たい鉄の感触が当たる。
いつの間にか分厚い扉は理によって完全に閉ざされ施錠されていたのだ。
逃げ場はない。
俺は助けを求めて隣に立つ小夜へとすがるような視線を向けた。
お前だけが頼りなんだ。
あの猟奇的なマッドサイエンティストから俺を守ってくれ。
しかし小夜は黙ったまま俺の視線を避けようと静かに俯いている。
どうしたんだ小夜。
あんなに俺の身を案じて怒ってくれていたじゃないか。
俺が必死に目で訴えかけていると小夜はゆっくりと顔を上げ理の方を向いた。
「彼の傷の処置はどうするつもり」
小夜の問いかけに理は白衣の袖を捲り上げながら答える。
「もちろん完璧な処置をするよ」
「でもそれには彼の細胞を少しばかり採取させてもらう必要があるね」
「その間君には手出しをしないと約束してもらおうか」
理の提案を聞いて小夜は少しだけ躊躇うような素振りを見せた。
しかしすぐに意を決したように静かに頷く。
「わかった」
「その代わり彼の痛みを最小限に抑えなさい」
「そして処置が終わったら今夜は私が彼に添い寝する権利をもらうわよ」
「いいだろう」
「取引成立だ」
理が冷たい笑みを浮かべ、小夜もそれに同意するように黙り込んだ。
なんだその取引は。
俺の意志が完全に無視されているじゃないか。
二人して俺の身体と尊厳を担保にして何か悍ましい密約を交わしている。
助けてくれると思っていた小夜までが自分の欲望のために理の狂気を容認してしまったのだ。
なんだか嫌な予感がする。
俺は心の中で必死に神様に祈った。
どうかただの止血と消毒だけで終わってくれますように。
解剖台の上に縛り付けられて未知の薬品を注射されたりしませんように。
だが俺の祈りが通じることはなかった。
どうやらその悪い予感は最悪の形で当たってしまったらしい。
カチャリという無機質な音が鳴る。
理が手術棚から一番鋭利な銀色のメスを片手に持ち目をギラギラと輝かせた。
そして背後から小夜が俺の両腕をガッチリとホールドして逃げられないように押さえ込んできたのだ。
「さあ空」
「最高の治療の時間だよ」
理の猟奇的な声が密室の解剖室に響き渡った。
俺の悲鳴は分厚い鉄の扉に遮られ、夜の学校の誰にも届くことはない。
未知の薬品を注射され、生きたまま細胞を採取されるのだと覚悟を決めて目をギュッと閉じていた。
しかし実際に理が行った治療は拍子抜けするほど普通のものだった。
傷口を丁寧に消毒し医療用のホッチキスのようなもので塞いでから清潔なガーゼと包帯を巻いただけだ。
麻酔も打たれなかったし変な実験もされなかった。
あの無数に並んでいたノコギリやメスは一体何だったんだ。
俺が拍子抜けしてポカンとしていると理は俺の脇腹に包帯を巻き終えて満足げに頷いた。
そして俺たちは解剖室の奥の扉からさらに隣の部屋へと案内された。
そこは理が普段寝泊まりしているらしい居住スペースだった。
無機質な解剖室とは打って変わってフローリングにふかふかのラグが敷かれたごく普通の生活空間が広がっている。
壁掛けの大型テレビがあり中央には大きなローテーブルが置かれていた。
ただ一つ普通じゃなかったのはそのローテーブルの上に並べられた食事の量だ。
「なんだこれ……」
俺はテーブルの惨状を見て言葉を失った。
山盛りの唐揚げ。
巨大なハンバーグが何個も乗った大皿。
パックのまま積み上げられた大量の寿司と刺身。
大盛りの焼きそばにサンドイッチの山。
そして炊飯器の釜ごとドンと置かれた白米。
どうやら近所のスーパーの惣菜コーナーを端から端まで買い占めてきたらしい。
部屋の中に揚げ物とソースの強烈な匂いが充満している。
「いくらなんでも買いすぎだろ...こんなの三人で食べきれるのか?」
俺が呆れて理に尋ねると彼女は冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出しながら平然と答えた。
「大丈夫さ」
「私の計算では完璧に消費されるはずだからね」
「それに空は大量に血液を失ったんだからしっかり栄養を補給してもらわないと困る」
理はそう言って俺の前に山盛りの白米がよそわれたお茶碗をドンと置いた。
確かに腹は減っている。
結花の家で生首を見る前からずっと空腹だったのだ。
俺は大人しく座布団の上に座り割り箸を割った。
小夜も俺の向かい側にちょこんと正座をして手を合わせている。
「いただきます」
俺がそう言って唐揚げに手を伸ばした瞬間だった。
目の前で信じられない光景が繰り広げられ始めた。
小夜が動いた。
彼女の箸が目にも止まらぬ速さでテーブルの上の料理を次々と口の中に放り込んでいくのだ。
唐揚げが三秒で消えた。
ハンバーグが丸ごと一口で吸い込まれた。
寿司のパックが空になるまでに十秒もかかっていない。
彼女の細い腕のどこにそんなパワーが隠されているのか。
まるでブラックホールのように食料が彼女の胃袋へと吸い込まれていく。
咀嚼しているのかすら怪しい速度だ。
ハムスターのように両頬をパンパンに膨らませながらひたすらに咀嚼と嚥下を繰り返している。
「おいおいおい……」
俺は箸を持ったまま完全にフリーズしてしまった。
さっきまで日本刀を構えて化け物と死闘を繰り広げていたあの涼やかな美少女剣士の面影はどこにもない。
ただひたすらにカロリーを貪る恐ろしい捕食者がそこにいた。
これが能力の代償なのだろうか。
血を沸騰させて限界を超えた身体能力を引き出した分だけ、彼女の肉体は膨大なエネルギーを要求しているに違いない。
それにしても食べすぎだ。
俺が唐揚げを一個飲み込む間に小夜はすでに炊飯器の釜から直接白米をかき込み始めていた。
男の俺が完全に霞んで見えるほどの圧倒的な食事スピードと底なしの胃袋。
俺は自分が情けなくなってきた。
昨夜はこの玄関の床で細身の理系少女に力で完全にねじ伏せられた。
そして今度は小夜の常軌を逸した食欲の前に完全に敗北している。
健康な男子高校生としての俺の立場は一体どこにあるというのだ。
「理には身体で負けて小夜には食事で負けると……こうして俺の男としての尊厳が完全に砕け散ったのである……」
俺は目の前の惨状を見つめながらポツリと虚空に向かって呟いた。
すると斜め向かいに座っていた理がピクッと反応した。
彼女は箸を止め銀色の眼鏡の奥で嬉しそうに目を細めてニヤニヤとこちらを見つめてきた。
「ようやく自分の生物学的な立ち位置を理解できたみたいだね」
「君のその圧倒的な無力さこそが最高のチャームポイントなんだよ」
「力も食欲も私たちが君の分まで完璧にカバーしてあげる」
「君はただ大人しく私たちの保護下でその可愛い尊厳を砕かれ続けていればいいんだからね」
理は完全に俺をペットか何かのように見下して恍惚とした表情を浮かべていた。
最悪だ。
俺の呟きが彼女の猟奇的なサディズムにさらに火をつけてしまったらしい。
俺は助けを求めて小夜の方を見た。
「んぐっ、むぐむぐ……はむ、」
「おかわりあるかしら……」
小夜は両頬にご飯粒をつけながらもきゅもきゅと咀嚼を続けていた。
俺の悲痛な呟きも理の変態的な発言も彼女の耳には一切届いていない。
食欲という本能の前に完全に自我がシャットアウトされているようだ。
俺はため息をつきながら冷めかけた唐揚げを口に運んだ。
この狂った二人のヒロインに囲まれて過ごす夜は俺の胃を休める暇すら与えてくれそうになかった。




