っ!腕がうずくぜ!
「いや、なんかトイレで肌をつねってたら急にここに来たんだ」
俺は目の前の暗闇に佇む小夜に向かって正直にそう告げた。自分でも何を言っているのかさっぱり分からないが事実なのだから仕方がない。
「どういう状況?」
小夜は目を瞬かせて見事なツッコミを入れてきた。あの病院の地下室で生首を斬り飛ばしていた凄腕の剣士とは思えないほど素の反応だ。
「俺も分からないんだ。朝起きたら理がいて学校に連れて行かれたと思ったら死んだはずの結花が普通に教室で生きていて。頭がおかしくなりそうだったからトイレに逃げ込んで夢かどうか確かめるためにつねりまくった結果がこれだ」
俺が早口でこれまでのカオスな経緯を捲し立てると小夜は呆れたように小さく息を吐いた。
「情報量が多すぎるわ」
「とりあえずあなたがひどく混乱していることだけは分かったけれど」
「それにしてもトイレからここへ来るなんて聞いたことがないわ」
「ここは私の精神の奥底にある隔離空間みたいなものなのよ」
「普通は干渉なんてできないはずなのに」
小夜は腕を組んで不思議そうに首を傾げた。精神の隔離空間にトイレからワープしてきた男。字面だけ見ると完全に不審者極まりない。
「じゃあ俺は不法侵入者ってことか?頼むから警察には突き出さないでくれよ。記憶喪失の上に住居侵入なんてシャレにならないからな」
俺が冗談めかして両手を上げると小夜はふふっと柔らかく吹き出した。
「こんな場所を取り締まる警察なんていないわ」
「それに私はあなたが来てくれて少し嬉しいくらいだもの」
「ただ突然すぎてお茶の一つも出せないのは申し訳ないわね」
彼女の冗談交じりの返答に俺の肩からすっと力が抜けた。教室での理と結花の凄まじい愛のデスゲームに比べればこの暗闇での小夜との会話は信じられないほど軽快で居心地が良い。
俺たちはしばらくの間真っ黒な空間でまるで放課後の教室にでもいるかのように他愛のないやり取りを続けた。外の異常な世界から完全に切り離されたこの場所だけが唯一まともに息を吸える安全地帯のように感じられた。
しかし会話を続けているうちに俺はあることに気がついた。
暗闇の中にぼんやりと浮かび上がる小夜の姿。
以前あの病院で会った時の彼女は凛とした美しい和装に身を包んでいた。冷たい夜風のようなその佇まいは日本刀が恐ろしいほど似合っていてどこか浮世離れした美しさがあった。
だが今の彼女の服装はあの時とは全く異なっていた。
少し大きめのTシャツにショートパンツ。所々肌が大胆に露出していて、まるで急いで部屋着を羽織ったかのような無防備な格好だった。
しかし俺の目を惹きつけたのは彼女の服装そのものではなかった。
露出している彼女の白い肌。
首筋から鎖骨にかけて。そして二の腕から手首にかけて。
その滑らかな肌の表面に何か黒いインクのようなもので奇妙な線が何本も走っていたのだ。
それはヤクザの刺青やファンタジーアニメに出てくるような魔術の紋章とは全く違った。
何か意味のある図形を成しているわけでもなく文字でもない。
ただ乱雑に無造作に引かれているだけの線だ。
まるで陶器の表面に走るひび割れか、誰かが黒いペンでめちゃくちゃに殴り書きをしたかのような悍ましくも痛々しい無作為な模様。
それが彼女の美しい肌を侵食するように刻み込まれていた。
俺は言葉を失い、しばらくその線から目を離すことができなかった。
軽快だった会話のリズムがふと途切れ暗闇に静寂が落ちる。
「それ、なんだよ」
俺がその肌の線を指差して真っ直ぐに尋ねると小夜の表情がわずかに強張った。
暗闇の世界で彼女の白い肌に刻まれたその黒いひび割れのような模様はあまりにも異質だった。
ただのファッションや偶然の傷跡ではないことは明らかだ。
俺の視線がその線の束に注がれているのを感じて、小夜は少しだけ自分の腕を隠すように身体を縮めた。
しかしすぐに諦めたように小さく息を吐き出しゆっくりと口を開いた。
「これは骸徒としての能力の証よ」
「私たちが人間の理を外れて生きるために背負わなければならない呪いの証拠みたいなものね」
「空は式骸という言葉を聞いたことがある?」
式骸。
もちろん聞いたことなんてない。
記憶喪失の俺にとってこの数日間に起きている現象のすべてが未知の領域だ。
俺は首を横に振った。
小夜は俺の反応を予想していたように静かに頷き、話を続けた。
「骸徒には人間の物理法則を無視した特異な能力がいくつか備わっているの」
「その能力の総称を式骸と呼ぶわ」
「ただ魔法のように無から有を生み出せるような便利なものじゃない」
「私たちの能力はすべて自分自身の肉体や精神を対価にして変換することで発動するのよ」
「そしてその式骸は大きく分けて四つの系統に分類されているわ」
「それを四骸系と呼んでいるの」
四骸系。
その響きだけで背筋が冷たくなるような重々しい言葉だった。
自分の肉体を対価にするという部分が理や結花たちの狂気とはまた違うベクトルで俺の心をざわつかせた。
「四骸系には赫哭と骸律、臓装。そして餓醒の四つが存在するわ」
小夜は一つ一つの単語を噛み締めるように暗闇の中で紡いでいく。
赫哭。
骸律。
臓装。
餓醒。
俺はその未知の単語を脳内に刻み込みながら彼女の次の言葉を待った。
小夜は自分の細い指先を自身の腕に走る黒い線にそっと這わせた。
「まず一つ目が骸律と呼ばれる力よ」
「これは自分自身の骨を能力に変換する力なの」
「体内の骨格を自在に操作して皮膚を突き破り、強固な鎧を作り出したり鋭い武器として外部に形成したりするのよ」
「骨の密度を極限まで高めて鋼鉄よりも硬い物質に作り変えることができるわ」
「でも骨を体外に出すということは想像を絶する激痛を伴うの」
「自分の肉を内側から引き裂きながら骨を操作するのだから、使うたびに肉体が悲鳴を上げるわ」
骨を変換する。
想像しただけで吐き気がしそうだった。
自分の体内の骨格を砕き伸ばし、皮膚を突き破って武器にするというのだ。
それは戦うたびに自分自身を拷問にかけているのと同じではないか。
「二つ目が臓装よ」
「これは自分の内臓器官を能力に変換する力ね」
「心臓や肺や胃腸といった臓器の機能を異常なレベルまで引き上げて、肉体のスペックを強制的にブーストするのよ」
「あるいは体内で致死性の毒を精製して血液に混ぜたり、失った器官を別の臓器の細胞を代用して瞬時に再生したりもするわ」
「これもまた非常に危険な力よ」
「臓器の形や役割を無理やり書き換えるのだから、一歩間違えれば内側から自壊して死んでしまうわ」
内臓を変換する。
理が言っていた「胃を私色に染め上げる」という言葉の物理的な上位互換のような悍ましさだ。
人間の生命維持の根幹を成す臓器を兵器として運用するなど狂気の沙汰としか思えなかった。
「そして三つ目が餓醒よ」
「これは骸徒が持つ根源的な本能を能力に変換する力なの」
「理性や知性といった人間らしさを完全に切り捨てて、絶対的な捕食者としての本能だけを極限まで研ぎ澄ますのよ」
「この状態に入った骸徒は痛みも恐怖も感じなくなるわ」
「ただ目の前の獲物を喰い殺すためだけの獣と化して身体能力が爆発的に跳ね上がるの」
「でも餓醒を使いすぎれば二度と自我を取り戻せなくなるわ」
「そのまま心を失って永遠に飢えを満たすためだけに彷徨う本物の化け物になってしまうのよ」
本能を変換する。
それは肉体の破壊よりも恐ろしい精神の完全な崩壊を意味していた。
あの病院の地下室で小夜が俺の首筋に牙を立てようとした時彼女の瞳に宿っていたあの焦点の合わない狂気。
あれが餓醒の入り口だったのだろうか。
俺はあの時の底冷えするような恐怖を思い出して小さく息を呑んだ。
そして最後に残った一つの能力。
小夜は自身の腕に走る無数の黒い線を愛おしむようにそして酷く憎むように撫で続けていた。
「最後に残ったのが赫哭よ」
「これは自分自身の血を能力に変換する力なの」
「体内を流れる血液を沸騰させて爆発的な推進力を生み出したり、血を体外に放出して硬化させ刃を形成したりするわ」
「私が日本刀を振るう時の圧倒的な身体能力もこの赫哭の力によるものよ」
「血を燃やし血を操ることで人間の限界を遥かに超えた動きを可能にするの」
小夜はそこで言葉を切った。
暗闇の中で彼女の真っ白な肌に刻まれたその乱雑な線がいっそう際立って見えた。
「今までの話で分かるように、私はこの四骸系の中で赫哭を保有しているの」
「そしてこの肌に刻まれた無作為な線は私が血を能力に変換し続けてきた呪いの証拠よ」
「赫哭を使うたびに体内の毛細血管が限界を超えて拡張し、血の成分が皮膚の裏側に焼き付いて消えなくなってしまうの」
「最初はほんの小さな染みみたいだったけれど使うたびに少しずつこのひび割れが広がっていったわ」
「まるで私が人間ではない化け物だということを忘れないように刻み込まれているみたいでしょ」
小夜は自嘲するように悲しげに微笑んだ。
俺は彼女の説明をすべて聞き終えて、改めてその白い肌に走る黒い線を見つめた。
ただの模様だと思っていたものが今は全く違う意味を持って俺の目に映っていた。
あの地下室で狂った看護師の首を一瞬で斬り飛ばしたあの美しくも凄惨な剣技。
それは彼女が自分自身の血を沸騰させ血管を焼き切るような苦痛と引き換えに放ったものだったのだ。
俺を守るために彼女は自分の肉体を削りこの痛々しい線を肌に刻み込んでいた。
意味を持たない乱雑な線。
それは彼女がこれまで経験してきた数え切れないほどの死闘と流してきた血の歴史そのものだった。
俺という存在のせいで彼女はさらにこの呪いの線を増やしてしまったのではないか。
そう思うと胸の奥がギュッと強く締め付けられた。
どこか痛々しく見える。
真っ白で綺麗な肌を無惨に侵食していくその黒い乱雑な線。
彼女が抱える孤独と痛みの重さがその線からダイレクトに伝わってくるようだった。
俺を傷つけようとする狂気とは全く違う種類の人知れず背負い込んだ重すぎる業。
俺は何も言葉を返すことができなかった。
ただ彼女のその痛々しい証をじっと見つめ続けることしかできない。
こんなにも優しくて不器用な少女がなぜこんな呪いを背負って暗闇の世界で生きなければならないのか。
気づけば俺の口角は自然と下がり酷く歪んだ泣きそうな表情になってしまっていた。
悲しかった。
自分の無力さも彼女の抱える痛みもすべてが重くのしかかりどうしようもなく胸が痛んだ。
俺はゆっくりと手を伸ばし彼女の腕に走るその黒い線にそっと指先で触れた。
「少し離れて」
小夜はスッと腕を引いて俺から距離を取った。
あれ。嫌われた?
俺は内心で急にツッコミを入れながら大人しく数歩後ろへと下がった。
さっきまでのシリアスで重苦しい雰囲気から一転して急に突き放されたような気がして少し焦る。
俺が離れると周囲の空間がさらに一段階暗くなったように感じた。
元から完全な暗闇だったのだからこれ以上暗くなりようがないはずなのだが本当に何も見えなくなってしまった。
自分の手のひらすら視認できない絶対的な漆黒だ。
俺が暗闇の中で戸惑っていると、不意に目の前でぽわんと赤い光が灯った。
最初は小さな火種のように見えた。
しかしその赤い光は徐々に面積を広げ暗闇の中で鮮やかな模様を描き出し始める。
それは小夜の腕から肩にかけて刻まれていたあの乱雑な黒い線だった。
痛々しいひび割れのように見えていた線が、まるでSF映画のサイボーグやゲーミングデバイスのように内側からルビーのような赫い光を放っているのだ。
辺りがその赤い光に照らされて少しだけ明るくなった。
そしてぼんやりと浮かび上がった小夜の顔を見て俺は思わず吹き出しそうになった。
あの涼やかでミステリアスな美少女剣士の面影はどこへやら。
彼女は俺の反応を待ち構えるようにしてこれ以上ないほどの完璧なドヤ顔を作っていたのだ。
「この線ね」
「実は光るの」
えっへん。という効果音が聞こえてきそうなほどのドヤ顔で彼女は自身の光る腕をこれ見よがしに見せつけてきた。
さっきまでの呪いの証とか悲しい業みたいな重い設定はどこにいったんだ。
俺の胸を満たしていたあの深い悲しみと罪悪感を返してほしい。
「かっけー!」
気がつけば俺は暗闇の中で馬鹿みたいに声を上げて笑っていた。
小夜もドヤ顔を崩して無邪気に笑い返す。
光る靴を買ってもらった幼稚園児が見せびらかして、もう一人の幼稚園児が目を輝かせてはしゃいでいるかのように。
「ふふん。実はね、虹色にも光るの」
「まじかよ!」




