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鏡合わせの虚無と暗闇に佇む骸徒

 どうして生きているんだ。

 俺の脳髄がパニックを起こしその疑問を口に出そうとした直前だった。


「なんで助けてくれなかったの」

「あの冷たい鉄格子の上で、ずっと空くんを待っていたのに」


 耳の奥の最も深い場所から結花の恨みがましい声がねっとりと響き渡った。

 昨夜見たあの生首の唇が動いたかのような生々しい幻聴だ。

 俺は恐怖で心臓が跳ね上がり、思わず一歩後ずさりしてしまった。

 しかし現実の目の前に立つ結花はあの虚ろな死に顔ではなく、血色の良い美しい顔で俺を不思議そうに見つめていた。


「空くん顔色がすごく悪いよ」

「大丈夫?」

「もしかして、どこか痛むの?」


 結花の口から紡がれたのは幻聴とは正反対の純粋な心配の声だった。

 彼女は俺の顔を覗き込み、その白く細い手を俺の額に当てようと伸ばしてくる。

 その手は間違いなく温かい血の通った人間のものだった。


 幽霊じゃない。

 幻覚でもない。


 結花は確実に生きて俺の目の前に存在しているのだ。

 昨夜のあの猟奇的な光景は俺の精神が極限状態に陥って生み出したただの悪夢だったというのか。

 俺が混乱の渦の中で言葉を失っていると、結花の視線が俺の横に立つ人物へとスライドした。

 俺の右手をしっかりと握りしめたままの理だ。

 その瞬間だった。

 結花の心配そうな表情から一切の温もりが消え去り、絶対零度の殺意が宿った。


「ちょっと理系女」

「どうして空くんと一緒に登校してきているの」

「空くんの隣は私の特等席だって昨日教えてあげたはずだよね」

「それにその手はすぐに離して」


 結花の声が教室の空気を一瞬で凍りつかせるほど、低く冷たいものへと変化した。

 周囲にいたクラスメイトたちがビクッと肩を揺らし、蜘蛛の子を散らすようにさらに遠くへと避難していく。

 しかし理は結花の殺気に満ちた眼差しを真っ向から受け止め鼻でふっと笑った。


「特等席の定義が非論理的だね」

「私は昨夜からずっと空のバイタルを最も近い距離で観測し続けていたんだ」

「今朝も彼に完璧な目覚めのコーヒーを提供して一緒に家を出た」

「つまり現在の空の所有権は物理的にも精神的にも私にあると証明されているんだよ」

「君のような過去の残骸に文句を言われる筋合いはないね」


 理の言葉に結花のこめかみにピキッと青筋が浮かんだのが見えた。

 理も理でわざわざ俺の家に泊まり込んだことを強調してマウントを取りに行っている。


「はあ?」

「たかだか一晩勝手に上がり込んだくらいで彼女面しないでよね」

「私は空くんがランドセルを背負っていた頃からずっと愛を育んできたんだから」

「空くんの胃袋の形も好きな体位も全部私が一番よく知っているのよ」

「泥棒猫はさっさとその白衣ごと焼却炉にでも入ってきなさい」


 結花がとんでもないパワーワードを教室の中心で堂々と叫んだ。


 というか、ちょっと待って。聞き捨てならない言葉が混じっていたような。


 クラスメイトたちの俺を見る目が完全にドン引きした汚物を見るような目へと変わったのがわかった。

 俺は顔から火が出るほど恥ずかしくなり、必死に止めに入ろうとした。


「おいちょっと待て二人とも」


 俺の制止の声など彼女たちの耳には全く届いていなかった。


「過去のデータなど今の空には何の価値もない」

「私は今この瞬間の空の細胞の震えすらも完全に掌握しているんだ」

「昨夜だって空は私の冷たい指先に抗えずに素晴らしい快感の表情を見せてくれたよ」

「君のような古臭い執着しか持たないメス豚に、空の繊細な精神は管理できないね」


 今度は理が昨夜のあの屈辱的で背徳的な制圧劇を大声で暴露しやがった。

 やめろ。

 これ以上俺の社会的尊厳を削り取るのはやめてくれ。

 俺は両手で顔を覆いたくなったが、右手を理にホールドされているためそれすら叶わない。


「管理だなんておこがましいにも程があるわ」

「私は空くんのためなら自分の命だって喜んで捧げられるんだからね」

「空くんが望むなら私の心臓を今すぐ抉り出してプレゼントしたって構わない」

「あなたみたいに理屈ばっかりで空くんの心を縛るだけの冷血人間とは愛の重さが違うのよ」


「ここをメキシコだと勘違いをしているのかい?」

「非科学的な自己犠牲など愛でもなんでもないただの自己満足だ」

「私は空を誰よりも安全な無菌室に閉じ込めて永遠に生かしてあげる完璧な計画がある」

「君の薄っぺらい感情論と一緒にしないでくれないか」


 朝の爽やかな教室が二人による愛の重さマウント合戦のコロシアムと化していた。

 俺は完全に置いてきぼりだった。

 つい数分前まで結花の死に絶望し、理によって精神を完全に砕かれていたというのに。

 目の前で繰り広げられる次元の違う痴話喧嘩のせいで俺のシリアスなトラウマが物凄い勢いで上書きされていく。

 昨夜の生首事件の謎は全く解明されていない。

 だが今はそんな猟奇的な謎よりもこの教室の凄まじい湿度と社会的公開処刑の嵐からどうやって生き延びるかの方が俺にとっての最重要課題となっていた。


 教室の中心で二人のヤンデレが繰り広げる凄まじい舌戦はもはや誰にも止められない領域に達していた。俺は二人が互いを罵倒し合う声の隙間を縫って小さく呟いた。


「ちょっとトイレ行ってくるから」


 当然ながらヒートアップした彼女たちの耳に俺の弱々しい声が届くはずもない。理も結花を論破することに夢中になっていたのか、俺の右手を握る力が僅かに緩んでいた。

 俺はその一瞬の隙を突いて理の手を振り解き教室の喧騒から逃げるように廊下へと飛び出した。


 逃げ込んだ男子トイレは不気味なほどに静まり返っていた。冷たいタイル張りの空間に俺の荒い呼吸だけが反響している。

 水道の蛇口を捻り冷たい水を両手に受けて顔に思い切りぶちまけた。滴る水滴を拭いもせずに洗面台の前に立ち鏡を覗き込むとそこには完全に疲労困憊した青白い顔の男が映っていた。

 結花が生きていた。

 その事実が俺の脳髄を激しく揺さぶり続けている。俺は震える手を伸ばし自分の右の頬を思い切りつねった。


「痛ぇ」


 確かな痛みが神経を走る。これは夢じゃない。肉体が発する明確な痛覚が今ここにある現実を証明している。

 しかし夢じゃないのなら何故死者が蘇るというのだ。


 昨夜のあの結花の土気色の顔と門扉に突き刺さっていた生首の光景は、絶対に俺の妄想なんかじゃない。生温かい血の匂いも地面に転がった時の鈍い音もすべてが鮮明に脳裏に焼き付いている。もしあれが現実で今のこの学校の光景も現実なのだとしたら世界はどう狂ってしまったというのか。


 これはやはり夢だからだ。


 俺はそう結論づけるしかなかった。人間の脳は耐えきれないほどのストレスを受けると自己防衛のために都合の良い幻覚を見せることがあるという。

 きっと俺は昨夜のあの豪邸の前でショックのあまり気を失って倒れたままなのだ。そして結花が生きていてほしいという俺の願望がこの平和な朝の学校という都合の良い夢を作り出しているに違いない。

 俺は目を閉じ、もう一度さらに力を強めて自分の頬をつねり上げた。皮膚が破れそうになるほどの激痛が走る。


 目を開けるとそこはトイレの洗面台ではなかった。

 上下左右の感覚すら消失するような絶対的な暗闇。光の粒子一つ存在しない真っ黒な世界に俺は一人で立ち尽くしていた。

 足元に床があるのかすら定かではない。空気の流れも匂いも環境音もすべてが完全に途絶えた純粋な虚無の空間だ。


 やっぱ夢なのか。


 周囲の完全な虚無を見渡しながら俺は静かにそう悟った。この暗闇こそが俺の意識の最も深い底なのだ。

 じゃあ、あの教室で笑っていた結花はただの幻影だったということになる。俺の逃避が生み出した悲しい蜃気楼だ。結花は死んだままなのか。

 そりゃそうだ。死んだ人間が生き返るはずがない。

 一度失われた命が都合よく元通りになるなんてことはおとぎ話の中でしか起こり得ないのだ。心臓が止まり、血液が流れなくなった肉体が再び朝の光を浴びて笑うなんてあり得ない。


 俺の胸の奥で相反する二つの激しい感情がぶつかり合い軋みを上げた。


 自分は結花が生きていて欲しいと心の底から願っている。

 あんな猟奇的な執着であっても俺を愛してくれた彼女を失いたくない。あのまま死んでほしくない。彼女が生きているのなら俺はもうあの重すぎる愛を受け入れてもいいとすら思っていた。

 だがその裏で死者が蘇るなんていう自然の摂理に対する冒涜はない方がいいと思っている自分も確かに存在していた。

 一度終わったものを無理やり現世に引きずり戻すような行為は人間が絶対に踏み込んではならない禁忌の領域だ。

 死という絶対的な終わりがあるからこそ命は尊いのだ。そんな歪んだ形で生き返った結花が果たして本当に俺の知っている結花だと言えるのだろうか。

 それは結花の皮を被った全く別の悍ましい何かではないのか。


 生きていてほしいという切実な願い。

 死の不可逆性を受け入れてはいけないという冷酷な理性。


 俺はその二つの感情の狭間で引き裂かれそうになりながら真っ暗な世界で一人頭を抱えて苦しんでいた。

 肺の中の空気が重く澱み呼吸をするたびに胸が痛む。自分がどう狂ってしまったのか正気と狂気の境界線すらもう分からない。


「どうして、ここにいるの」


 背後から唐突に声が聞こえた。

 静寂の虚無世界に一滴の水が落ちたような澄み切った声だった。

 俺は弾かれたように振り返った。

 暗闇の中にぼんやりと浮かび上がるようにして、一人の少女が立っていた。

 漆黒と雪のような髪と、透き通るような白い肌。

 俺をこの狂気の世界から救い出し、あの病院の当直室で静かに寄り添ってくれた骸徒の少女。


 小夜だった。

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