(十一) 惑い
源二郎は動けなかった。
みのを抱き締めたい強い衝動にかられていた。しかし、人妻であるみのにそんなことをしてはならない。何よりもみののために。
衝動を抑えるには、動かないことしかできなかった。
「心配してくれるのは誠にありがたい。忝ない。だが、押込み探索の一員である限り、怪我を理由に何もしないことこそ町方の同心としてありえない。ましてや、俺は賊の顔を知っている。力量も知っている。怪我はしていても、そこは有利に働く」
源二郎はみのに語りながら、自身をも鼓舞していた。それまでは己を「それがし」と言っていたのに「俺」と言っていることに気がついていなかった。
「あたくしは何もできません……それが悔しくて……」
みのが両手で顔を覆ったまま、絞り出すように言った。
「何を言い出すのだ。そなたは俺を助けてくれている。色々と気遣ってくれて、十二分に助けてくれている。まだまだここへ我々、三人は居候するのだ。それを受け入れてくれている以上の合力はない。ましてや、そなたは身重の身だ。これ以上我々のことを気に病むのは止めてくれ。頼むから、止めてくれ……」
最後は自分でも驚いたことに、懇願する口調になっていた。
みのは顔を覆ったまま立ち上がると、うつむいたまま、障子を開けて部屋を出ていった。
源二郎は思わず立ち上がった。
きくもみのを追いかけようとして立ち上がったが、そこで動きを止めた。くるりと源二郎に向いた。
「榊様、あなた様にはご迷惑かとも存じますが、何とぞ、できる限り、おみの様のお気持ちを汲んでくださいませ。あなた様の身にこれ以上何かあったら、おみの様はきっと早産してしまいます。わたくしにはわかります。おみの様には中屋へ嫁ぐ前からお仕えしているのですから」
きくはそこで口を閉じたが、まだ何か言いたそうだった。しかし、結局、そのまま一礼して去っていった。
源二郎は呆然と立ちすくんだ。今、耳にしたみのの言葉とそこから感じた気持ちも、それに続くきくの言葉も、その二人の言葉に揺れた己の気持ちも、すべてが予想外だったのだ。
みのは小網町にある油問屋、萬屋の長女だと源二郎は田中から聞いていた。父親が米相場に手を出して失敗し、店が大きく傾いたのを、みのの器量に惚れていた中屋の若旦那がみのを嫁にする代わりに立て直す金を渡したらしい。口さがない世間は娘を中屋へ売ったようなものだと揶揄したという。
萬屋は中屋が提供した金で負債の大半を返し、その後は主が心根を入れ換えて油の商いに専心しているため、最盛期より規模は小さくなったものの、今も中堅の店として続いている。
一方、薬種問屋の中屋は若旦那がみのを娶った当時は飛ぶ鳥を落とす勢いで売上を伸ばしていたのだが、賊の押込みでみのときえだけが生き残り、蓄えた金はすべて盗まれてあっけなくつぶれた。世の中一寸先は闇ということわざどおりである。
みのはいったんきえを連れて実家に戻り、そこから今度は清水屋へ嫁いだ。清水屋の若旦那もまた前々からみのに惚れていたからだ。そして、みのを娶ると同時に若旦那は店を継いだ。
みのはどちらへも親の勧めるまま、嫁いだという。つまり、中屋の若旦那も清水屋の主もみのが惚れた相手ではないということだ。
きくはみのが十になる頃に萬屋に勤め始め、萬屋からみのについて中屋へ行った女中である。清水屋へもみのについてきた。みのはもちろん、萬屋の主も全幅の信頼を置く女中らしい。
確かにみのに付き添うきくには、女中というよりも、母親の雰囲気を源二郎は感じる。
翌朝の六畳間には、きくだけが膳を持って現れた。
前夜にきくが何を言おうとして止めたのか、源二郎は気になっていたが、単純に尋ねてははぐらかされる気がした。どう訊いたら答えてもらえるのかもわからない。
心が決まらないまま、きくに礼だけを言い、源二郎は黙々と飯を食べた。
奉行所での朝の集まりが終わるや否や、源二郎は安藤と会うために奉行所を飛び出した。万蔵が勝手についてくる。
今回の待ち合わせは川の上、屋根船だ。源二郎と万蔵は日本橋近くの河岸で舟に乗り、待ち合わせの中洲へ向かった。既に安藤と勘六が乗る屋根船が目印の手拭いを舳先につけて待ち受けていた。
安藤と勘六が向かい合って座っていたため、源二郎は勧められるまま安藤の隣に腰かけ、万蔵を二人に引き合わせた。
万蔵は勘六親分の隣に遠慮がちに座った。
「見張りに十人揃えることができそうだ。あと二人、そっちで揃えられるかい?」
安藤が舟の中でも注意深く小声で言ってきた。
「十人も揃えていただけるとは……十分です。二人、こちらから出せます。」
「数は揃えたが、その分玉石混淆だ。捕物には役に立ちそうにないのがいる。いいかね?」
源二郎は頷いた。
「捕り方に繋いでくれれば良いのです。足は早いに越したことはありませんが……」
続いて二人は勘六を交え、どこに捕り方が控えるのが良いか話し合った。
結局、真ん中に位置する中佐賀町にある書物問屋の内田屋に潜むことになった。
実際に場所を確かめるのは賊に気づかれる恐れがあると、三店の見張りの手配と潜む場所、内田屋での捕り方の控え場所の仔細を安藤と勘六から聞き出し、源二郎はいったん清水屋に戻ることにした。見張りと捕り方の控え場所を真乃に告げるためだ。
源二郎と万蔵が清水屋に戻ってみたら、勝手口のすぐ横にある例の六畳間に真乃はいなかった。
万蔵をそこに残し、源二郎が真乃を探していると、庭から声が小さく聞こえた。誰かと話している。
「おい、真の字」といつものように声をかけようとして、源二郎の声も足も止まった。
言葉は聞き取れなかったが、みのの声がしたのだ。
源二郎はそっと声がする方に近づいた。
「……いけないとわかっていても、あのお方のお顔が見たくて、何かして差し上げたくて……こんな気持ちは初めてなのです。ただあのお方をお助けしたい、何かのお役に立ちたい、それだけなのです……あのお方が苦しむのは見たくない……」
みのは泣きながら話している声だった。
「心は自分のものなのに、思うようにいかないものだね。それこそが人だと私は思う。無理だとわかっていても、惹かれる時は惹かれる」
真乃はいつもの落ち着いた声だ。
「源二郎は良い男だよ。美男子とは言えないが、そこそこ整った顔をしているし、料理も繕いも上手いから、嫁は楽できる」
笑いを含んだ真乃の言葉の後半に、源二郎は脱力しそうになるのをなんとか堪えた。
「榊様のご新造様になられる御方が羨ましい」
返したみのの声にも少しだけ笑いが含まれていた。
「思うだけなら、罪にならないからな。問題は、その心にどう対処するか、だよ」
「あたしには何もできません……あのお方のためにどんなことでもして差し上げたいと思うのに、何もできないんです。してはいけないんです。あのお方に傷をつけるようなことはしてはいけないと、おきくに窘められました。青井様もそう思っていらっしゃるのでしょう?」
最後の方のみのは声をつまらせていた。
「そんなことはない。そなたならではの、源二郎のためにできることがある」
「ほ、本当でございますか?」
「やってくれるかい?」
「あたくしでできることでしたら、どんなことでもいたします。何をすれば良いのか仰ってくださいまし」
少し間が開いた。真乃がみのの真意を量るように見つめている間だと、真乃をよく知る源二郎は思った。
「まずは無事にお腹の子を産み落とすこと、次にそなたもその子も息災で過ごすことだ。そなたときえ、産まれてくる子が息災に、幸せに暮らすことだ。赤子は弱いから、決して容易いことではないが、ぜひやりとげてもらいたい。三年後、五年後に元気でやっていますと、子供を連れてそなたが八丁堀へ顔を出したなら、どんなにあいつが喜ぶことか。顔を出さずとも、便りだけでも良い。ただし、嘘は駄目だ。すぐにバレるからね」
長い沈黙があった。
「そのようなことが本当に榊様のためになるのでございますか?」
疑っている声だ。
「なるとも。あいつが自分をがんじがらめに縛っている縄をほどく大きな助けになる。それこそがあいつに一番必要なことなのだ。源二郎の生い立ちのことは聞いているかい?」
「お母上様が榊様をお産みになってすぐにお亡くなりになったことはお聞きしました」
「源二郎は私と一緒に私の母に育てられたのだが、その育ての母も十一の時に亡くなってな……そなたも存じているように兄君も亡くなり、父君も亡くなった。詳しいことは省くが、他にも源二郎が大事に思っていた人物が若くして亡くなっている。そのせいで源二郎はすっかり臆病になってしまった。人を好きになることにね。その上、今度は……まぁ、それは言わずにおくか。決着はこれからだからな」
「人を好きになることに臆病に……」
「ひょっとしたら私は忘れろというよりも、残酷なことを頼んでいるのかもしれないが……」
源二郎は話している二人の顔が見たかった。しかし迂闊に動くと真乃に盗み聞きしていることがバレてしまう。
「いえ……いいえ……はじめから叶わぬことだとわかっているのですから。よくわかっていることですから。それが本当にあのお方のためになるのでしたら……」
「間違いなく、源二郎のためになる。その代わり失敗したら、源二郎は立ち直れないほど落ち込むかもしれない。責任重大だよ」
「そんな、立ち直れないなんて……」
「脅かしてすまない。しかし、考えようによっては、素晴らしいと思わないかい?惚れた男のために将来恋人や嫁になる女よりも、そなたは大きな、大事なことができるのだ。女冥利につきないかね?」
またみののすすり泣きが聞こえた。
「やってくれるかい?」
みののすすり泣きが嗚咽に変わった。
「引き受けてくれてありがとう。私はそなたのような人物が現れるのを待っていたよ。本気で源二郎を好いて、ひたすら与えようとする女を……」
「青井様……」
みのの声は震えていた。
源二郎は真乃の人の心を見抜く恐ろしさに、その的確な対応力に思わずしゃがんだ。すると皮肉にも灌木の幹や枝の間から二人の姿が見えた。
予想どおり、みのが真乃の胸に顔を埋め、真乃は優しくみのを背を抱いていた。
源二郎はみのの震える肩に目頭が熱くなっていた。なんとか涙を堪えた。
しかし、今、目の当たりにした真乃の言動に、源二郎の心にはみののことだけでなく、兄、恭一郎のことも浮かんでいた。それまで真乃は兄の気持ちに気づいていなかったと、源二郎は思っていた。それもまた源二郎の心の枷のひとつだ。源二郎が知らず兄から奪ってしまったのは、母親だけではなかったという……
――気づいていながら、気づかない振りをしていたのだろうか?
「結局、真さん、美味しいところ持っていくよなぁ……」
万蔵の涙声が小さく後ろに聞こえた。
いつの間にか後ろで同じようにしゃがんでいた万蔵の口を片手で塞ぎ、もう片方の手でぐいと衿を掴んで源二郎はそっと勝手口まで戻った。
万蔵はおとなしく源二郎に引きずられた。下手に抵抗したら、余計に痛い目にあうことを万蔵はよく知っている。
「麹町までひとっ走りして雉を二羽買ってきてくれ。それから山椒、胡椒に唐辛子もだ。塩は清水屋に分けてもらおう。あ、網もいる」
「うわっ、久しぶりに雉の山椒焼き作るんでやすね!」
「今夜から暫く昼夜ひっくり返る暮らしになる。力をつけるためにも、こういうときには鳥か獣の肉だよ」
「旦那の肋にもいいっすよね、きっと」
万蔵は源二郎が出した銭を受け取ると、嬉しそうに勝手口を飛び出して行った。
深川へ出掛ける前の早めの夜食を源二郎は自ら腕をふるって用意した。
雉の血で台所が汚れることを主夫婦に先に詫びておいて、源二郎は万蔵が買ってきた二羽の雉を素早く捌いた。そのうちの五分の四はぶつ切りにして下味をつけた。焼くのは外である。庭に穴を堀って薪を入れ、網を上に置いて雉肉を焼くのだ。
薪は薪割りが趣味の真乃が準備し、穴は万蔵が掘ったのだが、二人とも久しぶりに好物の雉の山椒焼きが食べられると、冗談を交わし、楽しそうに作業をしていた。
――やっぱり真の字と万蔵こそ、気があっているじゃないか。
あとは焼くだけなので、雉の山椒焼きの方は万蔵と真乃に任せ、源二郎はみのときえのために残りの雉肉をみじん切りにして卵や小麦粉と混ぜた、あまり雉肉を食べていると感じない一皿を作った。舟庵に尋ねたら、妊婦にも鳥や獣の肉は良いという答えだったからだ。
「心の方が気にしないなら、食べさせるのが良い」
手際よく料理を作る源二郎を主夫婦も清水屋の奉公人も皆、興味津々で見ていた。
「次男坊の源二郎は武士の身分を捨てて、町地で飯屋を開くつもりだったからね。そもそも食べることが好きで、工夫するのも好きだ。私は源二郎が工夫した料理を何度も毒味……もとい、味見させられたよ」
真乃がそんな観衆に源二郎の過去をばらしてしまった。
余計なことを言い触らすなと言おうとして真乃に振り向いた源二郎は、驚きと戸惑いが混ざったような複雑な表情をしたみのと目があってしまった。すぐにまな板に向き直った。
「包丁捌きが見事ですな。確かに料理人としても引く手あまたでしょう。榊様は多芸ですなぁ」
清水屋の主が感心しながら、美味い、美味いと焼きたての雉の山椒焼きを頬張る。
その横でみのはきえにも食べさせながら、源二郎が作った雉肉入りの卵料理を一口、一口、ゆっくりと味わっていた。
「ふわふわで、とても美味しいの。優しいお味。いくらでも食べられるわ」
そう言いながら、みのは夫ときくの小皿もひとつずつ置いた。二人は遠慮がちに箸を伸ばし、一口食べると、揃って驚いた顔を見せた。
みのの横に座っているきえは頬張った顔でもっとほしいと母をせっついている。
源二郎はその穏やかな心和む光景を目に焼き付けておきたいと思った。賊と立ちあった時にも、頭のどこかに置いておきたかった。どんな荒んだ状況になろうとも、荒みに己が引きずられることがないように。己を律するために。
源二郎の気持ちは、徐々に捕物へと向いていた。
初日の張り込みは何事もなく過ぎた。ほっとして清水屋に戻った三人は、揃って夕方近くまでぐっすりと寝た。張り込んでいる間に交代で仮眠を取ったが、どうしても眠りは浅い。源二郎は胴丸と脛当を身につけていたから、余計に身体は休まらない。休めるときに休むのは戦士の鉄則だ。今の源二郎と真乃は戦士の頭になっている。
その日の夜食は昨日のお礼とばかり、清水屋の賄い担当が腕によりをかけて大量の料理を用意してくれた。夜中に食べる握り飯もたっぷり持たせてくれた。
出掛ける準備をしている間、源二郎も真乃も口を開かなかった。
今夜か明日か。
二人の勘は勝負の時をそう告げていた。
二日目の夜は、丑三つ時に上佐賀町でつけ火騒ぎがあったが、自身番と木戸番がすぐに鎮火し、つけ火した男を捕まえたため、三店を見張っていた連中も、捕り方の二人も動くことがなかった。
もしもすぐに火を消せず、見張りが動いていたら、賊に町方の動きがバレていたかもしれない。判断の難しいところだった。
大川の西で押込みがあれば、清水屋経由で知らせが届く手はずになっているが、その急使もなく、夜が明けた。
「今夜だな」
真乃が伸びをしながら呟いた。
源二郎は無言で胴丸を脱いで、帰り支度をした。
何も言わずとも、源二郎もまた同じことを感じていると、真乃にはわかっているはずだ。
前日同様、源二郎達三人は夕方近くまでぐっすりと寝た。起きたら前日同様、清水屋の賄いが夜食と弁当を大量に用意してくれていた。
礼を言い、黙々と食べる源二郎と真乃に、清水屋の人々は二人が今夜を勝負時と思っていることを感じたらしい。ことさら明るく振る舞うことはせず、明日はお好きなものをお作りしますよと賄い役の奉公人が言ってきた。
好き嫌いは無いから、なんでも良いと源二郎は返した。熱い味噌汁と飯さえあれば良いのだと。
胴丸と脛当を入れた行李を背負い、源二郎がいざ勝手口から出掛けようとした時、きえがきくに連れられて上がり框にやって来た。右手にお守りを握りしめている。
きえは黙って源二郎にそのお守りを突き出した。
「このお守りをくれるのかい?ありがとう」
源二郎は気さくにお守りを受け取り、きえの芥子坊になりつつある頭を撫でた。
妙に照れていると思ったら、きえは突然両手を源二郎に向かって伸ばした。抱えあげろということだ。
源二郎は苦笑しながらきえを抱えあげた。すると、今度は「ふわふわ!」と言いながら、首に両腕を回してきた。
「また作れってことだな。捕物が終わったら、作ってやるよ。待ってろよ」
片手できえを抱き、空いた手で首にしがみついている細く柔らかな腕をほどきながら、源二郎はしみじみときえの顔を見た。
きえはみのの子であると同時に、兄が命と引き換えに救った子だ。兄の命を受け継いでいる気がした。
この時代の乳幼児の死亡率は高い。
きえに幸あれ、このまま無事に大きくなれと祈りながら、源二郎はその額に軽く口づけた。そんなことをしたことはない。初めてだった。
それから、そっときえをおろそうとした。ところがこれがおりない。いやだいやだと源二郎の腕にしがみついてくる。
きくがなんとかきえを引き取ろうとした。
「きえ様、榊様はこれから大事なお勤めがあるのです。ここで戻られるのを待っていましょうね」
「源二郎はいつも大人より子供に好かれるよな」
後ろから真乃の面白がる声がした。
「子供の方が正直で、人柄の良さを見分けるからな」
源二郎がそんな返しをしながら、ようやくきえをきくに渡し終えたところで、勝手口の奥にある障子の影にみのが潜んでいることに気づいた。そうではないかと思っていた。
みのは自分の代わりにきえに激励の挨拶をさせたのだ。その様子を影から見ずにいられなかったのだ。
昨日、みのは源二郎の前に全く姿を見せなかった。
具合が悪くなっているのではないかと気になり、源二郎が思いきってきくに尋ねたら、今のあなた様を見たら、心配で心配で、泣かずにはいられないからですよと、淡々とした口調で返された。
「あなた様を責めているわけではございません。おみの様があなた様に心惹かれただけですから。出会ったのが不幸でした。勘違いなさらないでくださいね。おみの様のあのようなお姿を見るのは初めてです」
みのもわかっている。まだ独り身の町方の同心である源二郎に変な噂がたってはならないと。
源二郎は上がり框できくに手を振らされているきえに手を振り返し、勝手口を閉めた。
「おきくがどう言ったかは知らないが、おみのさんはおまえと出会ったことを悔いてないよ」
路地を並んで歩きながら、小声で真乃が言った。
万蔵は二人の後ろを弁当を包んだ風呂敷包みと茶を入れた手桶を持って歩いている。ちなみに真乃は三本の吸筒と源二郎が控え場所で履くたっつけ袴を包んだ風呂敷包みを下げている。
「なんでそんなことがわかる?」
源二郎も小声で返した。
「この前、そんなセリフを言いかけて、自分で打ち消したからさ。思うより、口にしてわかる本音かな」
源二郎は真乃の横顔をまじまじと見た。
「俺が途中から盗み聞きしてることに気づいてたろ?」
「もちろん。おまえに聞かせるのもいいかなと思った。おみのさんのためにね」
「……ホントに恐ろしいやつだな……」
「あんな美人妻に惚れられた気分はどうだい?」
「ふざける気にならん」
「本気で聞いてるんだよ」
「おみのは大事な時期だ。負担をかけるようなことはしたくないんだ」
「残念ながらとうにかけてる」
源二郎は真乃に向いた。
「俺にどうしろと言うんだ?俺にできることは」
「早くあの賊を捕まえることだけだ」
真乃も源二郎に向きながら源二郎が言おうとした言葉を言った。
「その通りだと思う。おまえがおみのさんにしてあげられることもまた、元気でいることだけだ。御町の旦那として颯爽と町を歩く姿を見せることだ。二人とも真面目で本気だからね。困ったことに清水屋の旦那は頗る人が良いし。悪い癖でもあれば、別れろということができたろうけども」
源二郎も清水屋の主には好感を持っていた。町人としては背丈も幅もある男で、見た目通りのおおらかな気性をしている。甘いものが大好きで酒は飲まない。みのを見る目は優しさと愛情に溢れている。みのは二度目だが、清水屋の主は初婚だ。
「どうして俺にそんなことを言うんだ?何故、今……」
「おまえの迷いを解くためさ」
源二郎は思わず立ち止まった。
「今の手負いのおまえがあの白井さんに勝つには、迷いがあってはならないからだよ」
内田屋の木戸に近い六畳間が源二郎と真乃が控えている部屋だ。日頃は主夫婦が寝ている部屋だが、賊が押し入るかもしれないと聞いて、二人は寝室を変えた。
捕り方の二人にしても、そこからならば、すぐに外へ出ることができて好都合だ。
内田屋に入る時も警戒して一人ずつ入るようにしている。
途中で三人は必要な荷物を渡し、受け取り、真乃は表からいかにも本を持ってきたか見に来た風を装い、源二郎は頬かむりした使用人のふりをして裏木戸から入る。万蔵は直助、勘六親分の下っ引き二人と組んで宮嶋屋を見張る役を割り当てられているから、佐賀町をさらに東へ行く。
見張りが潜むのは三ヵ所とも押し込み先候補近くにある家の二階だ。二階というのは、見晴らしの良さもあるが、すぐに賊に襲われないという配慮もあっての選択である。
内田屋を見張るのは勘六親分手下の四人だ。内田屋の裏側にある店の二階に夕刻から潜み、見える範囲の通りや路地を見張っているはずである。
内田屋から今川町にある明樽問屋の越後屋は少し遠いが、その不利を補うため、安藤かその小者が舟で控えていることになっている。
同じ中佐賀町の二つ隣の区画にある鰯魚〆粕魚油問屋の宮嶋屋へはすぐに駆けつけることができるから、内心では真乃も源二郎も越後屋ではなく、内田屋か宮嶋屋に賊が押し込むことを願っていた。
二人は賊がどう逃げようとも追いかけられるように、場合によっては先回りできるように、この辺りの地図を念入りに頭に入れてある。じっと待つ間にも何度か地図を見直す。
源二郎はそっと障子を開けて、外を見た。
うなじに何かがピリピリと走る。空気が張りつめていると感じる。
――もうすぐ何かが起こる。きっと……




