第1話 替え玉令嬢として捨てられる日
公爵家のサロンで、私の名前が呼ばれることはほとんどない。
代わりに呼ばれるのは、いつも別の名前だった。
「ロザリンド様、今夜は青薔薇のドレスで」
針子が頭を下げ、公爵夫人が満足げに頷く。私は鏡越しにその顔を見つめた。三十二歳の宮廷会計官エルマ・セヴラン。けれどこの部屋では、病弱で人前に出られないはずの公爵令嬢ロザリンドの替え玉だ。
「返事が遅いわ、エルマ」
公爵夫人ヘレナ・エーレンベルクが扇を閉じた。
「今夜の晩餐会を乗り切ればいいの。王弟殿下の側近に、ロザリンドが健やかだと印象づけられれば十分。あなたは黙って微笑んでいなさい」
その言い方に腹は立ったが、驚きはない。私は五年前からこの公爵家の裏帳簿を整え、その見返りとして母の治療費を払ってもらってきた。病弱なロザリンドが寝込むたび、顔立ちの似た私が表に出る。それがこの家の秘密だった。
「離宮の会計報告も、本日までに確認していただけるはずでした」
私が言うと、公爵が露骨に眉をひそめた。
「些末な話を今するな」
「些末ではありません。薔薇離宮の赤字は三季連続です。仕入れ額が実在庫と合っていません」
「だから今夜、お前を送る」
公爵は当然のように言い切った。
「晩餐会が終わったら、そのまま薔薇離宮へ向かえ。しばらくロザリンドとして滞在し、監査が終わるまで屋敷を整えろ」
私は息を止めた。
「監査をごまかすために、ですか」
「言葉を選べ」
「それに、離宮はもう予算が尽きています」
すると奥の長椅子から、小さな笑い声がした。薄絹に包まれたロザリンド本人が、薬草茶の杯を持ったままこちらを見ている。二十七歳。確かに病弱ではあるが、都合の悪いときだけ寝台に隠れるのもまた事実だった。
「お姉様みたいな顔をして難しいことを言うのね、エルマ。得意でしょう? 数字を並べて、足りない分をどうにかするの」
お姉様。血はつながっていない。私の亡き父はこの家の遠縁で、母子ともども拾われただけだ。
「私は会計官です。魔法ではありません」
「じゃあ証明してみせて」
ロザリンドは微笑んだ。
「あなたが優秀なら、離宮ひとつ立て直せるでしょう?」
胸の奥が冷えた。
晩餐会のあと、私は着替える間もなく馬車へ押し込まれた。渡されたのは“ロザリンド・エーレンベルク”名義の滞在証と、残高のほとんどない離宮口座の鍵だけ。
「監査が済むまで戻るな」
公爵の最後の言葉はそれだけだった。
王都の灯りが遠ざかる。私は膝の上の帳簿を開き、乾いた笑いをこぼした。
替え玉として使われるだけなら、まだ仕事だと思えた。
けれど赤字と不正の責任まで押しつけるつもりなら、話は別だ。
薔薇離宮へ着いたら、まず数字を洗う。
それで沈むのが離宮なのか、それとも公爵家なのか、はっきりさせよう。




