ボロアパートは桃源郷
老婆はナイトの祖母、川原井メイであった。妖気と見間違えそうな鼻息で、床のほこりが舞い上がり、厨房で調理途中だったのか、卵焼きがジューシーを通り越し、フライパンの上でエキサイティングに黒焦げている。
瓦礫のような家具に囲まれた室内に、厨房から黒煙が立ち込め、その様相はリアルな魔界と表現していいかもしれない。
ナイトは、とりあえずフライパンにかけられた火を消して、換気のために窓を開け放った。
「川原井メイ……あなたが? 申し訳ない。大家とも知らずに無礼を働いた。自分は犬神輝鈴。今日からこの吉備田荘で世話になる者だ。どうか見知りおきを」
輝鈴は短刀を懐にしまいこむと、恭しく頭を下げ一礼した。
メイは輝鈴の言葉を受け止めると、一瞬動きが停止して、山姥みたいな顔が、優しい山姥みたいな顔になった。要するに、あまり変化はないのだが、それでもナイトが知る限り一番優しい顔だ。
「お待ちしておりました、犬神様。今日からどうかよろしくお願い致します、ははー」
優しい山姥は床にひざまずき、そのままひれ伏した。そして、絶対服従みたいな感じで態度が百八十度転換する。
なんじゃそら。ナイトは呆気に取られた。
「うむ。入居は今日の夜だったが丁度いい、このまま部屋に通してもらおう」
「はは! ささ、どうぞどうぞこちらへ。何か不便がございましたら、そこのボンクラをこき使ってくださいまし! こらナイト! 犬神様の御前で頭が高い! 控えおろう!」
まるでこの紋所が目に入らぬかといわんばかりの勢いで、メイは輝鈴の側に控えた。
ナイトはとりあえず、ほこりだらけの床に四つん這いになってみた。
その様子に輝鈴は満足し、何度も勝ち誇ったいい笑顔で、うむと頷く。
「猿願寺様と木地様は、ご一緒ではないのですか?」
「あいつらはまだバイト中だ。おっと、自分もそうだったか。まあ、クリンネスタイムも終わったし問題はない……大家、とりあえず部屋に通してくれ」
「では、そこのボンクラにご案内させましょう。ナイト! 犬神様は今日からこちらでお暮らしになられる神様だ! 部屋はあんたの隣だよ。ホレ、鍵! くれぐれもご無礼のないようにね!」
「え? 犬神さんが……吉備田荘に、入居? なんで?」
「学校からこれだけ近いのだ。通学する環境としては悪くない。それに、犬神家の女子は二十歳になるまで己の牙を磨き、一人で生きねばならん。実家は確かに金を持ってはいるが、自分はまだ未成年。成人するまでは直系の女子といえども、家の財産を自由に行使することは禁じられている。だからバイトをしつつ、場末のボロアパートに牙城を築いたのだ。しかしまさか……貴様がここの大家の孫とは……面白い」
「え、え? 何? じゃあ今日からここで犬神さんも暮らすの? マジで? お風呂のぞいていい?」
輝鈴は懐から短刀を取り出すと、刃を引き抜き、切っ先をナイトに向けた。
「命が惜しくなければやってみろ。自分に気取られぬよう、果たせれば見事なものだ。だが……」
輝鈴は素早く短刀を投げた。それが壁にもたれかかっていた、フライドチキンチェーン店の店先に置かれている、ヒゲの紳士の人形の額に命中した。ちなみに、あれはメイが『健太』と名付け、仏像代わりに毎日拝んでいたりする。メイが酔ったときに、どこからともなく盗んできた物だった。
渦中の健太は額を貫かれて、笑顔のまま顔が真っ二つになり、冥土喫茶の瓦礫へ仲間入りを果たした。
ナイトはその鮮やかな腕前を見て、生唾を大量にごっくんすると、愚かな考えを捨てた。
「部屋はこっちだよ、付いてきてね犬神さん」
ナイトはへらへらしつつ、輝鈴の前を通って店の外に出た。輝鈴は腕を組みそれに続く。
外に出て、その脇に設置された階段で二階にあがる。ナイトは輝鈴にあてがわれた部屋の前まで来ると、鍵を取り出して開錠し、靴を脱いで中に入った。
そして、すぐさま電気をつけて中を見回す。
ボロい。
四畳半の狭くて小汚い部屋は、貧乏苦学生がカップラーメンをすするイメージか、彼女のいない若い男が、クリスマスをギャルゲーで過ごし、ケーキをモニターの向こうにいる彼女と仲良く食べていそうなわびしさがある。
とても高校生の女の子が住むような環境ではない。
「えっと……オレが言うのもなんだけどさ、本当にここでいいの? 駅前なら、オートロックマンションとか、もっとキレイで、安全な所があるんじゃない?」
ナイトを押しのけ、輝鈴は靴を脱いで部屋に上がり、部屋の中心で息を大きく吸い込んだ。そして、笑顔でナイトに振り向く。
「ここがいいのだ。自分を過酷な環境に置けば置くほど、それは鍛錬になる。それに、汚いとはいえ、ベッドがあるではないか」
「ベッド?」
そんな気の利いた物が、この吉備田荘に備え付けられているわけがない。ナイトは、輝鈴の視線の先をたどった。
「見ろ。二段になっている。しかもこのベッド、扉が付いているぞ。快適だなこれは」
輝鈴は押し入れの上段に入り込み、青い猫型ロボットよろしく、横になって戸を開けたり締めたりした。
それを目撃したナイトは固まった。こんな子が独り暮らしなんかして、大丈夫なんだろうか、と。
とはいえ、一つ壁の向こうに同い年の女の子がいるのだ。ナイトの胸は否が応でも高鳴る。
「へえ、ここが輝鈴の部屋か。まあ、当然ながらまだ何もないわな」
突然後ろから声がして振り向くと、学校の制服に着替えた雫といちごが、部屋の入り口に立っていた。
「きりりん、もう大丈夫なの? 店長がそのままあがっていいって言ってたから、お店からお着替えもって来たよ」
「猿願寺に木地か。迷惑を掛けたな。自分はもう大丈夫だ。お前達の部屋は?」
「いちごちゃんは、きりりんの隣ー!」
「俺はナイトの真上だな」
「え?」
「いちごちゃんもー、しーちゃんもー。今日からここで暮らすんだよ! 一つ屋根の下で一緒だね、なんか修学旅行みたいで楽しい。ね、ナイトくぅん♪」
ナイトは喜びに打ち震えた。一瞬でこのボロアパートがシャングリラに、エデンに、アルカディアに、桃源郷になったのだ。
「桃山。何をそこでぼーっとしている? さっさと引越しそばというのをよこさないか。使えん奴だ」
「は? 引越しそば? 何それ?」
輝鈴はつかつかと詰め寄り、ナイトに右手を出してきた。
「引越しそばってのは、引っ越してきた人間が、隣近所にそばを配るンだよ。もうほとんど寂れた風習らしいけど……。あのな輝鈴、お前じゃなくて、俺らがあげるほうだぜ?」
雫は両手をあげて、あきれてみせると靴を脱いで中に入り、いちごもそれに続く。
「む……そうなのか? 勉強になった……しかし、腹が減ったな。桃山、早く食事を用意しろ」
「は? 何でオレが!?」
「ここはアパートだろう。ならば、使用人である貴様が料理をするのが当然だ」
輝鈴の右の人差し指がナイトに向けて、ビシ! と差された。
ナイトは意味がわからなかった。
「そんなサービスないよ! てか、オレは君の使用人じゃないし!」
「なに……では、一体誰が料理をするのだ? 自分はできないぞ、『女子厨房に入るべからず』と言われて育ったからな」
「何だよそのことわざ……。料理は自分でやるんだよ、掃除も洗濯も、ぜーんぶね」
輝鈴の目が一瞬、大きく見開かれる。そして、一歩後ろに下がると、その場にぺたんと座り込んでしまった。
「きりりん、そのリアクション、オーバーすぎだよ。いちごちゃんも家事とかやったことないけど、なんとかなるって。ね、しーちゃん?」
「おう。毎日コンビニ弁当が食えるんだぜ? カップラーメンとか、冷凍食品とか、食品添加物のオンパレードだ。ホテル暮らしもいい加減飽き飽きしてたし、いい刺激になるンじゃね?」
いちごと雫はうきうきしていたが、輝鈴の表情は暗かった。
「サバイバルは得意なんだが……普通の家事は苦手だ……」
「あは。だよね、懐かしいなーみんなで一ヶ月無人島で生活したっけ。きりりんが、素手で木を切り倒して小屋を作ったり、しーちゃんが食べられる野草を摘んできたりとか……楽しかったなー」
きゃははは。と、いつの間にか三人は思い出話に花を咲かせていた。輝鈴が山篭りしたときに、クマを素手で仕留めたことや、いちごが道場破りをしたとか、雫がヤクザの一大勢力を一夜で壊滅させたとか、およそガールズトークの内容とは、とても思えないものばかりで、ナイトは困惑した。
「そういや、荷物とかは? 君達、今日からここで暮らすんだよね?」
ナイトは気になっていたことを、とりあえず聞いてみた。
「ない。自分は最低限の着替えと生活必需品、勉強道具だけだ」
「え?」
「つまり、これで引越し完了と言うワケだ」
「あの……布団とかは?」
「寝袋がある。それをそこのベッドに設置して寝るのだ」
輝鈴はいちごが持ってきた荷物から寝袋を取り出すと、それを押入れの上段にひいた。
「あ、そうだ。せっかくだし、入居祝いにパーティーでもやろうよ! いちごちゃん、ポテチとか、お菓子ならあるよー」
「俺も買い置きしといたコンビニ弁当なら、あるぜ」
「……ふむ。いいな。では桃山よ。貴様の部屋に十分後集合だ。皆に問おう、異論はあるか?」
「え?」
「ねーよ」
「ないよー!」
ナイトが戸惑っている間に、いちごと雫は手を挙げていた。なんだかわからないが、勝手に話が進んでしまっている。
「あ、そーだ。ついでに店長も呼ぶ?」
「あいつは先約あるだろ、それにいたらうざいだろが」
「それにしても、ナイトくんの部屋かー! 楽しみぃ! エッチな本とかは、ちゃんと片付けといてね~」
「ん、うん?」
ナイト以外の三人は、完全にやる気になっている。ナイトは状況の変化にまったく付いていけず、ただ流されるばかりであった。
そして気が付けば、十分後に自分の部屋で入居パーティーが催されることになっていた。
「ンじゃ、部屋に荷物置いたらすぐ行くな」
「桃山、よきにはからえ」
「いや、あの……?」
ナイトは部屋の外に出た二人の背中に手を伸ばすが、無情にもドアは閉ざされ、引き戻すことができなくなった。
「まあいいか。楽しそうだし」
ポジティブシンキング。ナイト唯一の長所である。
ナイトは輝鈴の部屋を出て、自分の部屋に戻ると、とりあえず掃除を始めた。
といっても、押入れを全開にして、そこにありとあらゆる物をブチ込んでいっただけにすぎない。
作りかけのプラモデルも、エッチな本も、アニメの抱き枕も、全てを押入れに封印する。
強引に片付けを終えると、輝鈴ら三人の少女がやってきた。
「よっす! お邪魔しまーす」
「家族以外の男の部屋に入るのって、そういや俺、初めてだな」
いちごと雫が靴を脱いで上がりこむ。
「あれ、塩なんか持ってどうかしたの、犬神さん?」
輝鈴は扉の前で立ち止まり、自分の体に塩を振りかけていた。
「清め塩だ。穢れが付いては困る」
この女……。ナイトはイラっときた。
輝鈴が部屋に入り、ナイトの部屋は一気に人口密集地となる。
いちごの持ってきたお菓子や、雫のコンビニ弁当のおかず、ナイトが昨日買って手付かずだった惣菜を並べて、心ばかりの入居パーティーが始まった。