第九話 【改稿版】
お金持ちの変態おじさんに拉致された女子高生がお城で監禁生活をするお話、第九話です。完結にあたって見直してみたらシリーズ前半部分をテコいれする必要を感じ、このたび大幅に加筆修正しました。この第九話はほとんど変更はありません。
穏やかに風が吹いていた。
西の空に差しかかる楕円の月と、開け放された中庭扉から漏れる照明のせいだろう、階下の風景は思いのほか暗くはない。目を凝らせば青闇のなかさまざまな事物のシルエットが浮かび上がってくる。中庭から、あるいは向かいの尖塔からこちらに目をやれば、誰かが外壁にぶら下がっていることくらいは容易に判別がつくだろう。幸いまだ誰の影も見えないが。
私は手首の内側に装着した腕時計をちらりと見やる。高さを考慮すればゆっくりと少しずつ降下したいのはやまやまだけれど、紺子さんが中庭に到着するまでの猶予は五分ほどしかない。急がなければ。
すでにロープで両脇と膝下を支え終えていた私は、階下に落としたもう一方のロープを握り締め、手すりの上によじ登る。
三十メートル先の地上に中庭の風景が見える。さすがに高い……。見慣れたゲッカビジンの花壇があんなにも小さい。私が足をつけているのはこの細い手すりだけで、今から身を投じるのはそれすらない場所。秋の気配を含む微風が頬を撫で、私は自分が冷や汗をかいていることを知る。今夜は決して風の強い日ではなかったが、これだけの高所で肌に感じるそれは、私の本能的な恐怖心をかきたてるには充分だった。高いところはそれだけで恐ろしい。人には空を飛べる機能など備わってはいないのだから。当初は人目につきやすいリスクを差し加えても、月の光源があった方が降下の恐怖は和らぐような気がしていたが、今では下手に地面など見えない方がよかったと思う。本当に、ここから降りるつもりなのか私は。
ええい、迷っている暇はない!
私は両手でもう一方のロープをきつく握り締めると、意を決して足場のない中空に降り立った。
瞬間、身体の重力が消える。
高所から低所へ、落下する。
下半身から突き抜けてくる、ぞわっとするような死の気配。
それを身体の二か所を支えるロープが断ち切った。
辛うじて、私は空中に留まっていた。
三十メートル上空で振り子のように揺られながら。
外壁の継ぎ目を凝視する格好で、浅い呼吸を繰り返す私。すでにもう一方のロープを握る両手には汗がにじんでいる。
おそるおそる、ロープを握る力を緩める。吊り上げられた身体がずるずると急速に降下していく。私は慌ててきつく握り直し、すんでのところで中空に踏みとどまる。ロープがみしみしと引き絞られる音を立てる。
ひゃああああ怖い……! むちゃくちゃ怖いよこれ……! 汗で手が滑って危うく力の加減を誤るところだった……。
想像はしていたけれど、やはりシミュレーションと実践は違う。よし、まずは心を鎮めよう。残り距離のことはひとまず横に置いて、慎重に、確実に、降りていく感覚を掴むことに専念するのだ。慣れてくれば自然と速度も上がり、恐怖も和らいでいくはず。距離を確認するのはそれからでいい。
いいこと、夏姫。気にするのは時計の文字盤だけだよ。絶対に、下を見てはだめだからね。
私は緩めた力が無理のない降下速度になるよう微調整しながら、そろそろと一定の速さで降りていく。
身体は上から下へ。眼前の壁は下から上へと通り過ぎる。煉瓦の凹凸がいやにくっきりと見える。地上の虫の声のひとつひとつを聞き分けられるような気がする。湿り気を帯びた空気の匂いにも味や感触があることを知る。手の平越しに感じているロープが第二の皮膚のように感じられる。生命の危機から一時的に知覚が研ぎ澄まされているのかもしれないし、百四十億個の神経細胞の尻を叩いた効果がまた持続しているのかもしれない。大型の蜘蛛が外壁をよじ登っているのを鼻先に見たが、普段なら悲鳴を上げそうな光景にも、私は何も感じなくなっていた。それ以上の恐怖を、ただひたすらに作業に没頭することで紛らわそうとしていた。降下のスピードが徐々に上がっていく。ロープの扱い方のコツを掴めてきたのだ。ちらりと手首の時計を見やると、紺子さんが寝室を後にしてから二分少々が経過している。これを『まだ』と言うべきか『もう』と言うべきかわからない。そろそろ下を見て、残り距離を確認する頃合いだろう。よし、見るぞ。いっせーのーせ、で下を見るぞ。私が勇を鼓して足元を見下ろそうとしたとき――
鉛直下に吹きつけてきた突風が私を襲った。
「ひぎゃ(ああぁああぁあぁああぁぁあぁ☆#◆↓*◎■Ю※!)」
支えとなるロープは急速回転。位置感覚など瞬く間にもぎとられる。外壁に身体を叩きつけられ、半狂乱になりながらも、もう一方のロープを抱え込むようにして握りしめる。出かけた悲鳴を必死に堪える。
私は忘れていた。東西の尖塔に挟まれ、筒状の壁がぐるりと周囲を取り囲む中庭の構造を。起伏や障害物に向きを変えられた風が、さまざまな方向から寄り集まって強風の吹くポイントができていたのだ。
突風は一瞬のことだったが、支えるロープの回転はまだ続いている。一層ぎしぎしと引き絞る音を強めるそれは、前後左右に激しく揺れ、外壁に私を叩きつけようとしてくる。接近した壁を蹴ることで辛うじて衝突は免れたものの、瞬時にして命綱から絶叫マシンに変貌したロープに私は戦々恐々だった。耐えて耐えて、ようやく回転と揺れは収束していく。幸いにもロープは切れていないようだが、時間にして十数秒程度であろう短い間に何度も死を覚悟した。不覚にも、ちょっと漏らしてしまったかもしれない……。
「う……ひっく……うっ……」
少しホッとした途端に恐怖がこみあげてきて、ふいにぐずりはじめてしまう私。あとからあとから涙がこぼれて、肩も手足もガクガクと震えている。パニックの余韻で頭は真っ白だ。それでもロープに加える力を緩め、さっきと同じ要領で作業する手は止めない。ぐずりながら、怯えながら、されど降りていく私。
気づけば中庭は僅か数メートル先にまで近づいてきていた。
私はさらにスピード上げていき、残り距離が二メートルを切ったあたりでロープを手放した。体重の支えを失ったロープが急降下して、飛び降りるように芝生に着地する。もうこれ以上、あの布紐に吊り下げられているのはまっぴらだったのだ。
目の前には屋敷の淡い照明を漏らす、半開きの扉がある。
このひと月、何度も何度も夢見てきた希望。それを今まさに手中に収めようしようとしている。
あんな恐怖のあとではまるで現実味がなかった。暖かな光はマッチ売りの少女がマッチを擦ったときに現れる幻想の世界のようだ。
でも――とゲッカビジンがまばらに咲く花壇を目にして思う。確かにここに降り立ったのだ。囚われの私はいつか王子様が助けにくる儚い夢などかなぐり捨て、自らの手で壁を打ち破ったのだと。
私は駆け出していた。あちら側の光へと懸命に手を伸ばしながら。
戸口に飛び込むと、すぐさま首を振って左右の廊下に人気がないことを確認する。
時計の文字盤は紺子さんが寝室を後にしてから五分弱の経過を伝えている。もういつ彼女が戻ってきても不思議はない。
私は戸口から中庭を振り返る。うん、想定した通り、これなら大丈夫だ。時間がなくて芝生に横たわるロープの隠蔽まではできなかったけれど、どのみち半開きになった扉に遮られて廊下側からは見えないのだ。紺子さんが中庭に入らないかぎり、脱走が発覚することはないはず。
私は脱ぎ捨てたパンプスを両手に持つと、彼女との鉢合わせを避けるために、彼女のやってくる方角であろう南側廊下に背を向け、足音に気を遣いながら小走りに駆けていく。『巻紺子』とプレートの貼られた寝室前を横切って、南側廊下から死角になる柱の影に身をひそめる。
ここから庭門のロックを解除する送信機のある事務室を目指すには、南側廊下を通り抜けるしかない。つまり、ここで紺子さんをやり過ごすことができれば、屋敷外は目前なのだ。
果たして――入れ違いになるように廊下の角から人影が姿を現した。
黒猫のようなパジャマ姿は見まがうことなく紺子さんだ。平時より一段と深い寝ぼけ眼から相当に眠たそうなことが窺える。最後に会ってから五分程度しか経っていないことに驚きを覚えつつ、彼女が中庭扉を煩わしそうに閉めるのをじっと見守る。特段、中庭の光景を訝しむ気配は見られない。だけども、すでに彼女に怪しまれている私は祈らずにはいられなかった。
ああ、神さま――! 彼女が妙な気を起こして、中庭の様子を見に行ったりしませんように! 寝つきの悪い彼女にどうか安らかな眠りを――!
彼女は扉の取っ手を掴み、揺れ軋ませながら力を加えていく。最初五十度ほどだった扉の角度が四十度、三十度、二十度と徐々に小さくなり、やがてひずんだ金属音とともに完全に閉じられる。ふぁぁ、とあくびをひとつして、やおら懐から鍵束を取り出す彼女。ガチャリ、という施錠音に私ははっとして柱の陰に身を隠した。あちらの廊下から死角になっているとはいえ、私のいる場所は彼女の寝室側の方向。中庭扉の戸締りに気をとられて、うっかり顔をひっこめるのを忘れるところだった……!
コツコツという硬い靴音が廊下に響く。彼女がこちらへやってこようとしている。私は大雑把に彼女の歩数を距離に換算しながら、無事に寝室の鍵音が聞こえてくるのを祈るように待っていた。
しばらくして足音は途切れる。だいたい寝室の扉の前あたりだろうと、あたりをつける私。早く。早く鍵を開き、入室して私を安心させてくれと願う。しかし待てども待てども扉を開錠する音は聞こえてこない。こちらから様子を窺うことができない以上、物音から彼女の行動を予測するしか術がないのだが、柱の向こうからは衣擦れの音ひとつ聞こえてこないのだ。眠気を押して寝室前まで辿りついたのに、何をするでもなく突っ立っているのは明らかにおかしい。
まさか……私がここに隠れていることがバレているのか?
じっとしたまま、唾を飲み込む音ひとつ立てていないはずなのだが、勘の鋭い彼女のことだ。もしや、柱の陰にいる人の気配すら感じとれるのでは? ありえないことではなさそうだ。
今に彼女の顔がすっと柱の角から顔を出しそうな気がして、私は生きた心地がしなかった。一度は落ち着きかけた心拍が、またぞろハイテンポのビートを刻みはじめる。そこにいるはずの蛇にいつ襲われるかもしれぬ、白黒つかないこの状況。想像上で際限なく膨らんでいく蛇の恐怖に比べれば、蛇に睨まれたカエルの方がまだましだ。これじゃあ蛇の生殺しだよ! ってあれれ? なんで蛇の方が殺されているの? カエルは? カエルはどうなったんだあわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわ――!
もはや座したまま持ちこたえるには私は混乱しすぎていた。蛇でもカエルでもいいからもういっそ殺してくれと、私がおずおずと柱の陰から顔を覗かせると――
果たして、紺子さんはそこにいた。
私と彼女は真正面からがっちり向き合う格好となる。
ジ・エンド。
私の脱出劇はここで終焉を迎える――はずだった。
彼女の目が閉じてさえいなければ。
いや……さすがに……普段は初詣と年忌法要程度にしか信仰心のない私の神頼み、神がかりすぎてないか?
まるでお釈迦様のような安らかな寝顔で、立ったまま舟を漕いでいる紺子さんの姿がそこにはあった。
寝つきが悪いとは言っていたものの、昨日は通常の業務を果たした上で、立場上口外しづらい話を私に伝えたり、真夜中にこき使われたりしたのだ。帰部屋した安心感から睡魔に襲われたとしても、無理もないのかもしれない。
驚き、安堵し、そして今日が今日でさえなければ、と思う。
私は彼女を優しく抱き起こし、寝室のベッドまで連れて行ってあげたかった。それが無理ならばせめて私のストールだけでも掛けてあげたいと思う。
でもそれは叶わない。廊下に置き去りにされた彼女が風邪をひいてしまおうとも、叶わせるわけにはいかないのだ。
私はそろそろと裸足の足音を殺しながら、彼女の隣を横切る。
ごめんね――紺子さん。そして、ありがとう。