第八話 【改稿版】
お金持ちの変態おじさんに拉致された女子高生がお城で監禁生活をする話、第八話です。完結にあたって見直してみたらシリーズ前半部分をテコいれする必要を感じ、このたび大幅に加筆修正しました。この第八話はほとんど変更はありません。
――午前二時。
私は腕時計に目をやり、いよいよ決行の時間がやってきたことを知る。
寝間着のネグリジェ姿に冷え冷えとした外気は少し堪える。私は紺子さんからもらった厚手のストールを首まわりに巻きつけると、ベランダの床を占領している色とりどりの布紐を見下ろした。
ワンピースでひとつなぎにされた約三十メートルの脱出用ロープはすでに完成し、摩擦力ブレーキのための下準備も完了した。手すりに五回以上巻き付けたロープを何度か引っ張ってみたものの、多少の力ではびくともしない。これなら体重の何割かは確実に支えられるはずだ。計画に不安がないといえば嘘になるけれど、シミュレーションなら手すりの内側で何度もした、きっと大丈夫だと自分に言い聞かせる。
私はベランダの隅にひとまとめにしたロープを風に飛ばされないよう枕で固定すると、テラステーブルの少女小説を取り上げ、照明の下でパラパラとページをめくる。
とある大富豪の養女となった平凡な少女が権謀術数の渦巻く一族のなかで女性としての生き方を模索する大正ロマンで、余暇を楽しむという口実で美濃部から借り受けた本の一冊だ。あの花の画集もこの少女小説ももともとは麗さんの物。彼女亡き今、これらは遺品扱いになるのだろう。美濃部が麗さんを私で上書きしようとしているからといって大切なものには違いない。それなのに私は――
「ごめんなさい」
十五メートル先の灯りの消えた寝室の美濃部と、心のなかの麗さんに謝って、私は手すりの外に少女小説を手放した。
本はそのまま緩く風に煽られて落下し、花壇の傍の芝生にぽとりと落ちる。
私は本が軽傷であることを祈りながら寝室に戻ると、壁に備え付けられた内線電話で紺子さんの携帯にコールする。
「……はい」
意外にも三回目の呼び出し音で繋がった。
「あの、夜遅くすみません。もしかして起きてました?」
「……寝ておりましたが。私は極端に眠りが浅い質なのです」
「お休みのお邪魔をしてしまってほんとにごめんなさい! でもどうしても今すぐに手を貸してもらいたいことがあって」
「……いったい何をやらかしたのです? もしやトイレの水を溢れさせてしまったのですか」
「違いますって! 本、本です。夜中に目が覚めちゃって、外の空気でも吸ってこようとしばらくベランダで読書をしていたら誤って本を中庭に落としてしまったんです。麗さんの遺品の大事な本なのに……このまま放置していたら朝露で濡れちゃいます」
「……それを今から私に取りに行けと?」
「お願いします! 紺子さんしか頼れる人がいないんです」
受話器越しに彼女の長い長いため息。
「……やれやれ、しょうがないですね」
「ありがとう! ほんとにありがとう、紺子さん!」
「……これっきりですよ」
ぷつり、と通話が切れる。
私は胸のなかで紺子さんに手を合わせる。もちろん「ごめんなさい」と「ありがとう」だ。脱出計画の最大の関門である中庭の扉をここから動かずに開けるには、外部の人間の手を借りるしか方法はない。部屋の内線から通話できるのは美濃部と紺子さんだけだ。さらに彼女でなければならない理由は他にもある。
私はすぐさまベランダに取って返すと、手すりの向こうに見える中庭を見下ろす。ややしてから中庭の扉がギシギシと硬い床擦れ音を響かせながら半開きの光を漏らし、戸口から紺子さんが顔を出す。尖塔を見上げる彼女に私は手を振り、
「花壇の右側の芝生に落ちているのがそうです」
コードレスの受話器で指示を送る。
彼女は拾い上げた本の埃を払い、パラパラとページをめくりながら通話する。
「こちらですね。今晩は私がお預かりして明日お渡しするという形でもよろしいですか?」
「できれば寝室まで持ってきてもらえませんか? 小説の続きが気になってしょうがないんです」
「いつでもお読みできるのですし、明日でもよろしいではありませんか」
「クライマックスの最中にひと眠りなんかしたら余韻が冷めちゃうじゃないですか! 感動は生ものなんですよ?」
「……はあ。今すぐにお届けして欲しいと?」
「はい、何から何まですみません」
「まあいいでしょう。真夜中に叩き起きされたついでと思って諦めます」
「急いでくださいね」
ため息とあくびの中間のような吐息とともに通話が切れる。
再び中庭に目を移すと、半分開け放された扉を紺子さんが素通りしていくのが見えた。五秒待てども十秒待てども内側から閉じられる気配はない。これは中庭の戸締りよりも本を届けに行く用件を優先してくれたと見て間違いない。よっしゃ、と小声でガッツポーズをしてしまう私。狙い通りだ。
中庭扉は建てつけが悪さから開閉に少しばかり時間がかかる。
そして紺子さんの寝室は一階廊下から中庭前を横切って目と鼻の先だ。
私はその二つの条件から、もしも彼女に雇い主の娘からの急な用件があり、なおかつそれが短時間で済むものなら、戸締りは後回しにする可能性が高いのではないかと思っていた。彼女からすれば用件のあと自室に引き返すついでに戸締りを済ませても手間暇は変わらないのだ。私がもっともらしい理由に併せて「急いでほしい」とでも付け加えれば、扉を開いた状態のまま寝室に向かっても不思議はないはず。もちろん、いくつかの偶然に支えられた危うい作戦であることは承知の上。仮に決行日が雨の夜だとしたら彼女が扉を開け放したままでいることも、そもそも本を落とすことすら叶わなかっただろうし、そうでなくても作戦が成功するまではヒヤヒヤものだった。
あとは寝室にやってきた紺子さんから本を受け取り、彼女がらせん階段、二階廊下、二階大階段、一階廊下と屋敷内を迂回する経路を経て中庭にたどり着くまでの五分前後の猶予。その間隙を突いて中庭の外まで一気に突破する。三十メートルの高さをロープで単独降下するには五分はギリギリの線だ。ここからは時間との戦いになる。
私はベランダの床に枕でセッティングしてあるロープをもう一度チェックしてから寝室に戻り、厚手のカーテンを引いて室内からベランダが見えないようにする。ストールが解けないように結び直し、ベッドの陰に立てかけられた“あるもの”に視線を投げる。こちらもスタンバイ完了だ。いつでも脱出できる準備は整った。
五分足らずで寝室の扉がノックされる。
「紺子です。ご本のお届けに参りました」
「どうぞ」
私は扉の前に駆け寄ると、電子音のSEとともにカチャリとロックの開く音が聞こえ、僅かに開いた戸口から紺子さんが顔を覗かせる。いつも以上に寝ぼけ眼の彼女は、ナイトキャップ付きのラブリーな黒いパジャマを着ていて、まるで不機嫌な黒猫のよう。
「ざっと状態を確認してみましたが、落下による傷汚れはこれといって見受けられません。芝生がクッションの役割を果たしてくれたようです」
本の状態を確認して、私はホッと胸をなでおろす。
「こんな夜遅くに私の無理なお願いを聞いてくれてありがとう、紺子さん」
「いえ、夏姫様の足となるのが私の仕事でもありますから。ですが次からは気をつけてくださると助かります。私は眠りが浅い上に寝つきまで悪い質なのです」
「はい、以後気をつけます。それじゃあごきげんよう紺子さん、良い夢を」
私が微笑みを浮かべたまま扉を閉めようとしたとき、何かが戸口に引っかかった。なんだろうと思ったのも束の間、“それ”を認めた私は絶句する。扉の隙間につま先をねじ込むなんて、きょうび訪問販売のセールスマンでも使わない手口だと思っていた。ましてや彼女は執事なのだ。紺子さんは寝ぼけ眼に鈍く光る瞳を宿して、こちらを見下ろしてくる。
「あの……なにか?」
「夏姫様、なぜ貴方は先ほどから背伸びなどをされているのですか?」
「――へっ?」
自分の足元に視線を落とした私は仰天する。
躍起になって高所の風景を覗こうとしている幼児のごとく、限界まで伸ばされたつま先がプルプルと震えていた。
いかにカーテンで隠したところで窓一枚を隔てた先には、バレたが最期の脱出用ロープが大蛇のように横たわっているのだ。ましてや紺子さんの背丈は私より頭ひとつ分は高い。絶対に隠し通さなければならないという気負いが、強迫観念が、知らず知らずのうちに私に彼女の視界を遮るための行動を課していたとでもいうのか……。
紺子さんは私の目をじっと見つめたまま静止している。
「どうして先ほどから僅かな角度しか扉を開こうとしないのですか? 私の視線を遮るような位置にお立ちされているのはなぜです?」
「紺子さん……さっきから顔が……怖いんですけど……どうしたんですか?」
質問に質問で返す。もうしどろもどろだった。背中に氷柱をを差し込まれるような感覚とともに、嫌な汗が頬を伝う。ぎこちない半笑いのまま、目はふらふらと泳いでいる。もはやまぎれもない不審者だった。彼女はすっと目を細め、畳みかけてくる。
「夏姫様、ひょっとして、私に何か隠し事をされておりますか?」
「いいいいえ……そんなことは……! 気のせいですって! ほら、もうこんな時間ですし、早くお部屋に戻らないと、お仕事に――」
彼女の冷たい視線が私の目から、私の背後に移る。室内に。
「やはり、お部屋に何かあるのですね。少々失礼してもよろしいですか?」
疑問文の形をとってはいるものの、言うまでもなく強制だった。
紺子さんは戸口にさらにつま先を侵入させる。取っ手を握る力を強めるのもわかった。もうおしまいだ……。脱走を企てていたことが判明したからにはさらに厳重な警護の下に置かれてしまう。脱出の目などなくなってしまう。あと一歩というところまできて、こんな下らないミスで千載一遇のチャンスをふいにしてしまうのか私は。どうしたら……一体、どうしたらこの窮地を抜け出せる? 考えろ、私の百四十億個の神経細胞! 今働かなければお前は私と心中することになるんだぞ! ここにいたら一生美濃部のおもちゃとして扱われて、子孫繁栄なんてできないんだぞ! サボっている場合じゃないんだぞ!
「慎みなさい――」
その凛とした声はまぎれもなく私のものだった。
その瞬間、部屋に侵入しようと力を強めた紺子さんの動きがぴたりと止まる。
私は表情を引き締め、背筋を伸ばし、胸を張る。下腹部から脳天を貫くような、たおやかで力強い声で言葉を紡ぐ。
「巻紺子さん、いつから貴女は令嬢のプライベートを暴けるほどお偉くなったのですこと? 専任の執事とはいえ、踏み込んではならない領域があることを弁えなさい。なにより――」
私はここぞとばかりに人差し指を頬に添える蠱惑的な仕草でキメ顔をつくる。
「女の子には秘密があって当然です。貴女も女性ならばわかるはず」
紺子さんはぽかんと口を半開きにしたまま、しばらく呆然と私を見つめていたが、
「私ごときが出すぎた真似を失礼いたしました。どうかご容赦ください、お嬢様」
跪くように深々と頭を下げる。
「それではご用件もお済みしましたので、今晩はこれにて失礼いたします。ごきげんよう、夏姫様」
カチャリ。
オートロックの扉が閉められると同時に、私はへなへなとその場にへたり込む。
――首の皮一枚つながった!
まさに天啓だった。
追い詰められた私の脳裏に、一瞬のエアポケットの後、件の少女小説のワンシーンが蘇ったのだ。
主人公を目の敵にする義姉が彼女の弱みを握ろうと送り込んだ女執事と対決する場面だ。
あとは言葉がほとばしるままに、一心不乱に、主人公令嬢のセリフを口走っていた。声から表情から仕草まで死にもの狂いで彼女になりきろうとしていた。目的も意図も、計画性だって微塵もない。口からでまかせもいいところ。けれどそれこそが私を窮境から引き上げてくれた。私は不意に涙ぐみそうになる。あれだけ散々な扱いをしたというのに、この本は難攻不落の扉を開いただけでなく、絶体絶命の危機まで救ってくれたのだ。帰ったら必ず買ってやろう。このシリーズはすべて揃えて、自室の一番見晴らしのいい棚に収めてやろう。もちろん足を向けては寝ない。そう誓う私であった。
そういえば、と私は思う。
立ち去り際の紺子さんが微笑むのが見えたのだ。まるで一人前になった生徒を見送る、教官のように。




