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第五話 【改稿版】

お金持ちの変態おじさんに拉致された女子高生がお城で監禁生活をするお話、第五話です。完結にあたって見直してみたらシリーズ前半部分をテコいれする必要を感じ、このたび大幅に加筆修正しました。この第五話の説明部分はいかんせん長すぎましたね。エピソードを再構築する形で分割したため以前より短くなっています。なお導入部は描き下ろしです。




 とある休日の夕方だった。

 参考書と問題集の入ったトートバックを揺らしながら、私は家路を急いでいた。

 カーテンを閉め切ったリビングで一日中お酒を飲んでいるお母さんと顔を合わせるのが気詰まりで、心苦しくて、我慢のならなかった私は、自分を正当化できる適当な用事をこしらえては家を空けていたのだ。

 でもこの日はさすがに遅くなりすぎた。お昼ご飯を多めに作り置きしたせいで、つい油断してしまったのかもしれない。急いで夕食の準備に取りかからなくてはならない。

 リビングの引き戸を開けると、いつものようにソファに身を沈めてテレビを見ているお母さんの姿があった。テーブルと床には空き缶や空き瓶が大量に転がっている。

「遅かったじゃないの」

「ごめん、帰りの電車が遅れちゃって! 今すぐ晩ご飯作るからちょっとだけ待っててね」

「ああ、もういいのよ。そんな見え透いた嘘なんてつかなくても。私、この家を出ていくことに決めたから」

「――え?」

 いつの間にか、お母さんの隣には見知らぬ男の人が座っていた。二人は仲睦まじげに体を寄せ合っている。

「あんたのそういうところ大嫌い。我が身可愛さのために、お仕着せがましく昔のあたしを求めるくらいなら、いっそ今のあたしが気にくわないとはっきり言ったらどうなの?」

「――■■■■■■」

 私は口を開く。反論、あるいは謝罪のセリフだったのかもしれないが、手遅れだったようだ。私の言葉はすでに失われていた。

「あんたが自分のことだけしか考えていないなら、あたしも好き勝手させてもらうから」

 そう言ってお母さんは立ち上がり、男の人と連れ立ってリビングのドアを開こうとする。

 待って。待ってよ、お母さん。お父さんみたいにいなくならないで! 私の話を聞いて――!

 ドア向こうの光のなかに滲んでいく、お母さんの後姿。

 空を切る私の言葉。

 最後に一度だけ、お母さんはこちらを振り向き、

「夏姫も誰かから手前勝手な夢を押しつけられれば、少しは私の気持ちがわかるんじゃないの」

 

「あんたなんか――もういらない」


 嫌悪と侮蔑の混じったぞっとするような眼差しで私を睨みつける。

 その瞬間、そこはもうリビングではなかった。

 石造りの何もない部屋。寒々しく、カビ臭い空気。あの屋敷の地下室で私は椅子に縛り付けられていた。

 やがて死体のように青白い顔をした美濃部が現れる。

 私の名で私ではない誰かを呼びながら、どろどろに腐敗した手で私にすがりつこうとしてくる。泣いて許しを請い、必死に拘束を解こうするものの、体に力が入らない。椅子はいつの間にか私を羽交い絞めにする紺子さんに変わっていた。

 美濃部が私の目前に鼻先を近づける。

 その口がぱっくりと耳まで裂け、口蓋が部屋を覆い尽くすほど大きく広がり、私を飲み込み――


「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」


 高い天井に伸ばした私の手が目に入る。

 くらくらするようなめまいのなか、激しい動悸に呼吸は乱れ、シーツを掴んだ手の平からも汗がにじんでいる。

 また……またこの夢か。

 屋敷に連れてこられてから、その悪夢は連日のように続いていた。


 でも――と、私は涙をぬぐって顔を上げる。

 カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。

 日が昇るかぎり、今日は必ずやってくるのだ。

  


 ◆◇◆◇◆◇◆◇



「イチ、ニ、サン。イチ、ニ、サン」

「いち、に、さん。いち、に、さん」

 紺子さんと私の小気味良い掛け声が室内に響きわたる。

 スピーカーから流れる『花のワルツ』に乗せて、半歩ずれて組み合った彼女と私が三拍子のリズムに合わせてステップを踏む。大人と子供ほどの身長差のある女子ふたりが波に揺られるようにくるくるくるくると回る姿が壁のミラーに映りこむ。

 左足を斜めに下げて……つま先で立って……右に九十度回転で。

「イチ、ニ、サン」

 右足を左足の後ろで交叉して……つま先から着地してかかとを下ろして……回転はなしで。

「いち、に、さん」

 行って帰って。往復して。彼女の精妙な足さばきに遅れまいと懸命に足を動かす私。とはいえ所詮はずぶの素人。現実はイメージほど優雅なものではなくて――

「ストップ」

 紺子さんがプレイヤーの音楽を止める。

「速すぎます、夏姫様。女性役のあなたが男性役であるわたしをリードしてどうするんですか」

「えへへ、つい」

「頭もホールドより外に開きすぎです」

「はいはい」

「ダンス中はキョロキョロしない。落ち着きのない子供ですかあなたは」

「はいはいはい」

「はいは一回でよろしい」

「はーい」

 私は本日何度目かのダメ出しにげんなりと肩を落とし、パートナーであり先生でもある紺子さんを見上げる。相変わらずの寝ぼけ眼と低音ボイス、そしてこの身長差のせいか、ただ注意されるだけでもかなりの威圧感があった。

「この調子では十日後の宴には間に合いません。ピアノは初心者にしてはなかなかの腕前だというのに、なぜ踊らせるとこうも乱れたリズムを刻みだしてしまうのか」

 まったく先が思いやられます、と紺子さん。

 そう、私たちはペア・ダンスのレッスンの最中だった。十日後に催される住人ならびに従業員限定の城内パーティ――今回は私の歓迎会も兼ねて――に向けて。

 早いもので、私がここに連れてこられてから半月以上が経過した。その間はぶっちゃけて言えば習い事の毎日――美濃部の考える“お嬢様のたしなみ”を教育係でもある紺子さんに叩き込まれる日々だった。

 午前七時起床。本日のスケジュールは午前中は言葉遣いやマナー、所作や歩き方などいわゆる行儀作法の教育に一時間。ダンスの練習に二時間が費やされる。午後からはデッサンや油絵を描くこと一時間。ピアノを弾くこと一時間。お花を生けること一時間、クリケットで汗を流すこと一時間。そこまでこなして、ようやく日課は終了となる。もちろん朝昼晩の三度、美濃部との会食が挟まれており、夜は夜で九時には帰部屋することが義務づけられ、それ以降は寝室に缶詰状態なのは相変わらずだ。

「さて、そろそろお時間のようです。このあたりで切り上げてお昼食といたしましょう。小指の先ほども上達しない夏姫様の出来ばえには心残りもやまやまなのですが……」

 紺子さんは神妙な面持ちでこほんとひとつ咳払い。返事をするように彼女のお腹がきゅるきゅると鳴った。

「やはり空腹には勝てませんゆえ」

「ですね」

 まかないの時間が近づくとキョロキョロと時計を気にしはじめるのは彼女も一緒だった。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



「そりゃ、これだけ汗水垂らして踊ればお腹のひとつも鳴りますよね」

 いつのもように紺子さんに付き添われて二階へと向かう私。素晴らしい眺望を誇る二階バルコニーだが、この時期の日中はご飯を食べるには少々日差しが強いため、お昼だけは同階の食堂で食事をとるのが通例となっていた。

「このお屋敷のむちゃくちゃ美味しいご飯って、一体どんな人が作っているのかなぁ? ねえねえ紺子さん、夕食後に事務室に挨拶に行ってもいいですか?」

「別に構いませんよ。お供いたしましょう」

 寝室、トイレ、浴室以外は常に彼女の監督下にある私には自由行動の権利は認められていない。敷地内で寄りたい場所があるときは彼女に付き添われて移動するのがならわしだった。

「ですが今のような不作法なお話の仕方はご勘弁願います」

「はぁい」

 教育役である手前ぴしゃりと釘をさすのも忘れない。さりとて私の不躾さに彼女もさじを投げたのか、はたまた私の負担を考えて気を利かせているのか、二人でいるときにくだけた調子で話しかけても咎められることはめっきり減っていた。教育係たる紺子さんからすれば、普段からもう少し気品ある令嬢然とした立ち振る舞いを見たいはずだけれど、つい甘えてしまう私だった。

 それにしても、と彼女はやや声のトーンを和らげて言う。

「夏姫様の適応の早さには驚くばかりです」

「いきなり連れてこられて最初は戸惑いましたけどね」

「ええ。ここに来られた当初はだいぶ思い悩んでおられるご様子でした。近頃の夏姫様は持ち前の快活さを取り戻されたようで少しホッとしております」

「だって素敵なお屋敷に住めて、ご馳走が食べられて、可愛い服が着られる。お父様の言いつけさえ守っていれば、こんな夢のような暮らしがずっと保証されるんですよ。今はここでの生活も悪くないかなって」

「それは好ましい傾向です。ですがくれぐれも妙な気など起されて耀司様にご心配をおかけせぬように。軽率な行動は夏姫様ご自身の首を締めることになりかねません」

 私が逃げ出す可能性について言っているのだろう。過保護な美濃部なら四六時中、寝室に監禁するくらいのことは平気でやってのけそうだ。

「無理無理! このセキュリティでこれだけ見張られてたら逃げる気も失せますって」

「結構。それではお食事の前にお召替えといたしましょう。十日後の宴で使用される新作のドレスが本日入荷しているはずですが、ご覧になりますか?」

「ほんとですか!? うわぁ、見たい!」

 ダンスのレッスンの際には本番を想定して練習用のドレスを着用させられるため、昼食前にはこうして衣装室で着替えをすることになっていた。

 いくつもの部屋の立ち並ぶ二階廊下を歩いていると、ふと毎晩のように見ている悪夢が頭をよぎる。あの閉め切られた扉の向こうでも椅子に縛り付けられ、美濃部の慰めものになっている私がいるとのではないかという妄想。

「ところで紺子さん、因果応報って信じますか?」

「なんですか、やぶからぼうに。私は無宗教ですので個人的所感しか申し上げられませんが、良いことをしたからといって良い報いがあるとはかぎりません。逆も然り。結果に先立つ原因があるだけで、そこに良し悪しは関係ないと存じております」

 紺子さんらしいというか、なんともドライな考え方だった。

「だったら誰かに悪いことをした後で、別の場所で自分が似たような目に遭ってたとしても、それが罰だと考えることはお門違い?」

「あくまで原因と結果の連なりのなかで生じたことであって、罰だとは考えませんね」

「ただの法則に特別な意味はない、と?」

 紺子さんは少し思案するようにくせっ毛を指先で弄んでいたが、

「いいえ。意味ならあるかもしれません」

 一旦歩を止め、私に向き直る。

「その例に則るならば、悪い行いをした誰かと似た境遇に遭うことでその誰かの気持ちが理解できるかもしれませんし、気持ちが理解できればもう同じ行いはしないかもしれません。因果律自体はただの法則ですが、私たちが感じ考え行いを変え得るならば、そこに意味はあるのではないでしょうか――ところで、先ほどから何のお話ですか?」

「いいえ。お釈迦様の手の平に乗せられているような気になったものですから」

「はぁ。さようでございますか」

「答えてくれてありがとう紺子さん。さあ、ドレスの試着をするなら急ぎましょう。お父様を待たせてしまってはいけないわ!」

 私はどこぞのお転婆姫のように長いスカートを両手でたくし上げながら、どたどたと廊下を走る。後ろから紺子さんの制止の声が聞こえるが、聞こえないふりをする。気持がうわずるのを抑えることができなかった。

 そうか。考えようによっては、美濃部の手前勝手な夢を押しつけられるために私がここに監禁されていることにも意味はあるかもしれないのだ。

 私がこの境遇を糧にしてお母さんと新たな関係を結ぶことができれば――



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 衣装室は一階と二階に男性用と女性用にそれぞれひとつずつある。私たちがいるのは西側廊下の中ほどにある部屋だった。

 起床後、ダンスの前後、運動の前後、就寝前と一日五回、ここで着せ替えられるため、すでに私にとって馴染み深い一室となっていた。衣装室は数百点もある衣類がぎっしりと収納された衣装スペースと、姿見や化粧台のある着替えスペースとに別れた、美濃部曰く私のために用意した部屋だそう。収納スペースに陳列される高級衣料の数々を買い付け、ときには自らデザインしてきたのは意外にも美濃部その人だった。彼はああ見えて現役時代はとある世界的に著名なファッション・ブランドの社長としては既製服やコレクション・ラインはもちろん、アクセサリー、香水、化粧品まで手広く展開していたらしい。今身に着けている気持ち良いくらいジャストサイズの下着もあのおやじが作ったものかもと想像すると少しむず痒いけれども、そんな人が引退後はすべて私のためだけに腕を振るっているというのは、やはりとんでもなく贅沢なことなのだろう。私が脱いだ服をハンガーにかけていると、紺子さんが着替えのワンピースとまだカバーのかけられたままの新作のドレスを運んでくる。腰にコサージュの添えられた青いドレスだった。

「こちらになりますが、いかがでしょう?」

「すごく素敵です……。でもこんなにひらひらしてて大丈夫ですか? 激しく動いて破れたりなんかしたら」

「薄くしなやかな生地で頼りないと思われるかもしれませんが、シルクは天然繊維のなかではコットンやウールよりも強度に優れておりますし、縫製もしっかりしております。これは精錬糸ですからそこまでの強度はありませんが、生糸なら一デニールあたり三~四キロの重さにも耐えられるといいます。簡単には裂けることはないでしょう。ですがそれよりも……」

 紺子さんはわざとらしく咳ばらいをして、

「ご自分のダンスの出来ばえの方をご心配された方がよろしいかと」

「うん、確かにこのままじゃ服に負けるわ。私、筋悪いし」

 即座にむにゅっと両側から引き伸ばされる私の頬。

「お顔の方もお衣装に勝るほどでもありませんけどね。まあ面白おかしくはありますが」

「……ほれらけひっぱりゃれればとうぜんれしゅ」

「本日より午後の運動の時間をダンス練習にあてましょう。従業員一同の前で笑われたくなければ本番までにもっとまともな顔になれるよう努めてください」

「かおはあなたがやっへるんれしょ!」

 やれやれまったく……。けれどたかが雑談されど雑談、こんなおしゃべりにも収穫はあるものだ。因果応報の件といい、紺子さんのおかげで今日は私にとって大きな分岐点になりそうだった。彼女の悪戯にじんじんとする頬をさすりながら、私はひとつの提案をする。思いついたことがあるのだ。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 ――夜。

 寝室でクローゼットを前に腕を組み佇む私の姿があった。

 なかにはぎっしりと居並ぶ服服服服――服の山だ。数にしておよそ百着はあろうか。順番に着ていったとしてもひと夏は余裕で越せる量である。そのほとんどがシルク素材のワンピースだ。

 翌日着る服は自室でゆっくり選びたいから、ありったけの夏服を寝室に運んでほしい。

 ありていに言えば私の提案とはそのようなものだった。

 美濃部の趣味なのかお目当てのシルクのワンピースだけでもかなりの量が収納されていたのは幸いだった。そこそこ強度のある生地で、薄く着丈の長いもの。紺子さんには伏せていたが、それこそが私の求める夏服の条件だった。十日後のパーティの夜、“あるもの”に変形させるために。

 この半月、私だってただ指をくわえて見ていたわけじゃなかった。

 表面上はお屋敷での暮らしを満喫している素振りを装いつつも、可能性を探ることは怠らなかった。

 可能性とはもちろん、自力脱出へのプランだ。

 案内や挨拶と称した調査を行うことで屋敷の構造や従業員の勤務時間などはだいたい頭に入っている。それが直接成果につながることはなかったものの、いざというときにすぐに動けるよう準備だけは粛々と進めていた。

 そして、ひとつの可能性が降りてきた今日がそのときだと思う。

 私には一刻も早く帰宅したい理由があった。家族に――お母さんにもう一度会って、話したいことが山のようにあった。包み隠さず、誤魔化しもせず、私がこれまでお母さんに対して考えていたこと、美濃部に手前勝手な夢を押しつけられて気づいたこと、それらを踏まえての今の率直な想いをすべてぶちまけたい。その上で、謝れることなら謝りたい。できるならば再び家族としてよりよい関係を築きたい。拒絶されることになっても構わない。だってやり直す機会さえ与えられていれば、何度挫かれても向き合うことはできるのだ。もう想像の恐怖に苛まれる日々はたくさんだった。気持がはやって、いつ来るやもしれぬ誰かの助けを座して待つなど考えられなかった。私は私の手で、自由を掴みとりたかったのだ。

 もちろん自力脱出が困難なのは二日目に紺子さんから指摘されたとおりだ。

 移動中は常時紺子さんの監視下にある上、庭と敷地外とをつなぐ庭門を開錠する送信機、カードキーは従業員によって管理されており、それをかいくぐるには皆が寝静まった深夜の事務室で送信機を押すほかない。しかし夜九時には私は施錠された寝室に監禁させるため寝室から屋敷内に抜けることはできず、また寝室のある尖塔は高さ三十メートルもあり、梯子やロープを持ち込むことが難しい以上、ベランダから中庭に降りることもできない。きわめつけは中庭と屋敷内とをつなぐ扉は外側から施錠されており、仮に中庭まで辿りついたところで手詰まりになってしまう。

 ――と、ここまで状況を整理して私は長く細い息を吐く。クローゼットの収納限界まで陳列されたワンピースの山を睨む。

 梯子やロープを持ち込むのが無理なら、あるもののなかから自分で作ってしまえばいいのだ。

 シルクのワンピースを二枚一組で撚り合わせ、何十枚も結びつなぎ、およそ三十メートルの脱出用のロープにする。

 今日衣装室で私がひらめいたこととはそれだった。

 十日後のパーティの夜、私が上手に美濃部のパートナーを務めあげられれば、あのおやじのことだ、きっと上機嫌になるに違いない。美濃部がそれほど酒に強くない体質であることは、会食時の会話から把握済みだ。ねぎらいの言葉とともに愛娘から酌をされれば、酔い潰れる程度まで飲ませることくらいはできるのではないだろうか。寝室で泥のように眠りこけている美濃部は多少の物音では起きないだろうし、ましてや深夜のベランダからひょっこり顔を出すなんてことはまず起こらないはずだ。

 帰部屋した私はすぐさまワンピースを撚り合わせる作業に移り、数時間後には寝室から三十メートル下の中庭にまで到達する長さのロープを完成させる。

 降下の際にはベランダの手すりに幾重にも巻き付けたロープを引き出して、脇と膝下を吊り下げるように固定し、もう一方の先を中庭まで垂らす。地上に降ろしたロープを持ったまま手すりを乗り越えて、支える力を緩めながら降りていく寸法だ。手すりに巻き付けた部分の摩擦力を利用すれば、体重よりも少ない力で身体を支えることができるはず。ロープの作り方、結び方についてはおいおい調べていくとしよう。

 上衣と下衣がひとつなぎになったワンピースの着丈は長い。身長百五十三センチの私のサイズでもミニ丈は約八十センチ、膝下丈では約九十五センチにまで達する。ロープを作る際に縮んだ分を差し引けば、単純計算でもミニ丈と膝下丈のワンピースがそれぞれ十七×二枚ずつあれば、三十メートルの距離を埋めることができる。また服の着丈は長ければ長い方が結び合わせる枚数は少なくて済み、作業時間の短縮につながる。オーバーオールやツナギを注文するわけにはいかない以上、ワンピースが最適なのだ。

 ロープとしての安定性については、いくらシルクが強さと伸びに優れた天然繊維だとしても当然千切れることはあるだろう。どれほど頑丈に結んだところでもとが別々の素材なのだから解けることがないとはいえない。それでも四十二キロの私の体重を数分間支えられるくらいの強度はあるはず。いや、あってほしい。三十メートルの高さから地面に叩きつけられる自分の姿を想像するのはぞっとしない。でも他に方法が思いつかないのだ。見切り発車は百も承知だが、この機会を逃して秋冬を迎えてしまえば、気温の低下にともないワードローブも厚手になり、結びつなぐのがより困難になる。ワンピースでワンピースにされた脱出用ロープ。まったくもって笑えない冗談だが、それでするすると器用に降りる自分のイメージはばっちりできている。大丈夫、いけるはずだ。

 むしろ問題は中庭と屋敷をつなぐ鍵のかかった扉かもしれない。ゲッカビジンを目当てに、これまでに何度か中庭は訪れたことがあるけれど、紺子さんの対応を見るかぎりでは、換気のために開け放たれていることはあっても、最後はきちんと施錠して戸締りをするのがならわしのようなのだ。

 ここを突破しないことには脱出への道は開かれない。逆にいえばここさえ――中庭の扉さえ突破してしまえば事務室の送信機で庭門のロックを解除し、屋敷の窓か勝手口を通過して、敷地外へ抜けることができる。そこまでいけば舗装された山道を麓まで下って助けを呼ぶことだってできるはず。

 中庭の扉の鍵をどうにかしたいけれど、どうしたら開いてくれるのだろう。まさか開けたままにしておいてください、とは言えないし、かといって帰部屋後の私は寝室から動けない。寝室から動けるときには監視の目がある。あちらを立てればこちらが立たず。うーん、どうしたらいいのだ。

 

 三十メートル直下の扉の鍵を動かずに開ける手段って……あるのかな?

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