第二話 共同戦線
生徒会室に通うようになって、一週間が経った。
俺の仕事は主に雑用だ。資料のホチキス留め、印刷、備品の在庫確認。誰でもできる仕事ばかりだが、綾瀬はその一つ一つに、ちゃんと「ありがとうございます」と付け加える。律儀な性格は、匿名アカウントの中でも生徒会室でも変わらないらしい。
「冬野くん、ちょっといいですか」
その日、綾瀬が珍しく眉根を寄せて声をかけてきた。机の上には、演劇部から提出されたらしい予算申請書が広げられている。
「この申請、去年の三倍近いんです。衣装代がやたら高くて」
見せられた数字にざっと目を通す。内訳を見ると、生地代と縫製費が別々に計上されているのに、業者への発注書は一枚にまとまっていて、金額の内訳がどうにも合わない。
「これ、多分二重計上ですね。発注書の総額に、内訳の生地代がもう一回足されてます」
言ってから、しまったと思った。誰も頼んでいないのに、つい口が動いていた。
綾瀬が目を丸くする。
「……え、本当だ。よく気づきましたね」
「……たまたまです」
慌てて視線を逸らす。こういう時、余計なことをするとろくなことにならない。目立たず、だらしなく、平均以下でいる。それが俺のやり方だったはずだ。
「たまたまで気づけるものじゃないと思いますけど」
綾瀬はまだこちらを見ていた。値踏みするような視線ではなく、純粋に不思議そうな目だった。居心地が悪くて、俺は手元の書類に視線を落とした。
「暇なんで、数字見るの得意なだけです。大した話じゃないです」
「……そうですか」
納得したのかどうか分からない相槌のあと、綾瀬はそれ以上追及してこなかった。ただ、その日の作業中、何度か視線を感じた気がした。気のせいだと思うことにした。
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数日後、綾瀬が立会演説会用の原稿を見せてきた。
「一度、聞いてもらえますか。おかしいところがあったら」
断る理由もなく、俺は空いている椅子に座った。綾瀬が原稿を読み上げる。政策の説明、実績のアピール、そつのない構成。文句のつけようがない、はずだった。
「……なんか、面白くないです」
「……率直ですね」
「いや、内容は正しいんですけど。正しすぎて、逆に印象に残らないっていうか」
綾瀬が黙り込む。しまった、言い過ぎたかと思ったところで、彼女がぽつりと聞いた。
「じゃあ、冬野くんならどう変えますか」
その聞き方に、なぜか妙な圧を感じた。試されている気がする。
「……最初の一文だけ、正しさより言いたいことを先に持ってきたらどうですか。『生徒会は正しさじゃなくて、生活の側にあるべきだと思います』とか」
口から出た瞬間、また余計なことを、と思った。案の定、綾瀬がじっとこちらを見てくる。
「……それ、いいですね。使っていいですか」
「別に、俺のものでもないんで」
そう言いながら、内心では冷や汗をかいていた。目立たないでいる、というルールを、また一つ破ってしまった気がする。
綾瀬は原稿にペンを走らせながら、小さく笑った。
「冬野くんって、暇なだけにしては、いろいろ気づきすぎだと思います」
図星を突かれて、返す言葉が見つからなかった。
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作業が長引いて、生徒会室を出た頃には、外はもう真っ暗になっていた。おまけに、来る時には晴れていた空から、大粒の雨が降り出している。
「……傘、持ってないです」
昇降口で、綾瀬が小さく呟いた。俺も似たようなものだった。折りたたみ傘はカバンの奥で行方不明だ。
「電車、止まってるかもしれません」
スマホで調べると、案の定、近くの路線で運転見合わせの表示が出ていた。しばらく校舎の軒下で雨宿りすることになった。
沈黙が気まずくなる前に、綾瀬の方から口を開いた。
「冬野くんって、転校多いんですよね。噂で聞きました」
「まあ、それなりに」
「大変じゃなかったですか、その都度」
大変だったかと聞かれると、答えに迷う。大変というより、その都度、自分を作り替えるような感覚に近かった。新しい教室の空気を読んで、目立たない立ち位置を素早く見つける。それを何度も繰り返しているうちに、いつの間にか「素早く空気を読む」こと自体が、自分の性質みたいになっていた。
「まあ、そういうもんだと思ってたんで」
うまく言葉にできず、結局そんな一言で誤魔化した。綾瀬はそれ以上踏み込んでこなかった。ただ、少し考えるような間があってから、ぽつりと言った。
「私、副会長になったのは、姉の後を追いかけたからなんです」
「……お姉さん?」
「三つ上の。すごく自由な人で。私が子供の頃から、家族はいつも姉に振り回されてました」
雨音に紛れるくらいの声量だった。それでも、いつもの綺麗な口調とは少し違う、素の温度が混じっている気がした。
「だから私は、心配かけないようにって、ずっと頑張ってきました。完璧でいれば、誰も困らせないから」
言ってから、綾瀬は少し我に返ったように口をつぐんだ。
「……すみません、変な話しました」
「別に。聞かれて困る話でもないです」
それだけ言うと、綾瀬は小さく笑った。今まで見た中で、一番普通の、力の抜けた笑い方だった。
雨は、しばらく止みそうになかった。
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その夜、家に帰ると、明日香が来ていた。ソファに座って、腕を組んでいる。プリンも買ってきていない。これは、あまりいい兆候じゃない。
「にいに、最近、綾瀬さんの手伝いしてるって、本当?」
単刀直入に聞かれて、誤魔化す隙もなかった。
「……誰から聞いた」
「生徒会の子から。あんたが毎日居残ってるって、ちょっとした噂になってるよ」
明日香の声は、いつもの軽さがなかった。俺と明日香は、血の繋がった正真正銘の兄妹だ。両親が離婚してから、俺は父方の冬野に、明日香は母方――旧家である東雲の家に引き取られた。名字の違う兄妹が、実は血を分けた兄妹だと知られたら、東雲の家はいろいろとうるさい。だから学校では、徹底して赤の他人を演じてきた。
「選挙で私と綾瀬さんが対立候補になったの、知ってるよね。その状況で、にいにが向こうの陣営を手伝ってるって知られたら、私の立場、どうなると思う?」
「……悪いと思ってる」
「思ってるだけ?」
明日香の目は、いつもの悪戯っぽさが消えていた。この顔を見るのは、久しぶりだった気がする。
「なんで手伝ってんの」
理由を、うまく言葉にできなかった。人手が足りなかったから、というのは半分本当で、半分嘘だ。もう半分は、たぶん自分でもまだ認めたくない理由だった。
「……悪い。ちゃんと考える」
「考えるって、何を」
答えられずにいると、明日香は小さくため息をついて、ソファから立ち上がった。
「別に、今すぐ手伝いやめろとは言わない。私だって、そこまで狭量じゃないつもり。でも」
玄関で靴を履きながら、明日香は振り返った。
「にいにがまた誰か気にかけてるの自体は、悪いことだと思ってないよ。ただ、私の立場もちょっとは考えてほしいだけ」
一応、というには重すぎる関係を、明日香は軽い口調でさらりと言う。血の繋がった兄なんだから、と以前彼女が口にした言葉が、ふと頭をよぎった。
それだけ言って、明日香は帰っていった。閉まったドアを見つめながら、俺はしばらく動けずにいた。
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翌日の昼休み、中庭のベンチで、一之瀬先輩が綾瀬に何か話しかけているのを見かけた。
「文化祭の実行委員、綾瀬さんが取りまとめてくれると助かるんだけどな。俺も及ばずながら手伝うから」
爽やかな笑顔。周りの生徒たちが、二人の様子をちらちら見ている。似合いの先輩後輩、という空気が、遠目にもはっきり伝わってきた。
綾瀬は綺麗な会釈で応じている。あれが、綾瀬の「表」の顔だ。誰にでも見せている、完璧な優等生の顔。
その光景を見ていて、自分でもよく分からない感情が、胸の奥でざわついた。別に、俺には関係ない話のはずだった。
購買のパンを握りつぶしそうになって、慌てて力を抜いた。
――なんだこれ。
理由が分からないまま、俺はその日一日、妙に集中力を欠いたまま過ごすことになった。
放課後、生徒会室に顔を出すと、綾瀬はいつも通りの顔で資料をめくっていた。中庭で見た「表」の顔とは、少しだけ違う気がする。気のせいかもしれない。それでも、こっちの顔の方が、なんとなく落ち着く自分がいた。
「冬野くん、今日もお願いしていいですか」
「……はい」
短く答えて、俺はいつもの席についた。窓の外はもう夕暮れで、オレンジ色の光が、几帳面に並んだ資料の上に伸びていた。




