第一話「暴食委員長」
三軒目のオムライス。今日の"被害者"は、駅前の洋食屋らしい。
『暴食委員長』の更新は、大体午後七時前後に来る。俺はその時間になると、行きつけの定食屋の一番奥の席に陣取って、味噌汁を啜りながらスマホの画面を睨んでいる。傍から見ればただの根暗な高校生だが、実際そうなので否定はしない。
一人暮らしを始めて三ヶ月。自炊は三日で挫折した。以来、この店の暖簾をくぐるのが日課になっている。店主のおばちゃんはもう俺の顔と好みの定食を覚えていて、何も言わなくても生姜焼き定食が出てくる。
《本日の反省会:洋食屋のオムライス。ケチャップの発色は良し。ただし卵の巻きが甘い。星3。あと店員、愛想が良すぎて逆に疑う。星には関係ないけど言いたかった》
相変わらず言葉選びが容赦ない。フォロワー千人弱。うちの高校界隈じゃそこそこ名の知れた匿名グルメアカウントだ。俺がフォローしている理由は単純で、一人暮らしの飯選びに割と本気で役立つからだ。中の人については、これまで一度も考えたことがなかった。
……はずだったんだが。
添えられた写真を、指で拡大する。皿の脇に置かれた小さな醤油差し。オムライスに醤油なんて使わないだろうから、多分ただ置いてあるだけなんだろうが――そのラベルが、寸分の狂いもなく客側を向いていた。角度まで綺麗に揃っている。
こういう几帳面さ、最近どこかで見た気がする。
記憶をたどろうとして、途中でやめた。馬鹿らしい。世の中、きっちりした人間なんて星の数ほどいるし、醤油差しの向きひとつで誰かを特定できるなら、俺はとっくに探偵にでもなっている。
味噌汁を飲み干して、会計を済ませる。店を出ると、七月にしては珍しく涼しい風が吹いていた。
歩きながら、もう一度スマホを開く。
《ちなみに店員さんの愛想については、実際はただ接客が上手いだけだと思う。疑ってすみません》
わざわざ追記までしている。この律儀さも、なんというか――やっぱり既視感がある。
画面を消して、ポケットに突っ込んだ。考えすぎだ。転校四回、六つの学校を渡り歩いてきた俺の観察癖が、また余計なところで暴走しているだけだ。人の癖を読むことでしか新しい環境に馴染めなかった、ただの後遺症みたいなものだ。
そう自分に言い聞かせたはずなのに、その夜はなぜか、なかなか寝付けなかった。
朝の時点では、まだ「気のせいだ」で押し通せるはずだった。
登校して昇降口で靴を履き替えていると、後ろから声をかけられた。
「冬野くん、落としましたよ」
振り返ると、そこにいたのは生徒会副会長――綾瀬雫。廊下の隅に落ちていたシャーペンを、律儀に両手で差し出してくる。
品行方正を絵に描いたような人、というのが学年での共通認識だ。制服の着崩し方ひとつない。挨拶は綺麗な会釈つき。去年の合唱コンクールでは伴奏にまでしゃしゃり出て、完璧に弾き切ったという伝説まである。
要するに、俺のような「教室の隅で息を潜めているタイプ」とは、住む世界が違う。
「……どうも」
受け取りながら、なんとなく彼女の手元を見た。指先まで綺麗に揃っている。
「気をつけてくださいね」
一言添えて、彼女は生徒会室の方へ歩いていった。後ろ姿すら隙がない。
その時点では、まだ何も繋がっていなかった。
異変に気づいたのは、昼休みだった。
購買のパンを買い損ねた俺が自販機の前でぼんやりしていると、視界の端に見覚えのある背中が入った。中庭のベンチ、綾瀬雫がひとりで昼食を摂っている。
サンドイッチの包み紙を、律儀に真ん中で結び直している。
――あ。
反射的に、昨夜の画面を思い出した。皿の脇の醤油差し。ラベルを正面に、寸分の狂いもなく。
同じだ。置く角度、結び目の位置、無駄のない手つき。几帳面という言葉だけでは片付けられない、ある種の"癖"としか言いようのないもの。
自販機の缶コーヒーを取り出すのも忘れて、俺はしばらくその場に突っ立っていた。
いや、待て。落ち着け。パンの結び方が几帳面な人間なんて、探せば他にもいるはずだ。これだけで決めつけるのは早計――
そこまで考えたところで、彼女がふと顔を上げた。目が合う。
俺は慌てて視線を逸らし、自販機のボタンを適当に押した。出てきたのは飲んだこともない炭酸飲料だった。
その日の放課後、もう一度アカウントを開いた。過去の投稿を、時間をかけて遡る。写真に映り込む影の角度、テーブルの木目、たまに写り込む制服の袖――集めるほどに、点と点が繋がっていく。
確信犯だ。
誰にも聞かれていないのに、なぜか声に出さずにはいられなかった。
さて、どうする。
からかうという選択肢は、最初から頭になかった。誰かに言いふらす気も、本人に「バレてますよ」と告げる気もない。理由をうまく言葉にはできないが――多分、俺自身が知っているからだ。誰にも見せていない顔を、うっかり誰かに覗かれることの、あの落ち着かない感じを。
だから俺は、何も知らないふりを続けることにした。
その選択が、思ったより長く自分を縛ることになるとは、この時はまだ知らない。
夜八時。玄関のドアが、ノックもなしに開いた。
合鍵を持っているのは、この世でたった一人しかいない。
「にいに、生きてる?」
東雲明日香――もとい、"表向きは他人"の妹は、勝手にスニーカーを脱ぎ捨てて上がり込んできた。制服のリボンはもう外されていて、コンビニの袋を片手にぶら下げている。
「勝手に人の家来るなよ」
「勝手にって、合鍵渡してきたのそっちじゃん」
返す言葉もない。半年前、「何かあったら困るから」という理由で押し切られて渡した合鍵は、今や週の半分くらいの頻度で使われている。
明日香はキッチンに直行して、買ってきたプリンを二つ、勝手に冷蔵庫に突っ込んだ。一つは俺の分らしい。
「今日、学校で会ったよね」
唐突に言われて、心臓が跳ねた。
「……会ってねえよ、そもそも接点ないだろ、俺とお前」
「昇降口ですれ違ったの、見えてたんですけど」
見られていたのか。まあ、同じ学校に通っている以上、廊下ですれ違うことくらいはある。ただ、学校では互いに他人のふりをする、という不文律だけは守っている。両親が離婚してから、俺は父方に、明日香は母方――旧家である東雲の家に引き取られた。名字が違う兄妹が、実は血の繋がった兄妹だと知られたら、あの家はいろいろとうるさい。だから学校では、徹底して赤の他人を演じている。
「で、何かあった?」
ソファに勝手に腰を下ろしながら、明日香が聞いてくる。
「別に」
「嘘。にいに、隠し事するとすぐ目が泳ぐの、直した方がいいよ」
数年一緒に育った――今は違う家に住んでいても――妹の観察眼は、伊達じゃない。自分の観察癖がどこから来たのか、たまにこいつを見ていて分かる気がする。血、なんだろうなと思う。
誤魔化そうとして、視線が明後日の方向に泳いだ。それを見た明日香が、にやりと笑う。
「あ、図星だ」
「別に大した話じゃない」
「大した話じゃないなら言えるよね」
こういう時の明日香は、絶対に引かない。昔からそうだった。小学生の頃、俺が隠れて描いていた絵を見つけた時も、進路希望調査を白紙で出そうとした時も、絶対に見逃してくれなかった。
「……ある人の秘密、知っちゃったかもしれない」
結局、大枠だけ白状することにした。全部話すつもりはないが、明日香相手に完全に黙秘するのも土台無理な話だ。
「秘密?」
「言えない」
「言えない秘密を知っちゃったって、それもう半分言ってるようなもんじゃん」
プリンのスプーンを咥えたまま、明日香がじっと俺を見てくる。それから、何かに気づいたように目を細めた。
「――もしかして、誰かのこと気になってる?」
「は?」
「にいにがそんな顔するの、珍しいから」
「どんな顔だよ」
「うーんと……前の学校にいた時の顔、思い出す感じ」
前の学校。その一言に、少しだけ息が詰まった。
明日香は、俺が今のように力を抜く前の姿を知っている数少ない人間だ。教室の隅で気配を消して生きている今の俺しか知らない連中とは違う。だからこそ、たまにこうやって、こっちが忘れたふりをしている過去を、無邪気に掘り起こしてくる。
「関係ない話だろ、それとこれは」
「関係あるかどうかは、にいにが決めることじゃなくて、こっちが勝手に判断することなんですー」
減らず口を叩きながら、明日香はプリンを完食し、空の容器をシンクに置いた。ついでに洗い物が溜まっていた俺のシンクを見て、盛大にため息をつく。
「相変わらず生活力ない。私が同じ家にいたらちゃんと管理してあげるのに」
「いいよ別に」
「よくない。一応、血の繋がった兄なんだから」
一応、というには重すぎる関係を、明日香は軽い口調でさらりと言う。それでも、こうして週に何度も、合鍵で押しかけてくる妹がいる。傍から見たら歪な関係なんだろう。でも、これが俺たちにとっての普通だった。
「まあいいや。深くは聞かない。でも」
玄関で靴を履きながら、明日香が振り返る。
「にいにがまた誰かのこと考えて上の空になってるの、悪くないと思うよ」
「別に、そういうんじゃ」
「はいはい。おやすみ、にいに」
言うだけ言って、明日香は帰っていった。閉まったドアを見つめながら、俺はしばらく立ち尽くしていた。
翌週。月曜の朝礼で、担任がやたら重々しい顔でこう言った。
「えー、来月頭に、生徒会長選挙が行われます。立候補者は今週中に生徒会室まで」
教室がわずかにざわつく。毎年恒例の行事らしいが、今年は少し様子が違うようだった。
「今年は現副会長の綾瀬さんと、東雲さんが立候補するって、もう噂になってるらしいよ」
隣の席の男子が、誰にともなく喋っている。東雲。その名字に、俺の肩がぴくりと動いた。
昼休み、購買のパンを咥えながら廊下を歩いていると、掲示板の前に人だかりができていた。覗き込むと、立候補者受付を知らせる貼り紙。見慣れた達筆の字で「東雲明日香」と書かれている。
聞いてない。いや、聞かれる筋合いもないんだが。表向き、俺たちは他人なんだから。
もう一つの欄には「綾瀬雫」の名前。几帳面な字で、はみ出し一つなく書かれていた。あの醤油差しと、同じ角度で。
「へえ、今年は本命同士の一騎打ちってわけか」
背後から聞こえた声に振り返ると、いつも人に囲まれている一之瀬先輩が、掲示板を眺めながら取り巻きに話しかけていた。爽やかな笑顔。この人が生徒会長選に出るという噂も聞いたことがあるが、どうやら今年は見送るらしい。
「一之瀬先輩、今年は出ないんですか」
「今年は綾瀬さんを応援に回ろうかと思って」
その一言に、なぜか胸の奥がざらついた。理由は自分でもよく分からない。
放課後、生徒会室の前を通りかかると、扉が半分開いていた。中を覗くつもりはなかったが、聞こえてしまったものは仕方がない。
「――部活動予算の見直し案、今日中に固めておきたいんだけど」
綾瀬の声。いつもの、隙のない口調。
「人手が全然足りないんですよ、副会長」
別の生徒会役員らしき声が返す。俺は素通りするつもりだった。関わるつもりは、本当になかった。
けれど、資料の束を抱えて廊下に出てきた綾瀬と、思い切り目が合ってしまった。
「あ」
「……あ」
数秒、変な沈黙が流れる。向こうは驚いた顔をしていたが、すぐにいつもの綺麗な表情に戻った。
「冬野くん、ですよね。何か御用ですか?」
用件なんてない。ただ通りかかっただけだ。なのに、口から出た言葉は、自分でも予想していないものだった。
「……手伝うこと、あります?」
自分で言っておいて、内心で盛大に動揺した。何を口走っているんだ、俺は。関わらないと決めたはずだろう。
綾瀬の方も、意表を突かれたような顔をしている。
「え、でも冬野くんは、その、あまり……」
言い淀んだ言葉の続きは、大体想像がついた。あまり真面目に何かに取り組むタイプに見えない、というやつだ。事実だから否定もしない。
「暇なんで。人手足りないなら」
適当な理由をでっちあげながら、俺は資料の束の半分に手を伸ばしていた。綾瀬は少し戸惑った顔をしていたが、やがて小さく頷いた。
「……じゃあ、お願いします」
生徒会室に足を踏み入れたのは、これが初めてだった。
机の上には、部活動予算の資料が山のように積まれていた。綾瀬はその一つ一つに、几帳面な字で付箋を貼っていく。書き込みの角度まで、寸分の狂いもない。
作業を手伝いながら、俺はちらちらと綾瀬の横顔を盗み見ていた。品行方正を絵に描いたような表情。あの毒舌グルメアカウントの中身が、本当にこの人なのか。まだどこかで疑う気持ちも残っている。
「……あの、冬野くん」
「はい」
「本当に、暇なだけなんですか?東雲さんと張り合ってる私を、面白がって見に来たとか、そういうのじゃなくて」
東雲。妹の名前が、他人の口から出ると変な感じがする。
「ないです、そういうの」
「そうですか」
それだけ言うと、綾瀬はまた資料に視線を戻した。会話はそこで途切れたが、気まずいというよりは、不思議と居心地の悪くない沈黙だった。窓の外はもう夕暮れで、オレンジ色の光が机に伸びている。
しばらくして、綾瀬がぽつりと呟いた。
「今日、ありがとうございました」
「別に、大したことしてないです」
「いえ。誰も、手伝ってくれなかったので」
その一言だけ、いつもの綺麗な口調から、少しだけ素の色が滲んだ気がした。気のせいかもしれない。でも、多分、気のせいじゃない。
生徒会室を出る頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。スマホを取り出すと、いつもの時間に『暴食委員長』の更新通知が来ている。
《本日は取材(?)に付き合わされたため更新遅れ。誰かさんのせいです。誰とは言いませんが》
思わず、口の端が上がった。誰のことだか、俺にはよく分かった。




