ハナの記録㊲ 私の知ってるハハ、知らないハハ——
「久しぶり…ハナちゃん」
私は、その声が本当にハハから発されたものなのか、判断がつかなかった。
それほどに、いつもの面影が感じられない消え入りそうな声———
私は、あまりの変化に言葉を失い、呆然とハハを見つめていた…
そのせいか、ゆっくりと近付くハハの手に、何が握られているのかを——
“それ”が振りかざされるまで気付かなかった。
ハハの手には、小振りのハンマーが握られていた———
作業でも使用するものだ。
扉の側で浮かべていた微かな笑みは、既に消えていた——
「ごめんね…ハナちゃん……」
————私は、壊されようとしている。
その理由は見当も付かない。
なのに、ただ呆然と、振り上げられたハンマーを見つめていた。
その間、とても時間の感覚が曖昧で…
一瞬だったのか、数十秒は経っていたのか、今となっては分からない。
そんな不思議な感覚は、ハハの手の震えを感じ取ると、少しずつ引いていった……
その代わりに、恐怖と心配の気持ちが強くなる——
いつの間にか、お互いの目が合っていた———
ハハの瞳は本当に綺麗で…
こんな状況なのに見惚れてしまっていた。
その瞳がかすかに揺らいだ後、
ハハはゆっくりと………手を降ろした。
——その後、ハハは何かを確かめるように、手の中にあるハンマーを見つめていた。
私は何も言わず、何もできなかった——
ハハの思考を邪魔したくなかったのか、かける言葉が見つからなかったのか……
やがて、ハハはそのハンマーをそっとベッドの端に置いた———
「やーめた!……ごめんね、ハナちゃん」
「えっと………」
「今の“ごめんね”は、怖がらせちゃった事への謝罪だよ」
「うん…いや、そうじゃなくて……」
「あっ…理由だよね。うん、全部話すよ。そう決めた…」
そう言いながら、ハハはベッド脇の椅子に腰を下ろした。
口調は声のトーンはいつもの様子に近付いたけど、それが形だけなのは聞かなくても分かった……
「ごめんね…多分、一方的に話すことになっちゃうけど…」
「うん…いいよ」
「5年くらい前かな、ハナちゃんとハロが今の作業場に異動になったでしょ…?
最初は、作業の間はルームメイトが離れ離れになっちゃうのがちょっと寂しいなーって…そんな気持ちだった。
でも、それまでハナちゃんをからかってばかりだったハクが、段々わたしに構ってくれるようになってね……
日中はハナちゃんと物理的に離れてるんだから、あくまで代わりだったのかもしれないけど…
わたしは、それが凄く嬉しかったんだー」
「うん……」
「でね、ちょっとずつ独占欲みたいなのが出てきて…
朝晩も構って貰えるように、ハクが喜びそうなオーバーなリアクションを取るようになっていったの。
もうここ数年は、それが普通のわたしになっちゃってたけど…」
「そう…だったんだ」
改めてそう言われると、昔のハハは今よりもずっと落ち着いていたように思える……
変化が少しずつだったからか、なんの違和感も抱いていなかったけど——
「いつの間にかね、ハクが構ってくれる時だけ世界に色が付いていて…
それが、わたしの生きる意味になってた。
そんな時、目の前で見ちゃったんだ——ハクが殴り飛ばされるところ……」
「…………」
「あまりの衝撃に、これまでの思考回路から外れて、溝に落ちて抜け出せなくなっちゃった……みたいな?
あの日から、ずっと心がざわついて…
いつものわたしじゃいられなくなっちゃった……」
「ごめん………」
「でもね、あの日はハナちゃんも様子がおかしかったし……
そう思って、納得しようとしてたんだけど……
———ハクがね、あれ以来ずっとハナちゃんの話をするの。
“よかったね、仲直りできたんだね”って……
そう言ったけどさ、気付いちゃったんだー…」
「……」
「——このままハクとハナちゃんの関係が改善したら、ハクはわたしよりもハナちゃんを構うようになる。
これは思い込みじゃないよ?
わたし、ハクのことはよく知ってるんだから…」
「………」
「ハクは昔からハナちゃんに惹かれてる。
これまではハナちゃんから距離を取ってたから、ハクも加減してたけど……
関係が良くなれば、いよいよわたしはお役御免だよ。
きっと、ハナちゃんとの時間に満足して、わたしを構う時間や熱量は減る」
「…………」
「ハクがハナちゃんに惹かれる理由は分かるよ…
わたし達の世代で、ハナちゃんだけが特別。
なにがっていうと難しいけど、ずっと感じてきた——
だからね、わたしじゃ勝ち目なんか無いんだよ……
———気が付いたら、“それ”を握ってた。
でも、できなかったよ……
わたしは、ハナちゃんのことが嫌いなわけじゃないから…
生きる理由を失うのが怖かっただけだから———」
———何も言えなかった。
ハハがこんな気持ちを抱えてたなんて知らなかった。
私が特別だと思われてたなんて知らなかった。
浮かんだのは、先日の主任との会話……
“私には、人間の意識が入っている”——
でも、それをハハに伝えても、きっと何も解決しない。
逆に、違いを突き付けることになって、余計に傷付けることになるかもしれない。
ハハは正直に話してくれた。
なのに、私はこんなにも無力で……
かける言葉さえ見つけられなかった———
………
……
…
「あーもう辛気臭い…!ずっと心配してたのに、そんなこと思ってたわけ??」
突然響いたハクの声に、私もハハも、思わず口が開いたままになっていた——
「ハク…なんで…」
「なんでもどーしてもないよ!ハハってばハンマー持ってふらふら歩いてるんだもん。
そりゃ心配になるでしょ〜。悪いとは思ったけど、外で全部聴いてたよ♪
ホントに殴るんじゃないかってヒヤヒヤしてたんだから〜…」
「ごめんなさい………」
「それで〜?あたしがハナちゃんに夢中になって、もう構ってもらえなくなるって思ったの??
ハハってそんなにあたしのこと好きだったんだ〜♪
これは、からかいがいのあるネタを見つけちゃったな〜♪♪」
「…………」
「どうしたの〜?うつむいちゃって♪」
「謝るから……!からかわないで……」
「え〜??からかわれたかったんじゃないの?
キャラまで作っちゃってさ♪
でも、はっきり言うけど〜…
今の素のハハの方があたしは好きだよ♪♪」
恥ずかしさに耐えられなくなったのか、ハハは顔を両手で覆ってしまっている……
さっきまでの重苦しい空気は、そこにはもう無かった——
私が呆気に取られてる間に、ハクがぐいぐいとハハに迫って……
あっという間に主導権を握ってしまった———
「じゃあ、ハハが素直になった記念ってことで〜…
このハンマーは部屋に飾ることにしよっか♪」
「そ、それは……」
「もう全部吐いちゃったんだから、今更気にしちゃダメだよ〜♪
それと、あたしの事が好きなら、これからは素直なハハを見せてね♪♪」
「…………うん。」
———ハクって、凄い。
素直に尊敬してしまった。
もちろん、私の立場ではどうしようもなかったかもしれないけど…
でも、もしも私がハクの立場だったら…
こんな風に懐に飛び込んで、心を溶かしてあげられただろうか……?
……
——その後、ハハは何度も私に謝ってくれた。
私も、ハクを殴った件で間接的にハハを傷付けたことを謝った。
お互いに謝罪が止まらなくなりそうなところで…
「はい、これでおあいこね〜♪」
ハクがそう言って、場を収めてくれた。
こうして、あいだを取り持つハクの姿は、なんだか新鮮だった……
……
ハハとハクが部屋を去った後も、私はしばらく扉を見つめていた——
ハハも、ハクも…
みんな、こうして悩んで、考えて、変化して…
当たり前のことなのに、本当の意味で分かってはいなかったかもしれない。
さっき、人間の意識が入ってることを思い出して、ハハとの距離が凄く離れたように感じた——
——でも、私が間違ってた。
人間の意識が入ってても、入ってなくても、何も変わらない。
ハハは私のことを特別だって言ったけど、そんなことない。
ハハにとってはハクだって特別な存在なんだろうし、私にとってはハロが特別な存在だ。
誰だって誰かの特別になることがある。
そう思うと、人間の意識の話なんてどうでもよく感じた。
レイ主任に、「お前はハナだ」って言ってもらったのに…
どうやら、心のどこかでは、まだ人間だった頃の自分を気にしてたらしい——
今日は、ハハとは全然話せなかった。
だから今度は色んなことを話してみたいな……
そして、本当のハハを知りたい。
明るくて元気なハハじゃなくて、寂しがり屋で繊細なハハと、ちゃんと仲良くなりたい。




