9、逃げなければ
私が嫁ぐ朝、空は皮肉なほど澄みわたり、まるで祝福するかのように太陽の光が降り注いでいた。
「レイラ、元気でね。手紙を書くわ」
セリスは満面の笑みを浮かべ、私の前に現れた。
あまりにも白々しくて、吐き気がするほどだ。
本当なら言い返したかった。けれど、となりでアベリオが冷たい視線を向けてくる。
そして何より、私自身があまりにも疲れ果てていて、もはや口を開く気力さえ失っていた。
この場で何を言ったところで、誰も信じてくれない。
父も、叔母も、アベリオも、ここにはセリスの味方しかいないのだから。
私は無言のまま小さく会釈をすると、バッグ一つを抱えて馬車に乗り込んだ。
その背後で、叔母が父へ不満を漏らす声がした。
「せっかく見送りに出てあげたのに、愛想もないのね」
「ああ。死んだ母親にそっくりで生意気な娘だ。これでもう顔を見なくて済むと思うと、せいせいするよ」
胸が痛んだ。
それでも私は、父を憎みきることができない。たったひとりの親だったから。
けれど心は疲弊しきっていて、涙はとうに枯れてしまった。
あれほど必死にこの家のため、父のために身を削ってきたのに。
それでも、父は私に結婚支度金も、新しいドレスさえも与えてくれなかった。
残されたのは、使い古された装飾品と、最低限の衣服だけ。
まるで私という存在ごと、不要物のように捨てられたみたいだ。
馬車に腰を下ろすと、セリスの甲高い声が耳に響いた。
「ねえ、叔父様。私、新しいドレスがほしいの。流行りのきらめきショールのついたドレスがいいわ!」
「ああ、なんでも買ってやるぞ。お前はうちにとって大切な子だからな」
「やったわ! 私、みんなのためにもっと頑張るわ」
楽しげな声がするたびに、私の心はさらに擦り減っていく。
「まあ、よかったわね、セリス。じゃあお母様がドレスに似合う宝石を買ってあげるわ」
「嬉しいわ、お母様!」
甲高い笑い声が残響のように頭の奥で響き、意識が遠のいていく。
耳鳴りがして、視界がかすむ。
「ねえ、アベリオ。私、結婚式には王都一のデザイナーにドレスを仕立ててもらいたいの」
「……考えておくよ」
「ねえ、お願い。絶対よ」
アベリオの声さえ、もう遠い。
御者が鞭を振り上げ、馬の嘶きとともに馬車が動き出した。
私は最後にちらりと外へ視線を向けた。
けれど、彼らはもう、誰ひとりとして私を見てはいなかった。
右手は医師にもらった塗り薬で腫れは収まったが、異形のように変わった状態はどうにもならなかった。
手の感覚はなく、筆を握るどころか、フォークを持ったり何かを掴むこともできない。
この醜い手をさらさないようにと父に言われ、大きな手袋を被せている。
もう、すべてがどうでもよかった。
希望など欠片も残されていないのだから。
馬車は男爵領へ向かう途中、日が傾き始めた森の小道で停車した。
どうやらここで一晩を過ごすらしい。
御者は馬車の扉に顔を覗かせることもなく、足早に宿の建物の中へ消えていく。
重い気持ちを抱えながら馬車を降り、建物の前まで足を進めると、御者の低い声と誰かの男の声がふと聞こえた。
「手筈は整っているか?」
「ああ。今夜発つ荷馬車がある」
「しかし、令嬢もまさか自分が異国に売り飛ばされるとは思ってもいないだろうな」
異国に売り飛ばされる――?
「仕事ができなくなったから娘を売り飛ばすなんざ、伯爵もなかなか酷ぇことするよな」
「仕方ないんじゃないか。実の娘じゃないんだろ?」
「ああ。どうやら死んだ妻の恋人の子らしい。伯爵との縁談で無理やり別れさせられた相手らしいぞ」
「まあ、俺らの知ったことじゃねえ。金さえもらえればいいんだ」
彼らの言葉が次々と私の頭に打ちつけられ、心臓は凍りつくように震えた。
私は父の子ではなかったの?
だから、父はあんなに私に冷たかったの?
けれど、今はそんなことを考える余裕はない。
目の前に迫る現実が残酷なまでに押し寄せる。
異国に売り飛ばされる運命が、私の理性を容赦なく揺さぶった。
彼らの話では貴族の妾になるか、娼館で働くか、あるいは犯罪組織でぼろぼろになるまで使われるか。
恐怖に打ち震える。
逃げなければ――




