57、もしも――(メイア)
私はどこで間違えたのだろうか。
もっと早く、レイラを連れてこの家を出るべきだったのかもしれない。
けれど、レイラの絵の才能を伸ばすには、スレイド家に留まるしかなかった。
あの子は彼と同じ、光を描く才能を持つ天才だったから。
私にはあの子をその道へ導く責任があると思っていた。
だから、どれほど夫に蔑まれ、罵られ、殴られようと、耐えて耐えて過ごしてきた。
夫がレイラに手を上げそうになれば、私が代わりに殴られた。
彼はいつも言っていた。私を殴る権利があると。
理由は、私が結婚前にすでにレイラを身籠っていたから。
けれど、彼はそれを知った上で私を娶ったのだ。
それなのに、結婚後は「裏切り女」と罵り、私を蔑み続けた。
彼が私を選んだ本当の理由は、別にあった。
夫は実の妹と不義を重ねていた。
その関係を隠すために、すでに子のいる私を<都合のよい妻>として選んだのだ。
世間の前では、妻子を持つ模範的な貴族を演じていた。
けれど、彼はレイラが生まれた日でさえ、妹と密会していた。
出産の直後、弱った私に怒鳴り散らし、レイラが泣けば、私を殴った。
そのときすでに限界だった。
けれど、実家に帰ることはできなかった。
両親は跡継ぎの兄だけを溺愛し、私の存在を疎ましく思っていた。
それでも、彼らは私を自由にはしてくれなかった。
私と恋人を引き裂き、スレイド家へ嫁がせるために利用したのだから。
結婚前、私は恋人と駆け落ちした。
彼は穏やかで、静かな人だった。
彼のまとう空気は透き通っていて、まるで神様のように美しかった。
出会いは夜の森だった。
両親に謂れのない罪で叩かれて家を飛び出したとき、月明かりの下で彼は光の絵を描いていた。
家族に虐げられていた私の心を、彼の絵が救ってくれた。
それから私たちは、毎日のように森の中で会った。
やがて惹かれ合い、自然に愛し合うようになった。
けれど、彼は敵国の人間だった。
この恋は、許されなかったのだ。
私たちが隠れて会っていることを両親に見つかった。
彼は捕らえられ、拷問に近い罰を受けた。
彼を救うために、私は両親の命令通り、彼との別れを受け入れた。
そうするしか、彼の命を守る術がなかった。
彼は解放されたが、酷い怪我を負っていたという。
私は見送りさえ許されず、そのまま彼とは永遠に会えなくなってしまった。
けれど、神様は私にひとつの奇跡を与えてくれた。
私のお腹には、彼の子が宿っていたのだ。
両親は激怒し、流産させようと私に薬を飲ませた。
それでも私は拒んだ。吐き出し、泣きながら、この子だけは守ると誓った。
そんな折、スレイド伯爵から縁談が舞い込んだ。
彼は「身籠った女でも構わない」と言い、私を引き取った。
両親もすぐに賛成し、私は無理やり、スレイド家に嫁がされた。
そこから、地獄が始まった。
私にとって生きる意味は、レイラの成長だけになった。
あの子は日を追うごとに、彼に似ていった。
そのたびに切なくて、嬉しくて、愛おしく感じた。
絶対にこの子だけは守らなければ、と強い意思で生きた。
けれど、レイラが貴族学院へ入る頃、私の体は限界を迎えていた。
夫の暴力によって内臓を痛め、医師には「もって一年」と告げられた。
声も出にくくなり、寝たきりの日が増えた。
それでもレイラは、いつもそばにいてくれた。
死を覚悟した私は、どうしても伝えなければならなかった。
――レイラ、あなたの本当のお父さまは、他にいるのよ、と。
ついに、それを伝えることができないまま、私は意識をなくした。
夢を見た。
あまりに優しくて、涙が出るほど幸福な夢を。
澄み渡る青空の下、丘の上で白銀の髪が風に揺れていた。
私は急いで駆け寄って、彼の胸に飛び込んだ。
「スヴェン!」
「どうしたの? メイア」
「ううん、ちょっと怖い夢を見たの。でも、あなたの顔を見たら安心したわ」
「そうか、よかった。ちょうどいい。君たちの絵を描こうと思っていたんだ」
「私たちの?」
スヴェンの背後から、小さなレイラが顔を覗かせた。
「お母さま。今ね、お父さまにお願いしたの。わたしとお母さまを、とびっきりきれいに描いてって」
「まあ、そうなの。それは楽しみね」
するとスヴェンは困ったような顔で笑って言った。
「これはプレッシャーを感じるなあ」
スヴェンは白いキャンバスに筆を滑らせていった。
私はレイラを抱きしめ、彼の絵が完成するのを楽しみに待った。
「ねえ、お母さま」
「なあに?」
「わたし、お父さまみたいな絵師さんになりたいの」
「ふふ……きっとなれるわ。だってお父さまの血を引いているんですもの」
「うん。わたし、絵でみんなを幸せにするの」
「そうね……お母さまは、もう充分すぎるほど幸せだわ」
しあわせで、しあわせで、涙があふれるほどに美しい時間だった。
これはきっと、あるはずだった、私とスヴェンとレイラの未来――
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