シキ
カサネは掌で額を抑え付け、くしゃりと前髪を崩した。何が起こったのかよく分かっていなかった。恐らく今の男がエルヴィスの探している人物であろうことは分かった。
「ドルフィオ・クレーティ……?」
カサネは静かに呟いて、賢杖の姿が変わっていく様を思い返した。126年前に死亡した人物が今も生きているなど到底信じられなかった。そもそもドルフィオの無惨な最期は歴史に記されている。
カサネ自身はエルヴィスに利用されることを不愉快に思ったりしない。それはドルフィオの言った通り、自身の人生がどうでもいいものだからだ。
昔は目標があった。そのために命懸けで魔物を狩ったし、必死になって稼いで貯め込んでいた。それがある日どう足掻いても手に入らなくなった。残ったのは年齢に不相応な多額の貯金だけで、それ以外に欲しいものがなかったカサネはそれからただなんとなく冒険者を続けている。こうして続くだけの日々はカサネにとって大して価値がない。
正しくは、カサネにはもうひとつやりたいことがあった。大きな目標を失った矛先は、その元凶へと向かった。
ふとカサネはエルヴィスに言うべきことを思い出した。利用してくれて大いに構わない、それが例えいかに自身を害するものであってもだ。ただしそれは目的を達成してからだ。人に託すものでも頼むものでもない、自らの手で成さねばならない。その後であればどうしてくれてもいい。
んふふ、とカサネは小さく笑った。ドルフィオが何をしに来たのかは分からなかったが、少しばかり横槍を入れただけで人の意思が変わると思っているなら間違いだ、滑稽だとさえ思った。しかしドルフィオの言葉の中で簡単に聞き流せない箇所があった。
まあそもそも神像の特権ってのも大分前に――。
カサネが白金階級を目指す理由はこの特権だ。ドルフィオが何を言おうとしていたのか、カサネには簡単に察しがついた。しかし言われたくはなかった。言われなくてもどこかで分かっていて、目を背けるように知らないフリをしていた。
「聞こえてんでしょドルフィオ。何をどこまで知ってんのか分かんないけど、私は神像なんかいらない。ゴミクズ野郎のために人生終わるの馬鹿馬鹿しいから手に入れてやろうって思ってただけ。ないならないで、なくたって別に変わんない。そんなんで今更諦めないし」
『……諦めた方が幸せなこともあると思うんだけどなァ』
喉の奥から笑い声が零れ出しそうになり、カサネはぐっと息を詰めた。そのまま高級品のコーヒーを味わいもせず一息に飲み干して大きく息を吐けば、妙に破滅的な気分になった。それさえ笑い飛ばせるような気がした。
白金階級の証である神像。オスニファエルを模したとされるそれは、簡単に言ってしまえば赦しの道具だ。オスニファエルの姿など分かるはずもないのに、神像は人の形をしている。醜さも含めて隣人を愛す、法の制定者と製作者はそれを随分と都合良く解釈したようだ。
奇妙な仕組みだが、人の形をしたその像には人権が与えられていて、同時に授与された者の所有物でもある。つまるところどう使うかと言うと、神像に己の罪を肩代わりさせて赦しを得るというものだ。昔はそういうものだった。そしてドルフィオが口にしようとしたように、その特権は昔に失われたものだ。
カサネは神像の特権と知った時、それが果たして今に至るまで健在の制度なのかを調べようとしなかった。そんなものが現在の世にあっていいものなのかという己の疑心は無視をして盲目であるようにした。
「ドルフィオはさ、なんで神像に肩代わりさせなかったの。126年前はまだできたっしょ」
『そりゃな、人間の想像した姿とはいえオスニファエルだからな。俺にとっちゃ子が親を身代わりにするようなもんだ』
「めっちゃフィオリグ教ガチ勢じゃん」
『ガチ勢ってかガチよ俺は。それにそう簡単には死なないわけだしな』
「それ謎いんよね。なして? てかそもそも本当にあのドルフィオ・クレーティなわけ?」
『細けーことはエルヴィスに訊きゃいいよ。ハイもう終わり。今日はもう返事しないからさ。人と長く喋ると疲れんだわ』
「はあ? 自分から来たくせして」
それから何度か話しかけても本当に返事がなくなったので、カサネは潔く会計を済ませて店を出ることにした。こんなに勝手な相手ならば遠慮する必要などないと、しっかりドルフィオの置いていったウィーガルで支払った。
さてどうしようかと、カサネは暇を持て余して街をぶらぶらと彷徨うことにした。様々な文化や特産品を集めたファレーゼは、観光地化していることもあってか学生や地域住民向けの一部日用品や食料品店を除いて諸々が高い。宮殿図書館周辺や中心部は特にだ。ものが集まる都会だからこそなのだが、やはり遠方からわざわざ運んでくるのには費用がかかるらしい。もっと安い価格で高品質なものを沢山見てきており、何か買っても荷物が増えるだけだと思うと購買意欲もどうにも湧かない。
まったく心は庶民のくせに金ばかり持っていても仕方がないと、カサネは大きく溜息を吐いた。退屈にも随分慣れてしまっていた。
「シジマ・シキ……」
カサネはある男の名前を零して目を閉じた。細く息を吐き切って耳を澄ます。
「お前、まだ生きてんの?」
どこか遠く、規則正しく脈打つ心臓の音。そして喉と目が痛くなるので嫌いだった、煙草の煙を吹き出す音。カサネは眉を顰めて聴くのを止めた。どうやら生きているらしい、それさえ分かれば十分だ。
どうか死んでくれるなよと、カサネは本心でそう思った。落ち着いた鼓動と優雅な一服の息に苛立った。
アケカゼ領ミズチ。かつて国名であったが約200年前にプラヴィアル領土となり、そのまま地名となった。現在は七頭龍の棲家になっているカサネの故郷だ。カサネはミズチには特に思い入れがない。あの子がいれば住む場所などどこでも構わないと思っていた。
カサネは建造物に囲まれた狭い空に浮かぶ雲を眺めた。そう言えばオスニファエルのいる天界とは一体どこにあるのだろうかと空想した。
「はー……、強制指令とか、だっる……」
もう魔物退治など辞めてしまおうかと考えて、アルヴィンとエルヴィスの姿が過ぎる。カサネにとって初めての後輩である2人はとにかく可愛い存在だ。
やるべきことを果たして、そうしたら引退してエルヴィスの目的の糧にでもなってやろう、その後のことはどうでもいい。
「いいなあ……」
アルヴィンとエルヴィスがくだらない話をして笑い合いながら、一緒に住む家に帰っていく後ろ姿。カサネはよくある家族の形は知らないが、彼らは間違いなくカサネの憧れる家族のひとつに違いなかった。
一方、ある地では。
ミズチの地を追われた者たちは、その後はいくつかの都市や町に散りつつも受け入れられた。広大なプラヴィアルでは情報の伝達に時間がかかり、その町にはようやく雷神象討伐についての記事が出回っていた。
風に遊ばれた新聞が脚に引っ掛かって、男は面倒臭そうにそれを拾い上げた。
「聖火の鏡と大地の盾……金階級の3名、ね」
新聞の中のカサネ・シキという文字を見て、男は愉快そうに、僅かに口角をあげた。横にいた男はその記事を見て大層驚いたようだった。
「カサネって名前、恐らくミズチのもんですね。しかもシキとは、まさかシジマさんのご親戚で?」
「さぁなぁ? いやあ、生きてるとこういう驚きもあらぁな。まあ、この金階級さんたちがどういう人かは分からんが、強制指令な……こいつらでミズチを取り返してくれりゃ儲けもんだがね」
シジマという男は冗談めいた軽い口調でそう言った。本気で期待しているようではなさそうだった。
「もしミズチを取り返せたなら、我々の手元に霊薬が戻ってきますよ」
「ははは、とは言っても私は皮算用はしないんでな。これを当てにするよりは今の商売の方が大事だろうよ。もし取り戻せたなら素晴らしく都合のいいことだな、これ以上なく。さて、それでお前はどんな有意義なお喋りをしにきたんだ?」
すっと冷えた一瞥を受け、横にいた男は慌てて仕事に戻った。それを見送るシジマはケタケタと笑った。




