チェルトラの英雄 前
とてつもない衝撃に視界が大きく揺れ、自分が地に足を着けていないことに気付く。地面を何回か転がってからその勢いで立ち上がったカサネは、その間呼吸を止めていたことで吐き気に似た不快感と敗北感に襲われた。秘術がなければ確実に死んでいた。
目が追い付かない。耳が追い付けても身体が着いていかない。なんとか2回目の攻撃までは避けたが3回目で見事に吹っ飛ばされた。カサネがこの様だ、他の冒険者たちは近付くことさえできていない。ファウストだけが辛うじて躱し続けているものの、攻撃に転じることができない。アルヴィンが魔法で攻撃しようにも、高速で動き続ける氷大蛇には擦りもせず、炎は振り払われる。
「アルヴィン、周辺を炎で囲め! 温度を上げ――」
ぱぁん、と軽やかにファウストの身体が跳ね上がった。最速の2名が易々と転がされ、ルクフェルも武器を弾き飛ばされた。だが歯が立たなくても必死にしがみ付かねばならない。坑内に戻られるとどうしようもない。ファウストは死の実感を唾と共に飲み込んで再び氷大蛇に斬りかかった。
今の勢いで攻撃されて秘術がなければ、骨や内臓はどうなっていただろうか。地面に落ちた時水滴のように身体が弾けていただろうか。次あれをくらって死なない保証があるだろうか。もしその瞬間に秘術がとけていたならば。ファウストは考えたくもないことを考えそうになった。
雷神象よりはずっと小型だからと、皆氷大蛇と対面した時は精神的に余裕があった。しかしその脅威を身体に叩き付けられる度、死の感触と生存本能が恐怖心を刺激する。
「囲みます! 距離取ってください!」
アルヴィンが叫んですぐ、炎の壁が氷大蛇を閉じ込める。カサネはアルヴィンが声を発そうとした瞬間に察して距離を取ったが、ファウストは氷大蛇の注意を引いていたために壁の中だ。決定打を与える絶好の機会だが、ファウストはアルヴィンの戸惑う顔が容易に想像できた。
「そのまま閉じろ!」
アルヴィンの躊躇いか、一拍の間を置いて壁が動いた。迫る高温に悶える氷大蛇に追撃しようとしたファウストは、しかし自身の背中にも熱が迫っていることに気が付いて驚愕した。
「おいウィツィ――」
まるで融けた鉄を浴びせられたかのような灼熱。皮膚の下の肉まで一瞬で蒸発して身体が四散し、感覚がどこか遠くに飛んでいく。ファウストは自分の身体が骨を残して塵と化す中、氷大蛇の悲鳴を聴いていた。
「ファウストさん!」
自身を呼ぶ声が意識に切り込んできて、はっと顔を上げたファウストの眼前には黄ばんだ陶器のような牙。咄嗟に剣で受けようとしたが知らぬ間に取り落としていたらしく、大きく口を開けた氷大蛇が自身を呑み込もうとするのを呆然と待った。
「アルヴィン! いつも通りいくよ!」
「えっ、は? あっ」
ファウストの頭のすぐ上で小さな爆発が起きて、赤茶色の煙が舞う。それに鼻と目をくすぐられてようやく、ファウストは我に返って飛び退いた。
「はあっ、なん、はっ……うぇ、っぐ」
自分の身体が燃えていなかったことに気が付いて、ファウストはこれまでで最も強烈な死の感触に身体を狂わされるようだった。荒い呼吸の音が鼓膜を殴る。脳を掻き回されているかのような酷い目眩がして腹の中のものを全て吐き出したくなった。
「生きてる……のか、今ので」
ファウストは大きく息を吐き出し無理に呼吸を整え、歪んだままの視界の中に氷大蛇を捉えた。目に刺さった矢を中心として赤茶色の煙が舞い飛び、どういうわけかそれで酷く苦しんでいるように見える。ファウストは急いで武器を拾い上げ後退した。
「ファウストさん背中焦げてない? やばたん」
「大丈夫だ、ここで詰めるぞ」
「マジでやばたんー、えっ痛くないの?」
「うるさいな痛いに決まってるだろ! キレそうなくらい痛い!」
「えっなんかキレてない? どったの」
「だから……ああもううるさい! この……」
呼吸を落ち着けてから湧いてきたのは、自分自身に対する苛立ちだ。炎に呑まれて平気だと思っていたならそれは秘術に頼り過ぎた。決定打を与えられるのが魔法だけならばそれは自身の剣に対する怠慢。
秘術が正しく発動していなかったのか、アルヴィンの魔法が強力過ぎるためか。どちらにせよ、不可思議な力を当てにした結果ではある。もしやこの疼痛は他人に頼り切ったことへの戒めだろうかと、他の誰も考えない自責がファウストの頭の中を駆け巡った。会議の時部下に向かって口にした、ウィツィの秘術があるからと言って油断するような奴を云々のくだりも過った。人の上に立つようになってからは比較的穏やかではあったが、ファウストは元々気位が高い。
「この腑抜けが」
小さく呟いて舌打ちするファウストを少し離れた場所から見ていたルクフェルは、置いてけぼりをくらったような気分で大剣を下ろした。どうせ素早い魔物との相性は悪いし活躍の場もないだろうと、非常に投げやりだ。ファウストが何を言い出すかも読めていた。
「アルヴィン、もっかい!」
たぁん、と氷大蛇の鼻先に刺さった矢に括り付けられている香草の袋が爆発した。人間が咽せ返るほどのそれは、氷大蛇にとっては相当な刺激臭だ。
「蛇は目と耳は悪いけど、鼻は利くらしいよ!」
「はは、そうか……ありがとうエルヴィス。君はもう充分に働いてくれた」
「え?」
「こいつは僕が仕留める。そうしないと気が済まない」
しゅ、と軽やかな音と共に、ファウストの剣が氷大蛇の目を貫いた。更にもう片方の剣が顎関節に差し込まれ口の端が切り払われる。その瞬間的な速度は並の人間では到底到達できないほどだ。カサネもまさか人の速度で驚くとは思っていなかった。
「え、ファウストさんどったん?」
「まあ……火傷が思いの外痛くてキレたんだろうな」
「八つ当たりじゃん」
煙を振り払った氷大蛇がファウストを睨み付けた。実際は両眼を潰されているのでファウストの姿を認めているわけではないが、赤外線が彼の存在を氷大蛇に認識させる。離れた場所から飛んできた矢よりも、下顎と片眼を無用の長物にしてくれた眼前の男の方がずっと敵意を煽った。
「さあ来い。僕を、僕だけを見ろ」
ファウストの殺意が伝わったのか、氷大蛇は鼠を丸呑みするかのように口を大きく開けて彼に喰らい付こうと飛び掛かった。
地上は氷大蛇にとっては酷暑だ。坑道に逃げ込もうにもやはりアルヴィンの炎がそれを拒み、氷の息吹も掠れ出す。徐々に消耗しているのか氷大蛇の動きは最初より遅くなりはしたが、それでも並の冒険者では敵わない。しかしファウストは並ではない。
きゃりりりりり、と鉄鋼線を巻き上げたような噪音が鳴りわたる。氷大蛇の鱗がファウストの剣に削られ剥がされて雪のように舞い散った。
「慣れてくると追い付ける速度だな」
氷大蛇は人の言葉を理解していない。しかしながら目の前の相手から恐れが消え、代わりに軽侮が向けられていることだけは分かった。




