慈愛 後
しかし聴こえてきたのは、緊張感のない間延びした声だった。
「ブラムさーん? いるんでしょ、どうしたんですかー?」
今朝交わしたばかりの声に、ブラムはどっと疲れた気分で安堵の溜息を吐いた。そのまま立ち上がって玄関に向かう彼を見て、少女は不安気に部屋の隅に縮こまった。
「俺が世話を焼いていた子どものひとりだ。居留守をしたって意味ないさ、あいつにはいるってバレてる。大丈夫、賢くて優しいやつだよ」
「けど……すみません、一応隠れておきます」
「うーん……それじゃあこのクローゼットの中とか……」
「ブラムさーん、寝てるんですかー?」
「ああ今出るから!」
意味はないであろうことを知りつつも少女が隠れるのを待って、ブラムはのんびりとドアを開けた。そこには全てを見透かすような美しい瞳があることを想像していたが、眼前に飛び込んできたのは色とりどりの花束だった。
「エルヴィス、どうしたんだ、それ」
「僕も花を捧げたいと思って。いいですか?」
「アリアのことを言ったか……いや、お前はきっとそういうのが分かるんだな」
「うん。アリアさんの作ったマツカ豆のスープ、僕あれ好きだったから、最後にお礼を言いたいなって」
可愛がっていた子どもがわざわざ妻に花束を持ってきた。ブラムがそれを追い返せるはずもない。室内に他の人間がいることも口にしていないだけで気付いているに違いない、隠す意味もないだろうと、エルヴィスを家の中に招き入れた。
「エルヴィスは今どこで暮らしてるんだ」
「今はコルマトンです。聖火の鏡に所属してるんだ」
「そうか、お前は腕が良いもんな。アルヴィンもか」
「うん。アルヴィンは凄いですよ、すっかり主力だし」
もしも自身が追い出したことで2人が生活に苦労していたのであれば、ブラムはきっと立ち上がれないほど落ち込んだだろう。自分の知る頃よりずっと良い生活を送れていることもそうだが、アルヴィンとエルヴィスが変わらず家族として共に暮らしていることが、ブラムはなんだか嬉しかった。
「あ、夕方までに戻るって言って出てきたんだった。アルヴィン怒るかなあ」
「今から戻ったら深夜になるんじゃないか?」
「うーん、まあちょっとくらい許してくれますよね」
エルヴィスは花々でアリアを飾り、最後に手の甲に唇を落とした。外見が如何にも子どもだった頃は可愛らしく見えていた仕草も、立派な青年になってしまうと紳士的なくせに魅惑的だ。こりゃあ周りの女性が放っておかないだろうと、ブラムは感慨深いような気持ちになった。
「偶然に過ぎないんだろうが、お前が来てくれて良かったよ。俺だけっていうのも寂しいだろうしな。アリアはお前のことも可愛がってたからきっと喜んでる」
「みんな知らないから来てないだけで、知ったらきっと花を持ってやってきますよ」
「そうかな」
「そうですよ」
「そうか……そうだな、アリアはそういう人間だよな。俺の誇りだ」
子ども2人をキャラバンから追い出してまでアリア用の霊水を手に入れたがったブラムだが、アリアがそんなことを望まないのは分かっていた。そしてこの結果がこれだ。
「ブラムさんも」
「ん?」
「僕はきっとブラムさんもそうだと思いますよ。沢山の人に慕われてるから。僕にとっても恩人だし」
「やめてくれ。お前にそう呼ばれるのは却って……」
ブラムはつい目を伏せた。自分のことをあまりにも愚かで、それでいて滑稽な人間だとも考えた。
「今更だろうが、告白させてくれ。俺は金を貰ってお前たちを脱退させたんだ。霊水を買う金が欲しくて……」
「うん、そんなとこだろうなって思ってました」
「なのに結局このザマだ。いくら金を用意したって、肝心の物が無ければどうしようもないのにな」
「それでも僕たちの生活よりアリアさんの方が大事だからそうしたわけでしょ。それって当たり前のことじゃないですか」
「たしかに俺はアリアが大事だった。けどな、俺はそれでアリアが喜ばないことだって知ってたはずなんだよ。だからそうだな、つまりは、うん」
ブラムは適切な言葉を探して唸った。とっくに分かり切っている結論をわざわざ他の言葉に言い換えようとしたが、落ち込んで自罰的になっている彼にはどれもしっくり来なかった。
「俺が自分勝手に掻き回して、何にもならなかったってことだ。アリアだって、とっくに死ぬ覚悟はできていたのに、結局俺のわがままで長く苦しませただけだった。本当に、何にもならなかった」
僕くらいの歳にまでそんなこと言うってことは、随分滅入ってるなあ。エルヴィスは反応に困る様子もなく、悠々とブラムの淹れた紅茶を啜った。
「そうやって空回ったり後悔したり、それでも優しくあろうとするところ、僕は凄く好きですよ。人間らしくて。多分アリアさんもそう。ブラムさんのそれがわがままだとしても、それに付き合うの、嫌いじゃなかったと思います」
まったく予想しなかった返しに、ブラムはぐにゃぐにゃと唇を歪ませた。どんな顔をすればいいのかまるで分からなかった。まだまだ子どもだと思っていたエルヴィスがいつの間にかそんなことを言うようになったのだと思うと、実に不思議な気分だった。キャラバンの冒険者が、まだまだ若い息子が一丁前にまるで世界の全てを知った気になって物を言うんだと笑っていたのを思い出したが、どういうわけか目の前の青年はそんな若さ故の愚かさを持ち合わせているようには見えない。
「あ、ところでなんだけど」
「ん?」
「あ、ブラムさんじゃなくて。隠れてる君と話したくて。君を捕まえに来た人たちとは違うから出てきてくれないかな」
がたり、とクローゼットから物音がした。エルヴィスは恐る恐る顔を覗かせた少女に微笑みを投げて、彼女の黒い手を見遣った。そこでようやく驚いたように目を丸くするエルヴィスを見て、少女はやはり顔を見せるべきではなかったかと冷や汗をかいた。
「僕はエルヴィス。君の名前は?」
「その、私は……」
「訳があるんだろうな、どうやらあまり言いたくないみたいなんだ」
「ふうん、けど……誰かに似てる気がするんだよね。どこかで会ったような」
「あんまりじろじろ見てやるなよ」
少女はすん、と鼻を鳴らした。自身の存在を言い当てた青年からはどことなく心を惹く香りがする。人の匂いを嗅ぐだなんて、そんな趣味はなかったと思うのだけど……凄く落ち着く香りだわ、と緩やかに目を細めた。
「まあその、安心してくれ。こいつは君を彼らに受け渡すようなやつじゃない」
「うん。どちらかと言うと、君を救いたい側だよ」
「救う? それってどういう……」
少女は不思議そうに目を瞬かせた。少女自身何が何だか分かっていなかったが、人々にとって恐怖の対象であろうことは理解していた。今日はやけに変わった人たちに会うものだと、眠くもないのに夢見心地だ。根拠もなく、エルヴィスが自分を傷付けることはないと、すんなり信じられた。
「エルヴィス、お前この子の状態について何か知ってるのか?」
「知ってるというか、心当たりはあります。今すぐ解決はできないけど、身体が黒くなってくのを止める方法は知ってるので」
「あの……」
やはりこの身体の変化は良くないものなのか、もしこの黒がこれ以上広がればどうなるのか。少女はそう訊ねようとして口を噤んだ。自分が想像もしたくない答えが返ってきたらと思うと恐ろしかった。
「ところで、結局君の名前は教えてくれないの?」
「あっ、失礼しました、私、その……」
少女は視線を右往左往させた。彼女にとっては名前ひとつが重要な個人情報だ。とは言え自分を助けてくれる人にも名乗らないなんて、そっちの方が恥ずかしいものね……少女は唾を飲み込んで、緊張で声を震わせた。
「私、私は、ええと、リリアナと申します」
「へえ、リリアナさんかあ……え?」
エルヴィスはつい彼女の顔を見つめた。どこかで会った誰かに似ているような気はしていた。黒に侵食された片腕と片脚。妹の身を案じる気丈な女性の姿が彼の脳裏を過った。
「……ラシアラン?」
驚愕で目を丸くしたリリアナが、僅かに戸惑ってから小さく頷いた。
別に大した変更じゃないんですけど、アルヴィンとエルヴィスの武器安過ぎるような気がして、鍛冶屋の手帳で買い物する話をちょっといじって値段変えました。
ついでにリンガラムで借りてた家、栄えてない割には家賃高過ぎる気がして……霊水の値段、家賃1年分って書きましたが1年半分に変更しました。別に話の流れに影響はないんですが。




