慈愛 前
どうしよう。どうしようどうしよう、どうすれば、どうすれば逃げられる?
死神って何それ、そんなのいるわけないじゃない。けど黒い靄でできたような身体って、それって多分、私のことだ。なんで私の身体、こうなったの? なんで身体がこうなったからって武器を持った人に追われなきゃいけないの?
捕まったらどうなるの。死ぬ。そう、死ぬ。どうやって? どうやって死ぬの、どうやって殺されるの。どうやって。
「間違いないか」
「はい、顔は確認していませんが、腕が黒く霞んでいました」
少女は振り向かずにひたすら走った。特別足が速いわけでも体力があったわけでもない。ただ生への執着が足を動かした。何故ここまでして生きようとするのか、いっそ死んでしまった方が楽ではないのか。など、この状況に置かれればきっと誰の頭にも浮かぶであろう疲弊を、少女はただの一度も思いはしない。
不思議なことに、食事や睡眠にありつけなくとも動くことに支障はなかった。むしろ右手と右脚は生身よりも滑らかに動くようになった。そして黒い靄は少しずつ侵食するように広がっていき、手足は一層滑らかに動いた。
暗くなれば撤退する追っ手たちとは違い、少女は例え目の前が暗闇だろうが走る。木々に頭をぶつけて、濡れた地面の上で腐ってぬめついた草で足を滑らせようとも、彼女は足を止めはしなかった。そうしなければ死ぬと分かっていた。
そうやって逃げ続けて、どれほどの時間が経ったのか。実際は追われ始めて数日に過ぎなかったが、睡眠も取らずに走り続けた彼女には、とてつもなく長い時間だった。
「ここ、どこ……」
最後に場所を確認したのはバーウェア領へブリーズ。もしそれよりも北に向かっていたのなら、家族の待つ屋敷は遠のいたことになる。少女は諦めたいとは思わなかった。しかし不必要であったとしても、とにかく何か食べて眠ってしまいたかった。
かしゃっ。
「あ」
うんざりしているのに、手足は滑らかに動いた。道の向こうに武装した彼らを見付けた瞬間、少女は破けて泥水が染み付いたドレスを翻し、再び走り出した。
ああもう嫌だ、私が何したの、こんなことされなきゃいけない理由なんて――
「ひゃっ」
「おっと」
少女は最早しっかり前を向くこともやめていた、すぐに何かにぶつかって尻餅をついた。それが人であることに気が付いて、彼女の顔は青褪めた。
「大丈夫かい」
「あ、あの」
「えっ」
花束を持った男が自身の腕を凝視している。少女は慌てて立ち上がろうとしたが、そこで生身の左脚がとてつもなく重いことに気が付いた。自覚した途端、全身から力が抜けた。
「君……その手は」
ああ良かった、武装した人たちじゃない。どうしよう、人に見られた。逃げなきゃ。もう走りたくない。
彼に自分を見なかったことにして貰えないだろうかと、少女は泣き出したくなった。
「君は……もしかして今噂になってる死神なのかな?」
「私は……」
死神であるはずがない。少し前まではベッドで眠り、ドレスに着替え、勉強や裁縫をして過ごしていただけの、ひとりの子どもに過ぎないのだから。しかし噂として広まっている死神はきっと自分のことなのだ。そこまで考えて、少女は恐る恐る答えた。
「私には、死神と呼ばれて殺されそうになる理由などありません」
「それは、ええと、つまり……」
「ですから、どうか、私を見逃してください。お願いします」
走る気力はなくとも逃げなければならない。少女はよろめきながらも立ち上がり、右脚で全身を引き摺るように歩き出した。しかしすぐに後ろから強い力で引き止められて、彼女は顔を強張らせた。どうやって逃げればいいのかだけは、疲れた頭でも考えられた。
「そっちはいけない」
「え」
「あの武装した集団から逃げているんだろう。彼らが道なりに進んで行くとすれば、やがて鉢合わせることになる」
「え、あの」
「こっちに来なさい。そうだ、これを持ってくれるかな」
花束は少女の腕が隠れるほどの大きさだ。目の前の男を信用していいのかは分からなかったが、自分を追い掛けてくる者たちに捕まって殺されるより悪いことにはならないだろうと、着いて行くことにした。数時間前の少女であれば絶対にそうはしないだろう。何しろ彼女は酷く疲れていた。
「あの、あなたのお名前は?」
「ブラム・カーターだ。まあそうだな、元冒険者ってところさ」
「私を助けていただけるのですか」
「ああそうだ」
「何故ですか。あなたに何の得があって」
「そういう性分のやつなんだと思ってくれ。さて、話は後にしよう。まずは俺の家に無事に着かなくてはな」
ブラムは用心深く辺りを見渡して、少女に手で合図を出しながら先を歩いた。さすがに今日ばかりはそんな気分ではなかったはずが、少女を目の前にして結局これだ。たかがビスコッティを惜しむように齧るアリアの顔を思い出しながら、ブラムはやはり自分が薄情な気がしてならなかった。
ブラムの自宅の周りには住宅はない。畑を挟んで家がひとつあるくらいだ。アリアが静かな場所で暮らしたがったので、わざわざキャラバンから少し離れたここを選んだのだ。それが見事に幸いした。
「さあ急いで、今は周りに誰もいないが、見られたら厄介だろうから」
「えっ、ええ、お邪魔します……」
中に入って扉の鍵を閉める音で、少女はようやく大きく息を吐いた。ブラムは小さく笑いながら紅茶を淹れる準備をした。アリアと飲むために買い込んだ残りがまだ沢山ある。
「そこの椅子にでも掛けてくれ。今お茶を用意するよ」
「恐縮です。あの、この花はどうすれば」
「ああ、テーブルに置いてくれればいいよ」
ブラムの言う通りに腰掛けた少女は、所在なさげに部屋の中を見渡した。今の所ブラムに対して危険は感じないが、それでもやはり落ち着かない。
「さあ、どうぞ。素人が淹れたものだからお嬢様の口に合うかは分からないが」
「ありがとうございます。あの、お嬢様とは」
「いや、てっきりそうだと思ってな。そのドレス、今は酷い有様だが元は良いものだろう」
「あ、ええと、その、私は……」
「言いたくないなら言わなくていいさ。まあ好きなように寛いでくれ。俺は向こうの部屋にいるから」
「えっ」
図々しいことを言うつもりはなかったが、放置されるとどうすべきか分からない。少女は戸惑いを顔に浮かべて曖昧に頷いた。
「悪いな、今日はお客さんをもてなすような気分じゃなくてな。向こうで過ごしたいんだ」
「そうですか……あら、そちらに誰かいらっしゃるんですか?」
「ああ、俺の妻だ」
「でしたら、挨拶だけでもさせていただけませんか?」
「構わないけど返事はないよ」
「え?」
「もう死んでるんだ」
少女は驚いて部屋を覗き込んだが、すぐに自身の不躾な行動を恥じるように首を引っ込めた。物騒な事件があったのかと警戒したのは一瞬だ。部屋の中は優しげな雰囲気に包まれていて、不思議と立ち入りたくなるような気分にさえさせた。
「病気でね。霊水を飲んでいたんだがついに手に入らなくなって、長くは持たないとは思っていたんだが、今朝俺が目を覚ました時にはもう息をしていなかったんだ」
「そうだったんですか」
「花を捧げて今日を一緒に過ごして、棺に入れるのはそれからでも遅くないかと思ってな」
「そんな日に、死神かもしれない私を助けてくださったのですか」
面白くもないだろうに、ブラムは吹き出してわざとらしく笑った。そうしてからちょいちょいと手招きされて、少女は勧められたソファに腰掛けた。
「仮に君が本当に死神で、俺の命を奪うのだとしても、それはそれでいいのかもしれないと思ったんだ。少なくとも今日は」
「そうだったんですね……死神だから助けていただけたのかと思うと、少々複雑ではありますが」
「どうだろうな。俺たちには子どもができなかったからか、アリアは周りの子どもの世話をするのが好きでな。いつの間にか俺も、貧しい子どもには飯を食わせてやったり、読み書きを教えてやったりするようになってたな。まあつまり、子どもが困っている姿には弱いんだ」
少女はそこで部屋を満たす静穏の正体を知った。見返りを求めない献身、そしてアリアを見つめるブラムの眼差し。慈愛。それこそが相応しく思えた。厚くはない壁を隔てたすぐ外には命の危険があるというのに、それを忘れさせるような安らぎがあった。
「あの、私、名乗りもせずに大変失礼致しました。私は――」
かつっ。
突然ドアが叩かれて、少女はひゅっと声を引っ込めた。ブラムは緊張で顔を険しくして、唇に人差し指を当てた。
かつっ。かっかっかっ。
ドアの向こうの人物は、諦める様子もなくノックを繰り返す。もしや中にいることを知られているのでは。今の状況でしつこくノックをするとすればそれは誰か。嫌な予感に、2人の鼓動は速くなる。




