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唇に柔らかい何かが触れたような気がして、リリーは薄らと瞼を開けた。
が、強い光と微睡で、すぐに瞳を閉じる。
「…覚め…、早く……を呼ん……れ!」
誰だろう、近くで切羽詰まった声がする。
そう思ったが、リリーは疲れていて確かめることができなかった。
ーー何だか、重いわ。
そう思った矢先、服を次々と剥ぎ取られる感覚がした。
途端、身体が軽くなる。
べったりと身体にまとわりつくような錘から解放され、喜んだのも束の間。
リリーの身体は暖かな何かに包み込まれた。
ーー何かしら、優しい匂いがする。
その正体を確かめたかったけれど、どうしても瞼が開かなかった。
強い疲労感のせいだ。
そのことを残念に思っていると、浮遊感と共に揺れを感じた。
「……しが、連れ……、絶……死な……い!」
先ほどより強く、近くに香りを感じる。
もう大丈夫。そう思わせてくれる優しい匂いだ。
不思議と幸福感に満たされるような、そんな穏やかさに包まれる。
リリーはもう一度、瞳を開けようと試みた。
どうしても、この暖かさの理由が知りたかった。
が、やはり眠気には抗えない。
確かめることを諦め、リリーは再び深い眠りについた。
それから、どれくらいの時間が経ったのだろう。
リリーがようやく目覚めた時、辺りは夕暮れ色に染まっていた。
屋敷の自室に帰って来ていることを遅れて自覚したリリーは、何度か瞬きを繰り返した後、いつもの寝起きの癖で伸びをしようとして、思わず顔を顰めた。
肋骨の辺りが痛い。
そして、頬も何だかヒリヒリとして、熱を帯びているように感じた。
「リリー」
名を呼ばれ、傍を見やったリリーは、サイラスの不安気な瞳とかち合った。
「良かった、目が覚めて。医者を呼んでくるよ」
「……待って。話を……」
掠れ声で、サイラスを呼び止める。
サイラスは一瞬逡巡したようだが、そっとリリーの上半身を起こし、水差しからコップに水を注いで、その淵をリリーの口元へと近付けてくれた。
リリーは促されるまま、水を飲んだ。
口内がゆっくりと潤い、ようやく人心地ついた気分だった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「ねぇ、サイラス。レディー・エイミーは大丈夫なの?サムの怪我は?」
「エイミーは逃げる途中、足を捻挫したみたいだけれど、大したことはないそうだ。君が逃してくれたおかげだと感謝していたよ。サムも一時は危険な状態だったが、手術が終わって今は安静にしている」
「良かった」
「むしろ、一番危なかったのは君だ。心肺停止で死ぬところだったんだよ。君が目覚めるまで、生きた心地がしなかった」
「心配をかけてごめんなさい。もう、あんな無茶はしないわ」
振り返って考えてみても、非常に危険な言動を取ってしまった自覚がある。
咄嗟のことだったとはいえ、命が助かったのは紙一重の僥倖だ。
まるで何か超越した力によって守られたような、そんな奇跡が働いたとしか……。
そこまで考え、リリーはハッとしたように自身の両手を見つめ、そのままかき抱くようにシーツを引き寄せた。
「リリー?どうしたんだ?」
「……サイラス、聞いてくれる?わたしね、ようやくわかったことがあるの」
「何が?」とは、サイラスは尋ねなかった。
じっとリリーを見つめ、次のことばを待っている。
それに勇気付けられ、リリーは静かな声音で続けた。
「彼は……ジェイソンは、わたしを愛してくれていた。わたしたち、お互いに愛し合う夫婦だったのよ。あなたに言われた時は、そうだったらいいなと思いつつも、心のどこかでは信じられていなかった。でも、今なら信じられる。ジェイソンは、わたしのことをちゃんと愛してくれていた。わたしが想うように、ジェイソンもわたしを想ってくれていたんだわ」
ずっと独りよがりの愛だと思っていた。
リリーからの一方通行の想いだと。
夫婦というのは名ばかりで、勝手に自身の理想を押し付けていただけの滑稽な関係。
それを思うと、ただただ虚しく悲しかった。
でも、違った。
例え、あれがリリーの願望が見せた夢なのだとしても構わない。
愛し合っていたという自信が、リリーには必要だったのだ。
「わたしね、夢の中でジェイソンに会ったの。流産してしまったお腹の子とも。二人とも、わたしを愛してくれていた。ずっと見守ってくれていたのよ。不思議な話で、あなたは信じられないかもしれないけれど……」
「信じるよ」
サイラスは頷きざま、サイドテーブル上の詩集を手に取った。
パラパラとページをめくり、目次のところを開いた状態で、リリーに渡してくれた。
困惑するリリーに、サイラスはジェイソンが書き残した文字を指差しながら言った。
「何と書いてあるのか、君はわからないと言ったね。だけど、わたしは"Re:114"だと思うんだ」
「そ、そうなの?」
ずっとLillyだと思っていた。
あるいは、cillyかとも考えたが、そんな単語はないし、語尾がその綴りで終わるものもないので違うと判断していた。
だが、言われてみれば、iは:(コロン)、lは1、yは4に見えなくもない。
R全体とeの左上部が欠けていたので、eがcに見え、推測で頭にLが付くのではないかと、リリーは考えたわけだが、どうやら違っていたようだ。
「でも、どういう意味かしら?素直に考えれば"百十四について"ってことになるけれど」
「わたしも、そうだと思う。ほら、目次を見てごらん。百十四ページ目の詩は……」
「あ」
リリーは思わず口元を覆った。
"息子の声がする。陽だまりのようにあたたかい笑い声だ。リチャードと呼びかけられて、わたしは振り返る。妻の甘い声が、息子のそれと重なって、愛のハーモニーを奏でていた"
それは、何度も空で言えるくらい読んだ、リリーの大好きな詩。
日常の家族の愛を綴った、穏やかな詩だ。
「でも、どうして?どうして、ジェイソンはこの詩が載ったページ数を書き残したというの?」
「フレデリックが言っていただろう?君の妊娠を告げた時、ジェイソンは棚の方をぼんやり見つめていたと。きっとお腹の子の名前について考えていたんだと思う」
リリーはハッとした。
もし、子どもが産まれたら付けたいと思っていた名前。
女の子なら祖母の名を、男の子なら……。
「……リチャード」
「うん、彼はきっと君が言っていたことを、ちゃんと覚えていたんだと思う。だから、棚から詩集を取り出し、思わずメモを取ったんだ。ハンクが最後に聞いた"リック"というのは、リチャードの愛称だから、間違いないと思う」
そういえば、あの日ハンクはジェイソンが棚から本を手に取って眺めている姿を目撃している。
時系列的に考えれば、フレデリックと喧嘩別れした後くらいだろうか。
その際、ジェイソンが「リック」と呟いたのをハンクは耳にしている。
誰か友人の内の一人かと考えていたが、まさか、産まれてくる子どもの名前だったとは。
「臓物のスープを頼んだのも、そうだ。君の悪阻を心配したから、彼はハンクに用意させようとしたんだ。本当に君のことを想っていなければ、そんなことはしない。夫として、父として新しい生命の芽吹きを喜んでいたのだと、わたしは思う」
リリーは詩集を胸に抱いた。
ハラハラと大粒の涙がシーツにシミをつくったけれど、構わなかった。
ずっと、誰かに愛される権利も、誰かを愛する権利も自分にはないのだと思っていた。
失格の烙印を押されたと。
愛し愛される夫婦に憧れ、それが偽りだったと感じた時、リリーの刻はジェイソンの死と共に止まっていたのだ。
でも、それは勘違いだった。
ジェイソンはちゃんと愛を返してくれていた。
リリーが大好きなあの詩のように。
ーーわたしたちは、愛のある家族だったんだわ。
「わたし、馬鹿ね。答えはこんな近くにあったのに……ずっと見落としていた。ジェイソンの愛を疑ってしまった」
昔なら、そのことで更に自身を責めただろう。
でも、もう嘆き悲しんだりしない。
ジェイソンの愛を感じられた今なら。
彼が望んでくれたように。
いつまでも幸せでいたいから。
「以前、あなたは今すぐでなくていいと言ってくれたわね。踏ん切りがつくまで待ってくれようとした。でも、もう大丈夫。わたし、これでようやく先に進めるわ。サイラス、ありがとう。本当に、どうもありがとう」
サイラスは何も言わず、でも、リリーの腕をそっと撫でてくれた。
泣いているのはリリーなのに、サイラスの方がよほど感極まっている感じだ。
不器用な人だと思った。
お互いに、不器用なのだと。
でも、それでいい。
そう思えるようになった。
撫でる手のサイラスのそのぎこちなさと相まって、リリーの目からは更に涙が溢れた。




