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リリーが屋敷を出て行った後、サイラスはゆっくりと身体を起こした。
大きなため息と共に、ベッドを抜け出し、部屋から出る。
身支度はしない。
既に、整えていたからだ。
執事のエルバートにはただ「行ってくる」とだけ伝え、用意してあった馬車に乗って屋敷を後にした。
行き先は決まっていた。
リリーと同じ、今日一般開放予定の公園へと急ぐ。
現地で、警察と落ち合う手筈だった。
ーー今日、あいつは来るだろうか。
いや、十中八九来るだろうと、サイラスは思った。
相手の出方次第では、警察に取り押さえてもらう必要がある。
その為に、今日まで準備を整えてきたのだから。
サイラスはぼんやりと窓の外を眺めた。
確実に、今日、一つの山場を迎えようとしている。
にも関わらず、サイラスの表情は頼りなかった。
その理由は、ただ一つ。
リリーだ。
ーー彼女がまさか、あの“ヴェロニカ"だったなんて。
初恋の少女の正体がリリーだと気付いた時、サイラスは震撼した。
今までのリリーに対する仕打ちの数々。
それらが、少女との思い出を侵食していく。
初恋の少女への想いそのものを汚していたのは、サイラス自身だったのだ。
到底、甘受できない。
深い、業よりも深い過ちだった。
ーー今、思えば、名を尋ねた時、リリーは手に持っていた花の名前を教えてくれたのだろうな。
それが、そもそもの勘違いの始まりだった。
魔法の杖代わりに持っていた紫の細長い形の花の名がヴェロニカだということを、大人になったサイラスは、もちろん知っていた。
が、幼い頃に少女の名前が"ヴェロニカ"だということを強く確信していただけに、そのちょっとした勘違いに気付けなかった。
周囲も、まさかお互いに名乗っていなかったとは思わなかったのだろう。
母親のマリーや、リリーの両親の言動から、彼らがサイラスとリリーの関係を知っていた可能性は高い。
にも関わらず、当人たちに特に伝えてくれなかったのは、既にわかっているだろうと考えたからだ。
ーーそうだ、彼らは悪くない。悪いのは全て……。
自分自身なのだと、サイラスは強く悔悟した。
もはや、リリーに対して償うというのは筋が通らない気がしてならない。
おこがましいとさえ感じる。
では、どうするのがリリーにとって幸せへの道筋になるのか。
答えなど、最初から決まっている。
それでも、なかなか踏ん切りがつかないのは、やはりダレンの存在故か。
それとも、自身の見苦しい感情の残骸のせいか。
サイラスは振動する馬車の中で思った。
一番、揺らいでいるのは己が心だと。




