83
どこか浮かない表情のサイラスを、リリーはじっと見つめていた。
最近、サイラスはずっとこんな様子だった。
思い切ってその理由を尋ねようと思ったのは、彼の深いため息が何度漏れた時だったか。
リリーはそっとサイラスの肩に触れた。
「サイラス、どうかしたの?悪い知らせ?」
彼が握る手紙にチラリと視線をやる。
サイラスの憂鬱さの原因はそれだと思ったのだ。
「お義母様からよね?何かあったのでなければ良いのだけれど」
「え、ああ。それが……最近、母上の調子が悪いらしい。本人は大したことはないと言っているが……もしかすると、流行り病かもしれない」
リリーはハッとした。
この冬くらいから、風邪症状に似た感染症が流行している。
重症化すると肺の病気で亡くなる人も出てきているとか。
ダレンが兄を亡くしたのも、その流行り病のせいだったことを思い出したリリーは、急に怖くなった。
「お医者様は何と言っているの?」
「今のところ、ただの風邪だろうって。症状も発熱に頭痛、咳くらいで大したことはないからと」
「でも、最初はただの風邪でも、長引くと取り返しのつかなくなることだってあるわ」
別に医者のことを信じていない訳ではない。
普通の風邪なら、それはそれでいいのだ。
ただ、もしものことがあったらと思うと、心配で仕様がない。
サイラスも同じように考え、表情を曇らせていたのだろう。
「ねえ、サイラス。何だか心配だわ。お義母様に会いに行きましょう?」
「でも、母上は来なくていいと。わたし達にうつして迷惑をかけたくないんだろう」
「お手紙にはそう書いてあっても、会いに行くくらいいいじゃない。遠慮する必要なんてないわ」
そうだ、マリーは言ってくれたじゃないか。
領地で待っているから、二人で会いに来て欲しいと。
つまり、家族として受け入れてくれたということだ。
あのことばに嘘偽りはないはずだ。
だからこそ。
「会いに行きましょう、サイラス。わたし達、家族なんだもの」
リリーはサイラスの瞳を見つめた。
こんなに間近で、彼の表情を伺ったのは初めてかもしれないと思いながら。
「サイラス」
もう一度、呼びかけると、サイラスはふと表情を緩めた。
優しい、本当に優しい笑みだった。
「ああ、そうだね。会いに行こう」
そう言った時のサイラスは笑顔だったが、瞳の奥にどこかまだ憂鬱さを感じる。
もしかすると、マリーのこと以外にも悩んでいることがあるのだろうか。
「ねえ、サイラス。何か……」
他に悩み事があるの?
そう尋ねかけてやめたのは、サイラスがサッと立ち上がったからだ。
「じゃあ、早速、準備に取り掛かろう。病は待ってはくれない」
手を差し出され、リリーは反射的に自身のそれを重ねた。
ジッと、サイラスの手を見つめる。
力強い手ながら、どこか迷いを感じ取ってしまったのはなぜだろうと思いながら。
サイラスと結婚して、五年。
いや、もう六年になるのか。
そう思うと、時の流れの早さを痛感する。
ーーでも、サイラスの実家に来たのは初めてだわ。
ウォーターフォードの領地は首都から近いという利便性に加え、肥沃な土地柄ゆえか、昔から栄えているというのはよく知られていた。
だから、もっと都会的なイメージを抱いていたリリーは、サイラスの実家に広がる自然豊かな緑色を目の前にして、いい意味で期待を裏切られたのだった。
「綺麗だわ」
どこか圧倒されたように、リリーは呟いた。
ただシンプルに思ったことが口に出たのだ。
遠目からでもわかる手入れの行き届いた屋敷、美しい木々や花々が広がる広大な庭。
自然の緑と太陽の光が、キラキラと輝いて見えた。
屋敷の無機質な石壁でさえ、それらと調和し、
まるで絵画のように幻想的だ。
マクファーレン家が名門貴族と言われる所以を肌で感じ取ったリリーは、ただただ感嘆のため息を漏らした。
ーーもっと早く来れば良かったわ。
そうすれば、マリーの体調不良にもいち早く気付けたかもしれないのに。
リリーは今更ながらに後悔して、隣のサイラスを見やった。
サイラスはやはり不安な気持ちを隠しきれていなかった。
当然だ。
屋敷に到着したリリー達を、マリーは拒絶することこそなかったものの、なぜ来なくていいと言ったのかわかってしまった。
痩せ細った姿を見られたくなかったのだ。
あのマナーにうるさい彼女がベッドから出て来ない。
いや、出られないのだ。
それほど弱っている。
苦しそうに咳を繰り返すマリーを見るのは、何とも胸が締め付けられた。
「心配しなくていいですよ。お薬を変えて貰ってから、少し楽になりましたからね」
ベッドの上で微苦笑を浮かべるマリーは、使用人達に言わせると、少しずつ快方に向かっているらしい。
が、リリーもサイラスも以前のマリーを知っているだけに、どうしても心配になってしまうのだった。
「サイラス、そんな顔はやめてちょうだい。本当に大丈夫だから。それよりも、せっかくリリーが来てくれたのです。敷地を案内してあげたらどうですか?」
「そう、ですね」
あまりマリーに無理をさせたくないと思ったのだろう。
サイラスはすんなり頷き、リリーと共にマリーの寝室を後にした。
後ろ髪を引かれるのか、何度か振り返るサイラスだったが、元々リリーに実家を案内したい気持ちもあったようで、サイラスは一つ一つ丁寧に説明して回ってくれた。
まず屋敷内、次に庭先と案内が続く中、リリーは終始、胸が高鳴った。
想像した通り、いや、それ以上に何もかもが美しかったのだ。
ここで、サイラスやマリー達が多くの時を過ごしたのだと思うと、感慨深い気持ちにもなる。
「ここが最後だ」
そう言って、サイラスは厩舎の前で立ち止まった。
馬のいななきや蹄の音に、静かに耳を傾けている。
もしかすると、ここはサイラスにとって思い出の場所なのかもしれないと、リリーは思った。
その証拠に、サイラスの表情はとかく柔らかかった。
「子どもの頃、嫌なことがあると、いつもここに来ていたんだ。わたしは泣き虫だったから、馬たちは迷惑に思っていただろうな」
意外だった。
今のサイラスからは想像もできない。
が、幼い彼がうずくまって泣きじゃくる姿を想像すると、何だか妙に胸が締め付けられた。
なぜ、そう思うのか。
そう考えたリリーは、ふと思い出したように言った。
「そういえば、わたしね」
「うん?」
「昔、馬小屋で泣いている男の子と出会ったことがあるのよ」
「え」
驚くサイラスを尻目に、リリーは微笑んだ。
リリーにとって、その男の子は牧歌的な少女時代の大切な思い出の一つだった。
「当時のわたしは大好きなお祖母様が亡くなって、とっても悲しかったから泣いている男の子をどうしても放っておけなかったのね。わたし、絵本に出てくる魔法のおまじないをしてあげたの。女の子に人気の物語だから、その男の子は読んだことがなかったと思う。だから、わたしに頭から花を降らせられて、さぞ面食らったでしょうね」
リリーは笑みをこぼした。
戸惑いながらもされるがままになっていた男の子の姿を思い出したからだ。
優しい子なのだろう。
リリーの無礼に対して、決して怒ることはなかった。
「驚き過ぎて泣くのを忘れちゃったのかもしれないけれど、泣き止んでくれて本当に嬉しかったわ。その男の子も、あなたと同じように悲しいことがあったんでしょうね。もっと仲良くなって話を聞いてあげれば良かったわ。森で遊んでいる時にわたしが怪我をしてしまって以来、彼とは会っていないの。助けてくれたのに直接お礼も言えなくて、本当に残念……って、サイラス?どうかしたの?」
急に黙り込んでしまったサイラスに、リリーは首を傾げた。
信じられないものを見た。
サイラスの表情はまさにそんな感じだった。
心配になって手を伸ばすと、サイラスは避けるように一歩後ずさった。
「ご、ごめん。でも……いや、違う。そうじゃなくて……」
口元を抑え、視線を彷徨わせるサイラスは、明らかに狼狽していた。
こちらまで戸惑ってしまう程のサイラスの困惑した表情。
こんな彼を見るのは初めてだった。
「サイラス、顔色が悪いわ。もう屋敷に入って休みましょう?」
「あ、ああ……」
言われるままにサイラスが頷いたので、リリーは導くように彼の少し先を歩いた。
何度も振り返り、サイラスの様子を伺う。
フラフラしながらも大人しくついて来るサイラスは、リリーの目にはどこか不安定で、寄る辺ない幼児のそれに見えた。




