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帰ってきた夫  作者: 西子
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「奥様」


心ここにあらずといった風に、ぼんやりと窓の外を眺めていたリリーは、呼ばれて、ゆっくりと振り向いた。


「……アン」


メイド頭の不安気な表情とかち合い、思わず後悔する。

もしかすると、アンは何度も呼びかけてくれていたのかもしれなかった。


「ごめんなさいね。考え事をしていて気づかなかったわ。何かしら」

「奥様にお手紙が届いております」


それ以上は何も言わず、アンはそっと封筒を差し出した。

自然と差出人に視線が向き、リリーはハッとしたように目を見開いた。

急いで封筒を受け取り、封を切る。

差出人は、ダレンだった。

暫しの間、無言の時間が続く。

その後、読み終えたリリーは、思わずといった風に息を吐き出して言った。


「子爵がレイチェルを雇ってくれるそうよ」


リリーの声音は、安堵の色が強かった。

それはアンも同様で、彼女の表情は心なしか明るいように見える。


「良かったですね、奥様」

「ええ、心からホッとしたわ。レイチェルに次の仕事先が見つからなかったら、どうしようかと思っていたのよ」

「奥様自ら、完璧な紹介状を書いてくださったんです。心配なさる必要はありませんでしたのに」

「そういう訳にはいかないわ。わたしにも責任があるのだから……」


レイチェルに解雇を言い渡してからというもの、リリーは後悔の念に苛まれていた。

もちろん解雇したことを、ではない。

女主人として、レイチェルの暴走を止められなかったことに対してだ。


そもそも、リリーがレイチェルを解雇することになったのは、先日のへべれけに酔った男性貴族とのやり取りが原因だった。

レイチェルは、よほどあの一件に腹が立っていたのか、よりにもよって教会近くの道端で、使用人仲間相手に声を大にして、男性貴族を非難したのである。

それは決して許されないことだった。

身分社会というものが歴然と存在するこの国において、タブーと言ってもいい行動である。

男性貴族からは、当然抗議があった。

使用人が貴族を公然と非難するとは何事か、と。

サイラスが上手く宥めてくれたおかげで、それ以上大事にはならなかったものの、男性貴族からはレイチェルを辞めさせるように言われた。

そして、リリーもそうするべきだと思った。


「レイチェルはよく仕えてくれたわ。本当に嬉しかった。身に余るほど、慕ってくれて。でも……それがきっといけなかったんだわ」


レイチェルはリリーを誰よりも一番に想ってくれたが、敬愛するあまり、暴走する傾向にあったことも事実だ。

慕われるのが嬉しくて、厳しく注意できなかったリリーは、女主人として失格だった。


「わたくしも教育が足りませんでした。あの子の暴走を戒めるのが、わたくしの役目でしたのに。使用人の評価は、主人である奥様の評価にも直結するということを、もっと言い聞かせるべきでした」


アンはそう言ってくれたが、結局のところ、リリーの甘さが原因であることは否めない。

その点では、アンにもレイチェルにも申し訳ないことをしたと深く反省している。


「わたしね、レイチェルのあの時の顔が忘れられないのよ」


解雇を言い渡した時、レイチェルはひどく打ちのめされた表情をしていた。

捨てられた子犬のようにリリーを見つめる、その瞳のなんと頼りなさげなことか。

胸が締め付けられる思いとは、まさにこのことだった。


「でも、奥様は正しいことをなさいました。後悔するべきではありません。そもそも奥様がやらなければ、わたくしが辞めさせていました」

「……わかっているわ」


でも、あえてリリーは自ら解雇を言い渡した。

そうするべきだと思ったし、それはリリーの義務でもあった。

レイチェルのためにも、これ以上、リリーの元で彼女は仕えるべきではなかったのだ。


「後悔していい立場でないことはわかっているわ。それほど厚顔ではないつもりよ。ただ……主人と使用人という関係を、相応しい距離で築いていけなかったことが残念なのよ」


好かれているからこそ嫌われるのが怖くなってしまった。

その弱さのせいで、リリーは大切な使用人を一人失ったのだ。

レイチェルには心底怨まれるかもしれない。


「あの子なら、きっとわかってくれます。奥様がどんなお気持ちで解雇なさったのか。あの子はいずれ気付くでしょう」

「……ええ、そうね」


そうなってくれたら嬉しいと思う。

きっと、あのままレイチェルを雇い続けていれば、彼女はリリーのために無茶をし続けていただろう。

立場など関係なく、貴族だろうが何だろうが歯向かっていくレイチェルの姿は、リリーにも容易に想像できた。

それが、どれほど無鉄砲なことか。

レイチェルには理解できていない。

いや、リリーへの忠誠心がそうさせるのだ。

だとすれば、冷静な判断を曇らせるリリーの存在は、もはやレイチェルにとって危険なものでしかなかった。


「本当に残念だけれど……これで良かったのよ」

「奥様……」


珍しくアンは、リリーに同情するような視線を向けた。

アンにとっても、レイチェルの存在がいかに大切なものだったのか、よくわかる。

アンにも悲しい思いをさせてしまったのだと理解して、リリーは更に情けなくなった。

リリーがもっとしっかりしていれば、レイチェルは今もなお傍で笑ってくれていたのかもしれないのに。


「そう落ち込まないでください。案外、あの子にとってはステップアップのチャンスになるかもしれませんよ?なんたって子爵のお屋敷で働けるんですから」

「……そうね」


ダレンの屋敷は、使用人にとってかなり働きやすい職場だと思う。

家庭教師としてではあるが、リリーも雇われていたので、その辺りのことはよくわかっていた。

給料等の待遇も良く、使用人教育もしっかりしているダレンの屋敷で働くことは、きっとレイチェルにとってもマイナスには作用しないだろう。


「勝手かもしれないけれど、いつの日かレイチェルとは笑って再会できたらいいなと思うわ。そして、わたしに後悔させて欲しい。手放したことをわたしが惜しむくらい、彼女には立派な使用人になって欲しいわ」


自分本意かもしれないが、リリーの元を離れてレイチェルが結果的に良かったと思ってくれたなら、これ以上の幸せはない。

次に再会した時、彼女は立派な使用人に成長しているだろうか。

幸せに笑っているだろうか。

リリーはただそのことだけを想って、瞼を閉じた。

思い出されるのは、いつだってレイチェルの楽しそうな笑い声だけだった。









ーーこういうことって、続くものなのかしら。


リリーは、どこか寂し気にそう考えていた。

レイチェルが辞めてから数日後。

弟のピーターに会いに、タウンハウスを訪ねたリリーは、管理人のハンクに呼び止められた。

そして、予想もしていなかったことばを聞かされたのだ。


ーーまさか、ハンクが辞めるだなんて。


ジェイソンと結婚してから、ハンクはずっと仕えてくれていた。

夫亡き後も、支えてくれた大切な使用人こそ彼である。

リリーは努めて、普段と変わらぬ調子で尋ねた。


「辞めて、どうするつもりなの?」

「もう一度、執事の職を探そうと考えております」

「当てはあるのかしら」

「はい。ピーター様にも、もう話してあります」

「……そう」


ピーターのことだから、紹介状は用意してあるだろうし、ハンクに次の職の当てがあるのならば、もうリリーに出来ることはほとんどなかった。


ーー確かに、前から勿体ないとは思っていたのよね。


元々、ハンクはジェイソンの屋敷で執事として働いていた有能な人だ。

ジェイソンが亡くなってからは、自分の主人と認めた人にしか仕えたくないと言って、スッパリ辞めてしまったが、その能力を無駄にさせるには惜しい人物だということは重々承知していた。

今まで管理人として働いてくれていたこと自体が不思議だったのだ。

ハンクが辞めたいというのは道理だと、リリーは思った。


「あなたなら、どこのお屋敷でも働けるわ。あなたの有能さは、わたし自身がよくわかっているもの。ずっと応援しているわ。わたしに出来ることがあったら、何でも言ってね。微力ながら、協力させて貰うから」

「もったいないお言葉、ありがとうございます」

「当然だわ。あなたはジェイソンと結婚してから、ずっと仕えてくれていた。あなたのその忠義に報いることが出来なくて、本当に申し訳なく思っているの」

「とんでもございません。奥様はわたくしにとって仕えるにたる立派な主人でした。それは今もこれからも変わりません」

「そんな風に言ってくれて嬉しいわ。今まであなたにはお世話になりっ放しだった。本当に、本当にありがとう。そして、ご苦労様でした」


そっと手を握ると、ハンクは微笑んだ。

ジェイソン亡き後支えてくれた、変わらぬその笑みを見つめながら、リリーは彼の前途を願うのだった。

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