76
外気に触れた息が、白い糸のようになって吐き出される。
冬季の寒冷がますます厳しくなる二月。
リリーは寒空の下、美しい公園の風景を眺めていた。
見渡す限りの銀世界に、思わず見入ってしまう。
「寒くありませんか?」
ふと問われ、リリーは傍の人を仰ぎ見た。
サイラス……ではなく、ダレンだ。
暖かい外套に身を包みながらも、どこか小刻みに揺れるリリーを、彼は心配してくれているのだろう。
覗き込むようにこちらを見つめるダレンに、リリーは微笑んだ。
「ご心配くださってありがとうございます。確かに寒いですけれど、大丈夫です。それさえ忘れてしまうほど、美しい公園なんですもの。思わず、ことばを失ってしまいました。さすが、公爵家ご自慢の狩猟園だった場所ですね」
ここは元々ブラッドリー公爵家の私園だった土地だ。
それを開発して公園にし、一般に開放することになったのが、今日の開園式。
ダレン直々に招待されたリリーは、喜んでこの新しい公園に足を運んでいた。
「この都市で、これほど広大な自然と触れ合える機会はそうありません。招待いただいて、とても光栄です」
「ありがとうございます。そう言っていただけるだけで、兄も喜びますよ。土地開発は元々、兄の発案でした。自分がほとんど外に出られないので、少しでも多くの人が足を運べるような憩いの場を作りたいと言うのが兄の口癖で」
「素晴らしいお考えだと思います。わたしたちはそのおかげで、こんなに素晴らしい景色を楽しむことができるんですもの。伯爵には感謝してもし足りませんわ」
ダレンには、二歳歳上の兄がいる。
伯爵位を持つその彼が、幼少時から病弱だということは周知の事実だった。
リリーも数える程しか会ったことはないけれど、大変聡明で穏やかな人物だったと記憶している。
ダレンと同じ榛色の瞳が柔らかく細められる。
そんな伯爵の微笑を思い出しながら、リリーは尋ねた。
「最近お会いしていませんが、伯爵はお元気ですか?」
「はい……と言いたいところですが、新年明けくらいからずっと調子が悪いんです。最近は寒さのせいもあって、ほとんどベッドから起き上がれません。本人は大丈夫だと言っていますが……」
ダレンの表情が曇る。
その様で、彼が兄を非常に慕っていることが伝わってきた。
実際、二人は仲の良い兄弟として有名だった。
「今年の冬は特に寒いですし、お体のことを考えると心配ですね」
「ええ。仕方がないこととはいえ、早く春になってほしいものです」
微苦笑を浮かべるダレンを見ていると、何だか胸にこみ上げてくるものがあった。
ダレンは最愛の奥さんを亡くしている。
大切な人たちが居なくなる、その恐怖と悲哀を、リリーはよく知っていた。
「……あの」
思い切ってというより、リリーの口は自然と動いていたように思う。
これ以上、ダレンの悲しげな笑みを見ていたくない。
その一心だった。
「わたしのタウンハウスの庭を覚えていますか?」
「もちろんです。美しいユリの花を見せていただきましたね」
「ええ。でも、庭にはユリ以外にも沢山の花が咲きます。今の時期は、特にスノードロップが綺麗で。もう少ししたら咲くと思うんです。だから、伯爵にも見ていただきたくて。お見舞いがてらお持ちしたら、伯爵は貰ってくださるでしょうか?」
伯爵は花を愛でるのが好きだったと記憶している。
春を告げる花として知られるスノードロップが、少しでも彼の気晴らしになればと、リリーは思ったのだ。
「兄に、スノードロップを?」
「はい」
そこでようやく、リリーは出過ぎたことをしてしまったかなと思った。
思わず提案してしまったが、そもそもスノードロップは地味な花だと言う人もいる。
一般的に、貴族の中には華やかな花を好む人が多いので、貰った時に伯爵がどう思うか。
そこまで考えていなかったリリーは伺うように、ダレンを見上げたのだが……。
「ありがとうございます」
不安気なリリーとは対照的に、ダレンは微笑んでいた。
それは社交辞令というより、リリーの真意を的確にわかった上での謝辞だった。
もう一度「ありがとうございます」と続け、ダレンは柔らかく目を細めた。
「兄の体調が落ち着いたら、ぜひ会いに来てください。兄は花が好きだから、きっと喜びます」
「はい」
ダレンが本当に嬉しそうなので、リリーの表情も自然と柔らかいものになる。
ダレンが歳上の頼れる人物だからだろうか。
彼といると、リリーはいつも穏やかな気持ちになるのだった。
ふわふわと揺れて、暖かい。
今の気候とは対照的に、長閑な雰囲気に包まれるのは、間違いなくダレンの人柄がそうさせるのだと思いながら、リリーは隣に立つダレンを仰ぎ見た。
どうしても直接、言いたいことがあった。
今日会ったら、絶対に言おうと思っていたことが。
「子爵、改めて申し上げます。本当にありがとうございました」
「何のことですか?」
「レイチェルのことです。子爵の屋敷で働けるなんて、彼女にとっても大変名誉なことだと思います。無理に雇っていただいたのではないと良いのですが」
「まさか。ちょうどメイドの一人が辞めたので、新しく雇おうと思っていたんです」
「そう言っていただけるとありがたいです。レイチェルは頑張り屋なので、一生懸命働いてくれると思います。だから、彼女のことどうかよろしくお願いします」
リリーが祈るような気持ちで言うと、ダレンは目尻を下げた。
「大切な使用人だったんですね。わかりました。彼女が早く馴染めるように、家令や家政婦とも相談します。だから、どうか安心してください」
「本当に、本当にありがとうございます」
感謝の気持ちを表すことばが、もっとあればいいのにと、リリーは思った。
ダレンにはいつもお世話になりっ放しだった。
いつか必ず恩返しをしよう。
ダレンの穏やかな表情を見つめながら、リリーはそう誓うのだった。
その後は、ダレンの案内で園内を軽く一周した。
美しく、整然とした木々に囲まれていると、何だか清々しい気持ちになってくるから不思議だ。
「あそこに池があるのが見えますか?」
不意に尋ねられ、リリーはコクリと頷いた。
公園の中央には大きな池があった。
この寒さで、水面は凍ってしまっているが、それもまた幻想的に見える。
「今度、あの池でフィギュアスケートをすることになったんですよ。沢山人を招待するつもりです」
「それは皆さん喜ばれるでしょうね。今、流行っていますもの。そういえば、奥にもう一つ池がありましたが、あそこもリンクとしてお使いになるのですか?」
「いえ、あれは奥まった場所にあって見晴らしが悪いですし、あまり分厚い氷が張らないので使いません。危険ですから」
「まあ、そうなんですね。中央の池とそう変わらない大きさでしたが、見た目だけではわからないものですね。でも、中央の池だけでも十分な大きさですから、スケートをする分には楽しめますわね」
「よかったら、一緒に参加しませんか」
リリーはややことばに詰まった。
貴族の中で、フィギュアスケートは大人気のスポーツだった。
が、リリーはあまり体を動かすのが得意ではない。
みっともなく転んでしまう自信があった。
だからこそ、慎重にことばを選ばなければならなかった。
「えーと、お誘いはありがたいのですが……」
「いいんじゃないかな」
遮るような横合からの声に、リリーはハッとして顔を向けた。
「サイラス、どうして……」
「すまない、話が聞こえてしまってね。フィギュアスケートなら、見ているだけでも楽しいと思ったんだよ。それに」
サイラスはそこまで言って、ダレンに確認するような視線を向けた。
「娘さんも参加されるのではありませんか?」
「ええ、よくわかりましたね。実は、ジニーはスケートが得意なんですよ。今から張り切っていて」
それは知らなかったわと、リリーは思った。
ジニーはあまり体を動かすことが好きではないと思っていたが、スケートは違うらしい。
ジニーが滑っている姿を想像して、リリーはぜひ行ってみたいと思った。
その時点ですでに、気持ちは傾いていた。
そもそも、サイラスがこう言っているのだ。
彼はスケートがしたいのかもしれない。
であれば、リリーの答えは一つだ。
「では、わたしも参加させていただきます」
「良かった。ジニーも喜びます」
スケートは苦手だが、ジニーと会えるのは純粋に嬉しかった。
当日は十分暖かい格好で行こうと頭の中でメモを取っていると。
「ん?」
チラリと離れた場所に目をやったダレンは、おや?という風に眉を上げた。
つられてリリーも見やると、何人かの貴族が集まっている。
ダレンの知人たちだろうか。
「どうやら呼ばれているみたいですね。もう少し話していたかったのですが……この辺で失礼しても?」
「ええ、構いませんよ」
「ご機嫌よう」
立ち去るダレンを、二人で見送る。
すると、サイラスが呟いた。
「貴族院の連中みたいだな」
「もしかして、戦争のお話をするのかしら。開戦が近いと聞いたけれど」
海を挟んだ他国同士で、戦争になるかもしれないという噂は、最近とみに耳に入る。
近隣諸国ということもあり、場合によってはリリーたちの国も参戦する可能性があるからだ。
もちろん可能性の話であって、まだ確定したわけではない。
が、リリーは密かに心配していた。
開戦すれば、間違いなくサイラスをはじめとした貴族たちは軍務に就くことになる。
「外交手段は尽きていないから、今はまだ大丈夫だと思うよ。よほどのことがない限り、ね。子爵たちは多分、別の話をするんじゃないかな。あの顔ぶれから察するに、法律の付帯条項についてだろう」
「それ、子爵から聞いたことがあるわ。確か、難病患者に対する医療対策の法律を作ったって」
「ああ、実はその法律に一部の貴族からケチがついて、付帯条項を設けることになったんだよ。子爵もお忙しいだろうな。立場的にまとめ役だから。それにしても……」
「何?」
「いや、子爵は良い父親だなと思って」
唐突だなと思った。
しかし、サイラスがあまりにしみじみ言うので、リリーも思わず頷いた。
ダレンはどんなに忙しくても、決してジニーをなおざりにはしない。
誰よりも娘のことを大切に思っているのだ。
「……良き父親は良き夫たり得る。リリーはそう思わないか?」
飛躍した質問に首を傾げながらも、リリーは首肯した。
サイラスがどういう意図で言ったのかはわからなかったが、一般論として十分あり得る話だと思ったのだ。
「そうね、家族を大切にできるという点ではその通りだと思うけれど……サイラス?」
ダレンの後ろ姿をじっと見つめているサイラスに、問いかける。
彼は何だか苦しそうだった。
そっと腕に触れると、サイラスはゆっくりとリリーに向き直った。
その表情は酷く悲し気で、何かに耐えるような苦痛さをリリーに感じさせた。
が、リリーが何か言う前にサイラスは「行こう」と促す。
見れば、ダレンの挨拶が始まるところだった。
「でも……」
「いいから。さあ」
再度促され、リリーは付き従った。
サイラスの後ろ姿はどこか寂し気だった。
サイラスはリリーとダレンが話しているのを眺めていた。
リリーはどうやらスケートに誘われているらしい。
が、リリーの反応はイマイチだった。
おそらく、あまりスケートは得意でないのだろう。
渋っているのはその為だ。
サイラスはそっと近付き、助け舟を出した。
見ているだけでも楽しいし、ジニーも参加するのではないかと言って。
ジニーの参加は、何となく予想がついていた。
で、なければダレンは行かないだろうし、リリーを誘いもしないだろうから。
案の定、ジニーに会えるとわかり、リリーは誘いにのった。
これでいいと思った。
二人をくっつけようという訳ではなく、リリーが自分の気持ちを知るきっかけになればいいという思いだった。
リリーの参加を取り付けて、心なしか嬉しそうなダレンを見送る。
そこで、サイラスはふと気付いてしまった。
ダレンの髪に、白いものが数本混じっていることに。
当然だ。サイラスとは一回り以上、歳が離れている。
思わず眉根を寄せたのは、決してダレンの老いを否定的に捉えたからではない。
実際はその逆だ。
改めて、サイラスはわかってしまった。
リリーがダレンを慕うのは、その外見ゆえではないということを。
「サイラス?」
呼ばれ、反射的に顔を向ける。
今、自分はどんな表情をしているのだろうかと、サイラスは思った。
リリーが心配そうにこちらを見つめている。
今だけでも、彼女の瞳に自分が映っていることが嬉しい反面、それもあと僅かな時間だけだと思うと、胸が締め付けられた。
名残惜しく感じながらも「行こう」と促す。
リリーの幸せな未来へと向かって。
ダレンは最近、少し悩んでいることがある。
なぜ、自分はこんなに背が高いのだろうかという、他人からすればかなりどうでもいいことだ。
しかし、彼にとっては切実な悩みでもある。
リリーはダレンと話す時、いつも仰ぐようにして見上げている。
その姿を見る度、リリーが首を痛めないだろうかと心配になるのだ。
であれば、距離を取ればいいと思うかもしれないが、ダレンとしてはなるべく近くで話したいという思いがある。
そもそも話さないという選択肢だってないのだ。
ダレンはリリーと会いたいと思っているし、会えば話したいと思っている。
それが嘘偽らざる彼の本音だった。
一般的に、この感情を何と言うのか。
もちろん、ダレンは気付いていた。
が、リリーに伝えるつもりは一切ない。
彼女を困らせたくなかったし、それが原因で今までのように会えなくなるのはダレンの本意ではなかった。
ジニーにだって辛い思いをさせることになる。
リリーのことが大好きな娘のことを思うと、この想いは墓場まで持っていく覚悟のダレンである。
何より、リリーが幸せなら、それ以上のことは望むべくもなかった。
だからこそ、ただ心の中で密かに想うだけでも何だかリリーを汚してしまいそうでうしろめたい。
しかし、貴族院の仲間たちと話している間でさえ、ダレンの視線は自然とリリーに向かうのだから、本当に度し難いなと思う。
人の心とはかくも御し難く、易々と振り回されてしまうのだから。
ーー彼女になら、それでもいいと思ってしまう辺り、わたしも大概だな。
苦笑しながら、リリーからそっと視線を逸らす。
おや?と思ったのは、その時だ。
人の輪から離れた所に、見知った相手が立っている。
珍しいこともあるものだと思った。
その人物は、ここ数年全く表舞台に立っていない。
大切な人を亡くしてから今日日、領地から出てこないのだ。
ダレンには、その気持ちが痛いほどわかった。
リリーと親しくなる前、ダレンもまた同じ喪失感を抱いていたから。
その人物が久しぶりに顔を出したということは、何かしら心の変化があったのだろう。
声をかけるなら今しかない。
そう思ったが、開園式の挨拶を頼まれ、それは叶わなかった。
「わかった」と返しざま、もう一度その人物に視線を戻すも、すでにその姿はなく、ダレンは髪をかき上げた。
何となく嫌な予感がしたのは、完全に感覚的なものだった。
が、後を追うことも出来ず、ダレンは先ほどまで、その人物が立っていた辺りを眺めた。
この胸騒ぎは何だろうと、一抹の不安を感じながら。




