66
サイラスはようやくリリーの実家が所有する町屋敷に到着した。
商談をまとめるのに時間がかかってしまったが、何とかお互いに落とし所を見つけることができた。
大筋で満足したサイラスは気分良く商談相手と別れ、その足でタウンハウスに向かった。
向かったのだが、サイラスは今、非常に困っている。
玄関先で、タウンハウス管理人のハンクが仁王立ちして動かないからだ。
ーー何だろう、既視感を覚える。
サイラスは隣国から帰ってきたばかりの頃、リリーに会いにタウンハウスを訪ねた日のことを思い出していた。
あの時は、しばらく玄関先でハンクと押し問答を繰り返したのだが、さすがにサイラスも今ではわかっている。
ハンクがサイラスに対して敵愾心を抱いているのは、全てリリーに対する忠誠ゆえだということを。
ハンクは、サイラスをリリーに近づけたくないのだ。
その気持ちは十分、理解できた。
「伯爵ですか?」
ハンクとどう話し合うべきか思案するのも束の間。
屋敷から顔を出した使用人にそう問われ、サイラスは反射的に頷いた。
すると、使用人が「どうぞ」と中に入れてくれる。
おそらく、リリーの弟のピーターが実家から連れて来た使用人なのだろう。
促されるまま、サイラスは玄関に足を踏み入れた。
ハンクは相変わらず無表情だったが、邪魔をするわけでもなく、サイラスが横を通って行くのをじっと見つめていた。
使用人は、そんなハンクに首を傾げながらも、愛想良くサイラスを案内してくれたので、サイラスは背中にヒシヒシと視線を感じつつも、リリーたちがいる客間へと進んだのだが……。
室内に入るなり、ピーターの複雑そうな視線がサイラスを貫いた。
ピーターとは、モンゴメリーの領地に立ち寄った際に偶然、顔を合わせているが、ハンク同様、嫌われているのを感じていた。
当然といえば当然の態度だったので、あの時は引くしかなかったが、償うと決めた以上、ピーターにも義兄としてできる限りのことをしたいと、サイラスは考えていた。
許してもらえるとは思っていないし、許されてはいけないのだが、少なくとも領地の問題やリリーの件では協力し合えるはずだった。
まずは、この機会を活かして謝りたい。
そして、協力できるところはしていくというのが理想だ。
ピーターにどう切り出すべきか、昨夜熟考して用意したことばを口にしようとしたサイラスは、しかし、予想外の人物に出鼻をくじかれたのだった。
「サイラス、急で申し訳ないのだけれど、聞いて欲しいことがあるの」
本当に突然、リリーがそう言った。
いつもの礼儀正しいリリーなら挨拶なり、ピーターの紹介なりが初めにあるのだが、それをすっ飛ばしての発言だった。
面食らいつつもサイラスが頷くと、リリーは何度か逡巡して、その後心を決めたように口を開いた。
「わたしと初めて会った時のことを覚えている?」
結婚のきっかけとなった、五年前の夜会での出来事を、サイラスはもちろん覚えていた。
が、リリーは「違うの」と首を振った。
「わたしたち、七年前の舞踏会で会っているのよ」
初耳だった。
聞けば、リリーがダンスで転倒した際、サイラスが助けたのだという。
知らず知らずのうちに、リリーと出会っていたことに、サイラスは驚きを隠せなかった。
「あなたにとっては、特に意味のないことだったのかもしれない。でも、わたしは助けてくれて嬉しかった。ずっとお礼を言いたかったの。だから、サイラス。遅くなってしまったけれど、言わせて。あの時は本当にありがとう」
「どういたしまして」と返すのが、サイラスには精一杯だった。
年甲斐もなく驚き、同時に照れてしまったのだ。
対して、リリーは真面目な表情のままだった。
一つ頷いて、呼吸を整えた後、静かに続ける。
「でもね、だからこそ、わたしは悲しかったの。五年前、偶然再会したあの夜会での出来事のせいで、あなたには酷く嫌われてしまったから。初めて会った舞踏会で見たあなたの綺麗な瞳が、もう二度とわたしに微笑みかけてくれることはないのだとわかって、本当に悲しかったわ」
「ごめん……」
「謝らないで」
リリーは首を振った。
意を決したように。
サイラスを見つめるその瞳は、思いのほか力強かった。
「あなたは、謝ってくれたでしょう?だから、もういいの。それよりも、今度はわたしを納得させて欲しい。あなたが償うと言ったそのことばを決して違わないと。あなたが本当に悪いと思っているのなら、本当に後悔しているのなら、あなたが以前言ったように、これからのあなたで証明して欲しいの。わたしは、その方がずっと嬉しいわ。だから」
「謝らないで」とリリーは重ねて言った。
穏やかな口調だったからこそ、彼女の芯なる強さを感じる。
ふと遠くを見つめるように目を細めたリリーは、何かに思いを馳せるように言った。
「わたしね、過去を引きずって生きていくのはもうやめようと決めたの。あなたは今すぐじゃなくていいと言ってくれたけれど、いつまでも甘えていてはいけないと思うから。それにね、わたし、わかったの。ジェイソンのことを、ずっと引きずっていたせいで、わたしだけじゃない、周囲の人まで辛い目に合わせてしまっていたことを。それは、とても悲しいことだわ。建設的じゃない。だから、わたし、変わりたいの」
変われるよと、サイラスは思った。
いや、すでにリリーは変わっているのだ。
五年前、サイラスが夜会で出会ったあの自信なさ気なリリーはもういない。
今、目の前にいるのは、過去を乗り越え進んでいこうと未来を見つめている前向きな女性だった。
無性に、眩しくなって。
サイラスは少し目を細めた。
「それに、五年前のことは、あなただけが悪い訳じゃないと思うの。わたし、きっともっと努力しなければならなかった。あなたの誤解を解く努力を、両親を説得する努力を怠るべきではなかった。あなたが帰ってきた時も、そう。やり直そうと言うあなたを簡単に受け入れるべきじゃなかった。わたしは、もっともっとあなたに伝えなければならなかった。わたしの気持ちを。わたしのことばで。曖昧なままにしてしまったのは、わたしの落ち度だし未熟さゆえよ。わたし、そういう意味では自分のことを信じていなかったんだと思う」
そこで、リリーは少しだけ不安そうにサイラスを見た。
きっと、彼女なりに精一杯、自分の気持ちを話してくれようとしているのだろう。
そのことが、一番嬉しかった。
だからこそ、サイラスは「いいんだよ」と頷いた。
この後に続くことばを、何となく察して。
「上手に話せるかどうかわからないけれど」と前置きするリリーを、サイラスはただ待った。
「……わたし、ジェイソンのようにあなたのことを愛せるかどうかわからないの。あなたと夫婦として頑張っていければいいとは思うけれど……それを安易に受け入れるのは違うんじゃないかとも思う。それでは、昔の自分と変わらないから」
「あなたもそうでしょう?」とリリーは問いかけた。
「サイラスだって、シドニー公爵夫人への想いを、わたしに対して抱くことは難しいと思うの。彼女とわたしは違うから。だから、義務だからとか、償いだからとか、そういうのじゃなくて、サイラスにはわたしとの関係をもう一度考えて欲しい。わたしも、ちゃんと考えるから。だから、本当にわたしと夫婦として歩んでいきたいと思っているのか、幸せになれると思っているのか、あなたなりの答えを導き出して欲しいの」
それはもう出来ていると、サイラスは思った。
しかし、リリーには伝えるべきではないし、やはりサイラスの中ではリリーに相応しいのは自分ではないという思いが強い。
だから、サイラスはただ「わかった」とだけ頷いた。
「じゃあ、ここがスタート地点ね。お互いに、ここから始めましょう」
そう言って差し伸べられる手を、サイラスは精一杯、内心を気取られぬように取った。
サイラスには何となく予感があった。
賢明なリリーは、きっと正しい選択をするのだろう、と。
リリーがどんな選択をしても、彼女の幸せに繋がっていることは明白で。
それを喜べる自分になりたいと、サイラスは思った。
リリーが真に愛する人と結ばれる時、その手に愛する人との子を抱く時、最期を家族に看取られながら安らかに逝く時、その場に自分がいなくとも。
リリーがただ幸せならば、決して後悔はしない。
サイラスの償いとは、その覚悟そのものだった。
サイラスは、スタート地点から出発する自分を想像した。
リリーと一緒に歩んでいる姿だ。
ゴールまでの道中、リリーとは手を繋ぎ、支え合っていけるだろう。
しかし、お互いに見つめている方向は、全く違うのだろうと悟って。
サイラスは何となく二人の未来を垣間見たような気がしたのだった。
ピーターは黙ってリリーとサイラスのやり取りを見ていた。
サイラスが来る前に退出しようと思っていたピーターだが、リリーが居て欲しいと言ったのであえてここに居る。
どうしてリリーがそう言ったのか、今の二人のやり取りを見ていて何となく察した。
リリーは証明しようとしているのだ。
サイラスが変わったこと。
リリーが変わろうとしていること。
そして、これからのことを二人で考えていきたいと思っていることを。
であれば、ピーターに出る幕はないのかもしれない。
サイラスのことを信用した訳ではないし、思うところは過分にある。
しかし、リリー自身が決めようとしていることを応援したかった。
ーーそれに、姉さんが気持ちをはっきり言うところを見たのは初めてだ。
きっと、リリーは良い意味で変わろうとしているのだろう。
それを見守るのもまた支えるということだと、ピーターは思った。
「そういえば、ピーターから領地でのことを聞いたわ。ピーターを救ってくれてありがとう。あの時の無礼を許してくれると良いのだけれど」
リリーがそう切り出した時、自然、サイラスの視線を感じたピーターは俯いた。
やはり、サイラスに対するピーターの感情は複雑だった。
リリーを愛している。
彼女を傷付けたサイラスを許したくはない。
しかし、ピーターも同じようなことをした身である。
この靄がかかったような胸の痛みは、その自己嫌悪ゆえだ。
それを告白して許されたからと言って、ピーターのしたことは変わらない。
変わらないのだが……。
「無礼とは思わないよ。愛する家族を傷付けられて腹を立てない訳がないんだ。あの怒りは正当なものだったし、そうされて当然なことをわたしはした。だから、無礼じゃない。むしろ、わたしの方が礼を失していた。彼にはきちんと謝りたい」
そう言うサイラスに、ピーターは思わず顔を上げた。
サイラスもきっとピーターと同じように後悔をしていて、それを償おうとしている。
それがわかるからこそ、ピーターは同族嫌悪に似た感情をサイラスに抱いていた。
謝ってすむ問題ではない。
ーーでも、謝らなければ始まらないこともある。
リリーが向き合おうと決めたのだ。
ピーターもきっとそうするべきだと思った。
こちらを見つめるサイラスの瞳は真摯なものだった。
それを受けて、ピーターの腹も決まった。
「ピーター、本当に申し訳なかった。わたしは君の大切な人を傷付けてばかりの情けない男だ。でも、変わりたいと思っている。いや、変わってみせる。だから……」
「わかりました。あなたの謝罪を受け入れます」
ピーターは意を決したように、サイラスを仰ぎ見た。
信じてみようと思った。
リリーが向き合おうと決めた人を。
「僕もあなたに謝りたい。助けていただいたのに、怒鳴って追い返したこと、本当にすみませんでした。そもそも僕があんな態度を取ったのは、あなたに対する八つ当たりの気持ちがあったからなんです。子どもでした。軽率な言動を恥じています。あなたが姉さんにしたことと、僕を助けてくれたことは別物なのに。だから、あなたにもう一度言わせてください。あの時は助けてくれてありがとうございました」
手を差し出すと、サイラスも手を出して握ってくれた。
安堵したように、それでいてどこか嬉しそうに。
サイラスのそんな年相応な反応を、ピーターは初めて見たのだった。
「正直、僕は姉さんのようにあなたを受け入れることはできないかもしれません。でも、姉さんがもう区切りを付けていることを、僕が掘り返すのは違うような気がします。だから、信じてみようと思います。あなたを」
どうか信じさせて欲しいと思った。
もう二度とリリーを傷付けないということを。リリーを愛し幸せにしてくれるということを。
それが、サイラスの幸せでもあるということを。
全身全霊で、証明して欲しい。
握る手に力を込める。
それに応えるように握り返す、この手の温もりがその答えであることを、ピーターはただ祈った。




