63
「ああ、疲れたわ」
シルビアは息を吐き出しながら、手で顔を仰いだ。
彼女は先ほどから、ひっきりなしにダンスに誘われている。
しかも、連続でダンスを踊ることもあったので、疲れはそのためだろうと思われた。
対して、アリソンは特に疲れた様子もなく「少しは休まないとダメよ」と、涼しい顔でシルビアに忠告した。
「アリソン、あなたみたいに上手な断り文句が出てこないんだから仕方ないじゃない」
シルビアの言う通り、アリソンは相手が不機嫌にならないよう上手く誘いを断っていた。
時折、ダンスを受けることはあったが、それも最低限で済ましているあたり、大変要領が良かった。
「サイラス、何か飲み物をお願いできる?」
あまりに疲労困憊といった風のシルビアが可哀想で、リリーがサイラスに頼むと、彼は「すぐに戻るから、ここを離れないで」と早口で言って立ち去った。
その間にも、アリソンへの誘いはひっきりなしだった。
どうするのかしらと、リリーが見守っていると、最初こそ断っていたアリソンも、どうやら最後に声をかけてきた男性の誘いは受けるらしく「行ってきます」と言い残して、ホール中央へと繰り出していった。
「はあ……」
それを見送るシルビアは、目に見えて疲れが現れていた。
男性たちも遠慮して、あまりシルビアを誘うことがなかったのが救いと言えば救いだが、先ほどより更に辛そうに俯くシルビアを見るのは、リリーとしても大変心苦しかった。
どうやら、シルビアは靴が合わないらしく、かかと部分がとにかく痛いのだそうだ。
その状態で踊るから、余計に疲れるのだろう。
「どこか、休める所があればいいのだけれど」と、リリーがグルリと周囲を見渡したその時。
「うるさいな!」
鋭い声音に、思わず肩が揺れた。
見れば、仮面を付けた男女が対峙している。
小声で喋っているので、喧騒の中、彼らに目を留める人は少なかったが、明らかに剣呑な雰囲気だった。
夫婦喧嘩かもしれないと思ったのは、男性の方が「お前は大人しく家で待っていろ」と言ったからだ。
「じゃあ、あなたも一緒に帰りましょうよ!ここのところ、ずっと帰って来ないじゃないの!いい加減に……」
「女のくせに、俺に指図するな!」
「あ」と思った時には、すでに遅かった。
女性の仮面が飛び、頬を押さえる。
痛みに歪む女性の表情が何とも痛々しく、リリーは文字通り一歩引いた。
暴力とは、とんと無縁のリリーである。
身体が震え、表情が強張っていくのを、どうしても止められなかった。
それでも、再び男性の手が挙がった時、止めなければならないと思ったのは、半ば無意識のものだった。
これ以上の暴力は看過できない、そう反射的に思ったのだ。
震える足で、一歩踏み出す。
まさに、その時だった。
近くにいた金髪の青年が、男女の間に割って入るのが見えた。
制止するというより、二人の間に体を入れて物理的に壁を作るという感じで、青年は言った。
「大丈夫ですか?」
女性にハンカチを手渡しながらも、青年の視線は男性に向けられている。
仮面から覗く彼の瞳は、非難するように細められていた。
「暴力に訴えるのはやめませんか。紳士的にいきましょう」
「何!?これは夫婦の問題だぞ!関係ない奴が首を突っ込むな!」
「……あまり大声を出さない方がいいですよ。社交界では、醜聞が広まるのは早い」
そこで、ようやく周囲の目を気にしたらしい男性は、グッと押し黙った。
青年を睨み付ける表情はそのままに、拳を握り締めている。
が、ややあって、その拳は開かれた。
舌打ちと共に背を向けた男性は小声で「これで済んだと思うなよ」と言い残し、大股でホールを出て行った。
「すみません、あなたの立場を悪くしてしまった」
青年は申し訳なさそうに言ったが、女性はハンカチで頬を押さえながら「構いません」と首を振った。
「あの人、お酒が入るといつもああだから。それよりも、助けてくれてありがとうございました」
「いや、僕は……何もしていません」
本当の意味で、あなたを助けてはあげられないからと、青年は俯きながら言った。
彼のことばは真実だった。
家庭内で起こるであろう暴力を、青年は止められない。
女性が離婚をするのは難しく、また、したとしても、青年がそれに責任を持つことは出来ないからだ。
だが、それでも女性は微笑んだ。
「あなたの気持ちが嬉しかったから」と。
もう一度、お礼を言って立ち去る女性の後ろ姿を、青年同様、リリーも無言で見つめた。
リリーの二度の結婚生活は決して順風満帆ではなかったけれど、暴力を振るわれたことは、ついぞなかった。
サイラスの手が当たったことはあったが、あれは故意ではなかったし、ジェイソンの裏切りも精神的なものであって、物理的な痛みを伴うような言動は一切なかった。
そういう意味では、リリーはまだ幸せな方だったのだと改めて思う。
親に言われ、平気で手を上げる男性と結婚する女性は少なくない。
暴力に耐え、夫の理不尽に目を瞑る。
その不幸を思うと、リリーは何だか切なくなった。
いつの時代も、立場が弱い者の末路は悲惨で、それを正すことの難しさを感じずにはいられなかった。
そして、そう思ったのはシルビアも同様だったのだろう。
見れば、彼女はギュッと両手を握りしめ、俯いていた。
「あ」
シルビアの体が傾ぐのが見えたのは、まさにその時だった。
背後にいた人に押されたようで、足の痛みで踏ん張りがきかなかったのだろう。
リリーは慌てて支えようとした。
が、その前に横から腕が伸びてきて、シルビアの身体を支えてくれる。
先ほどの金髪の青年だった。
「あ、ありがとうございます」
シルビアは慌てて青年から身体を離し、そしてタタラを踏んだ。
やはり、もう足が限界なのだろう。
「もしかして、足が痛むんですか?」
青年は心配そうに言って、仮面を外した。
思わず、リリーは心の中で「あ」と呟く。
ーーライリー子爵だわ。
すぐに思い出せたのは、ジニーが想いを寄せているであろう人物として、リリーの記憶に残っていたからだ。
細身だが頼りない雰囲気はなく、目を惹く金髪が印象的な子爵は、間近で見ても大変ハンサムな青年で、若さゆえの溌剌とした何かを、リリーは感じ取った。
先ほどの一件から、優しい人柄も見て取れる。
わざわざ仮面を外したのも、シルビアの警戒心を解くための、彼なりの気遣いだろう。
素顔を晒して身元を明らかにすることで、失礼なことはしませんよと暗に示しているのだ。
シルビアも同じことを思ったのか、身構えていたのを若干解く。
「良ければ、あちらに椅子があったのでお連れしましょうか?」
「でも……」
「おことばに甘えた方がいいわ、シルビア。わたしも付き添うから」
リリーが請け合うと、シルビアもようやく頷いた。
ライリー子爵は安心したように微笑み、仮面を付け直してから「さあ、こちらです」と言ってシルビアをエスコートした。
「シルビア?」
一歩踏み出した時、人並みからアリソンが駆け寄ってきた。
心配そうにシルビアを見つめ、問いかける。
「何かあったの?」
「わたし、少し疲れちゃって。こちらのライリー子爵が椅子まで連れて行ってくださることになったの。レディー・リリーも付き添ってくださるとおっしゃって」
「じゃあ、わたしが代わりに付き添うわ」
「構いませんか?」とアリソンに問われ、リリーは頷いた。
サイラスに、この場を離れないように言われている。
彼が戻って来た時、入れ違いになるのは良くないだろうと思ったのだ。
見れば、椅子がある辺りはここからでも何とか見えたので、リリーはその場でシルビアたちが椅子まで辿り着くのを見守った。
無事に到着したシルビアが椅子に腰掛けるのを、胸を撫で下ろしながら見つめる。
シルビアが子爵にお礼を言っているのが、遠目からでもわかった。
構わないというジェスチャーで首を振った子爵が、綺麗に一礼して立ち去って行くその後ろ姿を、シルビアだけでなく、アリソンもまたじっと眺めていた。
周囲にも、子爵を盗み見る女性たちがちらほらいる。
ハンサムな好青年なので当然と言えば当然なのだが、ジニーのことを想うと、リリーは何とも複雑な気持ちになった。
「リリー?」
気を取られていたリリーは、サイラスが戻って来ていたことに気付かなかった。
声をかけられ、慌てて振り向く。
「お、お帰りなさい」
「あれ、一人なのか?」
「ええ、シルビアは疲れているみたいだから、あそこで休んでいるの。アリソンも付き添っているわ」
「ああ、なるほど」
リリーよりも背が高いサイラスは、すぐにアリソンたちを見つけたらしく、頷いた。
「どうやら飲み物にもあり付けたらしい。これはもう要らないな」
三つのグラスのうち、一つをリリーに手渡しながらサイラスは言った。
リリーも視線を移して確認すると、サイラスの言う通り、彼女たちの手にはすでにグラスが握られていた。
もしかすると、ライリー子爵が気を利かせてくれたのかもしれない。
「ごめんなさい、せっかく持って来てくれたのに」
「いや、構わないよ。それよりも、リリーも飲んでごらん」
サイラスに促されるまま、グラスに口をつける。
甘い花の香りが口に広がり、リリーは微笑んだ。
サイラスは、口当たりが良くあまりアルコール度数が高くない飲み物を選んで持って来てくれたのだろう。
その気遣いが嬉しかった。
「美味しいわ、ありがとう」
リリーが言うと、サイラスは小さく頷いた。
仮面を付けていてその表情は見えなかったけれど、彼もきっと微笑んでくれているのではないかとリリーは思った。
仮面舞踏会はまだ始まったばかりだった。
皆、疲れとは無縁であるかのように、ダンスやお喋りに夢中になっている。
普段の舞踏会より、やや羽目を外す人たちもいた。
素性を隠しての社交という非日常が、彼らにそうさせるのだろう。
そんな中、リリーはどこか浮かない表情だった。
というのも、今夜参加した本来の目的であるはずのモリーが帰ってしまった今、これ以上ここに長居するのもいかがなものかとリリーは考え始めていたのだ。
アリソンとシルビアに会えて嬉しい気持ちはあったが、仮面舞踏会という一種独特の雰囲気に呑まれつつあることを、リリー自身、自覚していたからだ。
ちなみに、アリソンたちはすでにこの会場にはいない。
足の痛みが深刻になってきたシルビアのために、帰り支度を整えている最中だろう。
自分たちも、帰るならこのタイミングかもしれないと、リリーは思った。
「ねえ、サイラス。そろそろ……」
お暇しましょうと言おうとして、リリーは口を閉ざした。
一人の青年がサイラスに話しかけてきたからだ。
先ほどまで、リリーたちに近付く人間には全て身構えていたサイラスも、その青年だけは別と見えて、明らかに朗らかな様子で微笑みかけていた。
「ジャック、久しぶりだな。舞踏会に参加しているとは知らなかったよ」
「うん、ちょっとね……サイラスこそ、こういう集まりはもう卒業したと思っていたけど。どういう風の吹き回し?」
「まあ、大人には色々あるんだ」
親しげな雰囲気から、ジャックと呼ばれた青年がサイラスの友人だと察したリリーは、仮面を外して紹介されるのを待った。
サイラスは、こちらをチラッと見て「そういえば」と切り出す。
「リリーとは初めてだったな。ジャック、彼女が妻のリリーだ。リリー、彼はジャック。寄宿学校時代の後輩なんだ」
紹介を受けたジャックは、仮面を外してリリーに一礼した。
ぎこちないものの、とても丁寧な仕草だった。
「はじめまして、ジャック・コリンズです。いつもサイラスにはお世話になっています」
「ご丁寧にありがとうございます。妻のリリーです。お会いできて光栄ですわ」
リリーが微笑むと、ジャックははにかんだような笑顔を浮かべた。
ジニーとそう変わらない年頃ながら、物腰が柔らかく、人の良さそうな印象を受ける。
「ジャックの兄とは寄宿学校でルームメイトだったんだ。そういえば、今日は来ていないのか?」
「兄さんは家にいるよ。今度、義姉さんに子どもが生まれるんだ」
「それは、めでたいな!おめでとう!」
リリーも続けて「おめでとうございます」と言うと、ジャックはまるで自分のことのように嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。兄たちにも伝えておきます」
「いつ頃、お生まれになるんですか?」
「おそらく、秋だと思います」
ちょうど良い季節だなと、リリーは思った。
サイラスの友人なのであれば、何かお祝いの品を送らなければならない、とも。
「これで、あいつも秋には晴れて父親になるんだな。奥さんも喜んでいるだろう」
「うーん、喜んではいるみたいだけど……」
「どうかしたのか?」
「義姉さん、相当つわりが酷いみたいなんだよね」
妊娠初期に見られるつわりは、悪心や嘔吐、食欲不振などを引き起こし、症状が酷い人はかなり辛いと聞く。
残念ながら、リリーはつわりを経験する前に流産してしまったが、妊娠中の女性たちの辛さは推して知るべしだ。
だから、リリーが「それは大変ですね」と言うと、ジャックは困ったように首を振った。
「いや、違うんです。確かに、つわりで苦しんではいるんですが、どちらかと言うと、母さんの世話焼きが原因というか」
思っていたのと違う返答が返ってきて、リリーは思わず首を傾げた。
見れば、サイラスも似たような表情で首をひねっている。
「つわりで大変な時に、世話をしてくれるのはありがたいことだと思うが」
「普通はね。でも、母さんったら初孫が嬉しいみたいでやたら口出しするんだよ。昼食後は夜まで寝て過ごすのがいいとか言って義姉さんの行動を制限するし、つわりには臓物のスープが効くからって無理やりゲテモノ汁を飲ませるし。見ていて可哀想だよ」
「まあ……」
リリーはことばに詰まった。
昔、ジェイソンと結婚していた時、義母から妊娠したら必ずこうしなさいという分厚い秘伝のメモを渡されたのだが、その中に全く同じことが書かれてあったのを、ふと思い出したのだ。
ジェイソンも信じている風だったので、特定の地域や世代の人間には支持されている風習なのかもしれない。
医学的根拠は別にして、だが。
「それは、本当に効くのか?」と半信半疑なサイラスに、リリーがそう伝えると、ジャックもため息混じりに頷いた。
「母さんの時代は、それが普通だったみたい。しかも善意でやってくれている分、義姉さん、断り辛いみたいなんだよね」
「そ、そうか……」
サイラスは、複雑そうに相槌を打った。
それ以外、言うべきことが見つからないのだろう。
リリーとしては、母体に精神的なストレスを与えるのは良くないことだと思うのだが、良かれと思ってしてくれている姑の善意を無下にすることもまた、よろしくないというのも理解できた。
「そういえば、サイラスの方はどうなの?」
「え?」
「子どもはまだいないんだっけ?」
「あ、ああ……」
まだというより、そもそもそういう営みをしていないのだが、さすがにそれを言うのは憚られたようで、サイラスは「授かりものだからな」と言って無難に切り抜けた。
それを、リリーは複雑な表情で見守った。
サイラスは本当のところ、どうするつもりなのだろうかと思ったのだ。
サイラスは一人息子で、子どももいない。
家のことを考えれば、当然、後継となる嫡男がいなければならなかった。
昔、サイラスは自分との子を望むのだろうかとリリーは考えたことがあったが、償いたいと言って帰ってきたサイラスが、実際その辺りのことをどう思っているのかは今もってわからない。
五年前に比べれば、リリーとサイラスの関係ははるかに良くなったものの、二人の寝室は未だに別々だった。
かと言って、リリー自身、どうしたいのかと問われても困ってしまう。
昔だったら、妻の義務は子を成すこととして、特に何も考えず、受け入れていただろう。
しかし、それではいけないのではないかと思った。
サイラスが心に寄り添いたいと言ってくれたから。
その心を、リリー自身が曖昧なまま放っておくことはできなかった。
どうしたいのか、きちんと自分の気持ちに向き合いたい。
ただ、これからの将来については、サイラスとゆっくり話し合わなければならない事柄だった。
だから、サイラスが矛先を変えるように「お前はどうなんだ?」とジャックに話を振った時、リリーは考えるのを一旦止めた。
今は、会話に集中したい。
自分の気持ちもよくわからない今は、特に。
「良い人はいないのか?」
サイラスが問うと、ジャックは目に見えて肩を落とした。
「取り柄がないから、僕じゃダメだよ」と首を振るジャックに、リリーはふと思った。
否定しないのね、と。
つまり、彼には密かに想いを寄せる女性がいるということだ。
サイラスも同じように思ったのか、ジャックの肩を叩いて励ました。
「何を言っているんだ。ジャックは頭がいいじゃないか。大学を卒業して医者になっただろう?家柄だって良い。自信を持てよ」
「でも、僕は次男だ。彼女には相応しくない」
この時代、結婚相手として長男に人気が集中することは往々にしてあった。
家督が継げない次男以下だと、ランクが落ちるのである。
もちろん、長男が亡くなって爵位を継ぐ場合もあるのだが、基本的に貴族の嫡男以外は、弁護士や医師等、貴族としての体面を失わないで生活していくことができる職業に就くのが一般的だった。
当然、結婚して家庭を築くことだってできる。
貴族の嫡男というのは、そう沢山はいないので、次男以下でも結婚相手にと選ぶ女性は、結構いるのだ。
「彼女には確かめたのか?」
「確かめなくてもわかるよ。それに、たとえ彼女が僕のことを好いてくれていて結婚しても構わないと言ってくれても、家族が絶対に許さない」
確かにそういう親もいるだろうと、リリーは思った。
財政的に苦しい家や家名に矜持を持つ人種は特に。
しかし、中にはそういったことにこだわらない貴族もいる。
ダレンなどは、その良い例だろう。
彼は娘の意思を尊重するだろうし、そもそもダレン自身が次男であるので、そういったことに目くじらを立てないのだ。
ちなみに、次男であるダレンがなぜ次期公爵と目されているのかというと、彼の兄が病弱で永くは生きられないからなのだが、それはまた別の話である。
「気を落とすなよ。とにかく、できることから始めたらどうだ?」
「できることって?」
「そうだな、まずは相手の女性の気持ちを確かめたらいいんじゃないか?」
「僕にできるかな……」
「怖い気持ちはわかる。だが、行動しなければ何も始まらないだろう?」
「うん……」
サイラスに励まされ、ジャックは自信なさそうにしながらも、小さく頷いた。
「頑張ってみる」と呟いたジャックは、一度頭を冷やしたいと言ってホールから出て行った。
「上手くいくといいわね」
「ああ」
結婚とは本当に難しい。
当人の意思ではなく、家という大きな問題が付随してくるからだ。
家や身分など関係なく、自由に結婚できる社会になればいいのにと思う。
もちろん、そんなこと不可能だとわかっていても、そう願わずにはいられなかった。
モリーやジニー、ジャックのような人たちが、どうか幸せになりますようにと、リリーは心の中で祈った。
表が騒がしいなと感じたのは、その後しばらくしてからだった。
そろそろ帰ろうかと話している矢先だったので、どうしようかとサイラスを見上げる。
サイラスは何があったのか確認しに行きたいのか、難しい顔でじっと廊下の先を見つめていた。
「行ってきたら?わたしは、ホールで待っているわ」
そう言ってみたが、サイラスは首を縦に振らなかった。
どう見ても外の様子が気になるといった表情なのに、どうしてだろうと首を傾げ、それならばと思い切って打診した。
「じゃあ、一緒に見にいきましょう」
野次馬みたいであまり行儀は良くないかもしれないが、何があったか確認するくらい構わないだろう。
「……わかった」
散々悩んだ末に、サイラスはそう頷いた。
リリーは頷き、サイラスと連れ立って、玄関ホールに向かう。
外に近付くにつれ、段々と喧騒で埋め尽くされていった。
ようやく外に出た時、リリーは馬車に乗り降りする開けた場所に視線を向けた。
人垣が出来ている。
騒がしさの原因は、そこに違いなかった。
しかし、人が多くこの場所からは人垣の中心が良く見えない。
「何かあったのですか?」
サイラスが近くを通りかかった紳士に話しかける。
その紳士が人垣の中から出てきたので、何か見聞きしたかもしれないと思ったのだろう。
案の定、紳士は訳知り顔で言った。
「どうやらご婦人が襲われたらしい」
リリーはびくりと肩を揺らした。
都市部とはいえ、まだまだこの国は治安が良いとは言えない。
しかし、大通りに面した敷地内で、しかも人の往来がある玄関先での事件となると話は別だ。
リリーが不安げにサイラスを見上げると、彼もまた厳しい表情で眉をひそめていた。
「それは恐ろしいですね……」
「全くだ。可哀想に、ご婦人は背後から殴られたんだろう。倒れた拍子に眼鏡は割れ、ドレスやショールも血や土でグチャグチャだ」
リリーはハッとした。
眼鏡にショール。
もちろん確信などなかったが、もしやという嫌な予感が頭を過ぎる。
「わたしは医師だ!そこを通してくれ」
背後から、壮年の男性が叫ぶ。
その瞬間、まるで魔法のように人垣が左右に割れた。
唐突に、リリーの前に道が出来る。
当然、倒れ込んでいる女性の姿も見えた。
「モリー!?」
リリーは叫びながら駆け寄った。
サイラスが止めようと手を伸ばすが、それを避けてモリーの傍で膝をつく。
モリーはぐったりとして、全く動かなかった。
どれくらいの間、倒れていたのかはわからないが、モリーの身体が物凄く冷たい。
「モリー!ああ、モリー、しっかりして!」
「邪魔だ、下がって!」
モリーの手を握ろうとして、先ほど医師だと名乗った男性に押し除けられる。
倒れ込みそうになり、それをサイラスが支えてくれた。
構わず、再びモリーの手を取ろうとしたリリーを遮ったのはサイラスだった。
サイラスは、リリーを優しく抱きしめたまま耳元で囁いた。
「リリー、気持ちはわかる。しかし、治療の妨げになってはいけない」
諭すように言われ、リリーはギュッと唇を噛んだ。
取り乱してはいけないと思った。
騒いで、治療の邪魔をすれば、モリーが助からないかもしれないからだ。
リリーは、伸ばした手を静かに下ろした。
代わりに、サイラスに縋るように身を任せる。
怖くて、怖くて仕方がなかった。
大好きなモリーにもしものことがあれば、リリーはきっと立ち直れない。
自分はまた大切な人を喪うのだろうか。
あの地獄のような喪失感を味わうのだろうか。
そう考えるだけで、身体の震えが止まらなかった。
「大丈夫。大丈夫だ、リリー」
昔、自分自身に言い聞かせるように呟いていたことばを、サイラスが優しく囁いてくれる。
それだけが、今のリリーにとって唯一の救いだった。
サイラスは苦虫を噛み潰したような表情で、成り行きを見守っていた。
医師は、モリーを必死に治療している。
リリーには大丈夫だと言ったものの、サイラスには正直モリーが救かるのかどうかわからなかった。
ジャックがここに居れば、容体や治療方針を尋ねることもできたが、それも叶わない。
サイラスにできるのは、ただ震える小さな身体を抱き留めてあげることだけだった。
それが、何とももどかしく、不甲斐ない。
サイラスは、忌々しげにモリーが倒れている地面を見やった。
正確には、馬車が停まっている辺りだ。
そこに落ちているものを、サイラスは決して見逃さなかった。
ーー薄気味悪いユリだな。
リリーをはじめ、周囲の人間は気が動転していて目に入っていないようだが、モリーの近くには赤いユリが落ちていた。
そして、なぜかネズミの死骸も。
ネズミは、昔、世界中で恐れられたとある死の病を、サイラスに連想させた。
赤いユリと合わせて、その不吉さは倍増である。
ただ、とサイラスは考えた。
百歩譲って、ネズミが偶然だったとしよう。
都市部とはいえ、まだまだ衛生面の管理が不十分な時代だ。
ネズミの死骸がたまたまそこにあったという可能性は否定できない。
だが、ユリの花はそうはいかなかった。
そもそも、ユリはこの時期には咲かないからだ。
それが、モリーの近くに偶然落ちている確率は、かなり低いと言わざるを得ない。
だからこそ、モリーが襲われたこととユリの花は関係している、そうサイラスに思わせるには十分だった。
おそらく、モリーはリリーを脅迫している人物に襲われたのだろう。
モリーに何かを見られたのかもしれないし、リリーと間違えて襲われた可能性もある。
理由はわからないが、無関係の人間まで巻き込む犯人のその卑劣さには、殆嫌気がさした。
ーーユリの入手経路を辿れば、犯人に行き着くだろうか。
この辺りでは咲かないのだから、犯人はわざわざユリを輸入していることになる。
だとすれば、入荷ルートから、ある程度、絞り込めるはずだった。
サイラスは無意識に、リリーを抱きしめる力を強めた。
守りたいと思った。
リリーを傷付けようとする悪意から、彼女の心と身体の全てを。
それをして初めて、サイラスが帰ってきた意味があるような気がした。
肌を撫でる冷気が、突然強風に変わった。
地面に落ちている赤いユリが、その風に吹かれて不気味に舞い上がる。
サイラスはそれを決意とともに、ただ見つめた。




