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右を見ても左を見ても仮面を付けた人で満たされた異様な空間で、リリーは居心地悪そうに立っていた。
リリーは今、舞踏会に出席している。
普段の格式ばったものではなく、いわゆる仮面舞踏会というやつだ。
招待客たちは自分の素性がわからないような衣装に身を包み、仮面で顔を隠している。
異質な雰囲気はそのためだった。
かくいうリリーも、シンプルながら仮面を付けている。
これは、一種のゲームだった。
互いの正体を当て合うという類の。
正体を気取られぬよう、皆ユニークな仮面を付けているので、リリーはまるで絵本の中に放り込まれたような不思議な感覚に陥っていた。
ーー何だか、いけないことをしているような気分だわ。
素顔を隠して無礼講という背徳感めいたものが、リリーの胸をチクチクと突き刺す。
常ならば、決してこういう類の集まりには参加しないリリーである。
では、なぜここに居るのかというと、答えは簡単だった。
親友のモリーに頼まれたからだ。
彼女も勇気を振り絞って、この仮面舞踏会に参加するのだろう。
見知った相手が居てくれた方が安心するというのは、当然の感情だった。
そもそも後ろめたい気持ちもある。
先日リリーは、ジニーの告白を受けて参加予定だった夜会に行かなかった。
一緒に参加するはずだったモリーには事前に知らせ、彼女も気にしないでと言ってくれたものの、リリーは大変申し訳なく思っていたのだ。
だからこそ、仮面舞踏会の招待を受け、今に至るのだが……。
ーー目のやり場に困るわ。
過度に肌を露出したシュミーズ・ドレスを着る女性たちの何と多いことか。
一昔前に流行ったスタイルだが、ウエストのサッシュや裾のフリンジ飾り、無造作に巻いた髪にヘアバンドを巻いただけという彼女たちの装いは、まるで古代美術の大理石像や壁画を彷彿とさせた。
ただ、いかんせん、V字に大きく開いた襟ぐりによって胸の谷間が強調されているものだから、同じ女性とはいえ、リリーのような保守的な人間にはあまりにも官能的過ぎた。
そういう趣向の舞踏会であることはわかるのだが、若いご令嬢も多いので、変な気を起こす男性が居なければいいのだけれどと、母親のように心配してしまう。
ちなみに、リリーはというと、無難にイブニング・ドレスを着ていた。
スカートの裾に施された幾つものドレープや花飾りが上品なドレスで、当然、襟ぐりは控えめだった。
それでも、メイドのレイチェルの手腕で、何とも目を惹く装いに仕上がっている。
隣に、サイラスが居てくれなければ、無礼講を履き違えた不届き者に身の危険を感じていたかもしれない。
最初、仮面舞踏会に出席したいと言った時、サイラスが良い顔をしなかった理由がようやくわかった。
仮面舞踏会に潜む危険を、彼は知っていたのだ。
それでも、リリーが頼むと了承し、こうして付き添ってくれるのだから、サイラスには感謝の気持ちしかない。
リリーは、チラリとサイラスを仰ぎ見た。
黒の燕尾服に白の蝶ネクタイ、白い胸当て、白いベストという夜会の正装に、リリーと同じシンプルな仮面を付けたサイラスは、例え顔を隠していてもハンサムであることが察せられた。
サイラスは、正体を隠していてもサイラスなんだなと、リリーはよくわからないことを思った。
さて、そのサイラスはというと、ずっと難しい表情を浮かべている。
いや、正確にはその表情は仮面で見えないのだが、周囲を見回し何度も腕を組み直す仕草から、充分それは伝わった。
不機嫌という訳ではないのだが、どうやら彼は何かを心配しているらしい。
リリーに近付く人物がいると、身体を固くして前に進み出るのだ。
近付くといっても、その大半はサイラスに話しかけようとしている人たちであるのだが、サイラスはお構いなしである。
仮面の下で相手を睨んでいるのではないかと思うほどだったが、ただ単に仮面のせいでよく相手の顔が見えないだけなのだろうと、リリーは思った。
おかげで、話しかけてくる人の対応はサイラスがしてくれるので、誰かに煩わされることもない。
この広い空間の中、ゆっくりとモリーを探すことができ、リリーとしては大変都合が良かった。
「結構、人が多いな……」
あらかた会話の対応を終えたサイラスが、ため息混じりに呟いた時だろうか。
ようやく、リリーは沢山の人の中からモリーを見つけ出した。
仮面を付けていても、その所作や雰囲気で彼女だというのがわかる。
わかるのだが、だからこそ、リリーは戸惑った。
モリーもまた、肌が透けて見えそうなほど薄いシュミーズ・ドレスを身にまとっていたからだ。
ーーモリーったら、どうして……。
もちろん、似合っていないという訳ではない。
ないのだが、どう考えてもモリーらしくなかった。
モリー自身も、周囲から肌を隠すように何度も何度も腕をさすっているので、乗り気でないのはすぐにわかる。
だからこそ益々、解せなかった。
どうして肌を露出するようなドレスを、恥ずかしい思いをしてまで着ているのだろうかと。
答えは出なかった。
それよりも、ショールを手渡した方がいいのだろうかと半ば真剣に考えながら、リリーはサイラスと連れ立ってモリーに近付いた。
そっと声をかけたにも関わらず、モリーがびくりと肩を揺らしたので、何だか申し訳ない気持ちになる。
「モリー、わたしよ」
リリーが柔らかく言うと、明らかにモリーの肩の力が抜けた。
表情は見えないが、安堵するようなため息が漏れる。
「リリーね、良かった。あなたが見つからないから、ちょっと焦っていたのよ。声をかけてくれて本当に助かったわ。えーと、そちらの方は……」
自信なさげにサイラスを見上げるモリーに、そういえば正式に夫を紹介するのは初めてだったなと気付く。
リリーは、慌てて言った。
「彼が夫のサイラスよ。サイラス、こちらがモリー。わたしの親友なの」
親友というフレーズを嬉しそうに言うリリーに、サイラスは思わず微笑んだようだった。
あくまでも、リリーがそう感じたというだけだったが、仮面を外したサイラスの目尻のシワがそれを証明していた。
「はじめまして。こうしてお会いするのは初めてですが、あなたのことはリリーから良く聞いていますよ。実際にお会いできて嬉しく思います」
「こ、こちらこそ、お会いできて光栄です、伯爵」
モリーも慌てて仮面を外し、挨拶をする。
そこで初めて、モリーが眼鏡をかけていないことに、リリーは気が付いた。
さぞ、不便だろうと思ったが、モリーはむしろ都合が良いと言う。
リリーはもちろん、サイラスも首を傾げた。
「視界がぼやけた方が良いのよ。ほら、緊張しないから」
なるほどと、リリーは頷き、対してサイラスは先ほど以上に首を傾げた。
無理もない。
彼は、夜会で緊張したことなどないのだろう。
こればかりは、内向的な人間にしかわからない感覚だった。
「見えなければ、相手の視線や態度も気にならないということよ」
そう説明すると、サイラスはわかったようなわからないような表情で頷いた。
彼なりに理解しようとしているのだろうが、難解なパズルを解くような表情がおかしくて、リリーはモリーと顔を見合わせて笑った。
サイラスは特にそれを不快には思わなかったようで、肩をすくめた後、器用に仮面を付け直した。
それに合わせて、モリーもどこに仕舞っていたのか、いつもの眼鏡を取り出してかけた。
「粗相をする前にかけておいた方が無難だから」と言うモリーが、眼鏡の上から仮面を付け直し始めたので、リリーも一緒に手伝った。
モリーの仮面は、少し複雑な作りだったのだ。
「よし、これでいいと思うわ」
「ありがとう、リリー」
「とても素敵よ。何だか……今日はいつもと雰囲気が違うわね」
チラリとドレスを見やると、モリーは耳を赤くしながら、リリーの耳元で囁いた。
「彼が来ているの」
リリーはハッとした。
モリーが言う"彼"とは、将来を約束したという歳下の恋人のことだろう。
先日、夜会のためにドレスアップしていたのも、今夜、眼鏡を外していたのも彼が理由なのかもしれない。
五年前は、家の都合でまだ結婚は叶わないと言っていたが、もしかすると、そろそろゴールインするのだろうか。
「彼がシュミーズ・ドレス姿を見たいって言うから勇気を出して着てみたんだけれど……やっぱり恥ずかしくて。そもそも、彼の姿も見当たらないし。その、もし良ければ……」
「ショールね?もちろん、貸すわ」
羽織っていたショールをさっと差し出すと、モリーは安心したように、体に巻き付けて肌を隠した。
ようやく人心地ついたといった風に、ため息を漏らすモリーを、リリーも安堵しながら見つめる。
「どうもありがとう、リリー。本当に助かったわ。やっぱり、慣れないことはするべきじゃない……って、あ」
「どうしたの?」
「まずいわ、お母様がいる。どうして、ここがわかったのかしら」
「ちょっと待って。家の人には、ちゃんと言ってから来たのでしょう?」
「言ったけれど反対されて。仕方なく、叔母様に泣き付いて、連れて来てもらったのよ」
それはまずいわと、リリーは思った。
モリーの母親は、こういう趣向の集まりを毛嫌いしている。
昔、彼女が仮面舞踏会は海外からの悪影響だと断言していたのを思い出し、リリーは焦った。
モリーも同様らしく、その表情は強張っていた。
「わ、わたし、帰るわ。お母様は、まだわたしに気付いていないみたいだし。リリー、ごめんなさいね。無理やり付き合わせちゃったのに」
「わたしは構わないけれど……」
「ショールは後で返すわ。伯爵も、迷惑をおかけしました」
「いや、わたしは別に……」
言葉尻の様子から、リリーだけでなくサイラスもまた、母親にちゃんと説明して謝った方がいいのではないかと思っているのが見て取れる。
が、それを伝える前にモリーは逃げるように立ち去ってしまった。
何とも複雑な気持ちが去来する。
結局、モリーはあんなに恥ずかしい思いをしてドレスを着たり、黙って仮面舞踏会に参加して母親を心配させたりしたにも関わらず、恋人には会えずじまいだったのだ。
そもそもモリーの恋人は、こういう羽目を外すような集まりが好きな時点で、良くも悪くも今時の若者なのだろう。
つまり、モリーの母親が嫌がるタイプの青年だった。
「まあ、色々事情があるんだろう」
「え、ええ」
結局、リリーにはそれ以上のことは何も言えず黙り込んだ。
モリーの夢である恋人との結婚が叶うのは、なかなか先のことになるのではないかと悟って。
「レディー・リリーですか?」
「はい?」
モリーが去った方向を悩ましげに見つめていたリリーは突然呼ばれ、反射的に振り返った。
思わず「あ」と声が漏れたのは、そこに思わぬ人物を見とめたからだ。
「もしかして、アリソンとシルビア?」
「はい!」
「お久しぶりです」
仮面を外して微笑むアリソンとシルビアに、リリーも笑みを返した。
以前、舞踏会で知り合った二人とは、その後も付き合いが続いていた。
アリソンに借りたショールのお礼がてら、リリーが晩餐会に招いたのがきっかけで、その後は逆にアリソンたちの家のお茶会に誘われたこともあった。
朝の散歩で顔を合わせる機会も多く、現在進行形で親密な関係を築いている。
悪評ゆえに親しくできる人があまりいないリリーにとって、アリソンとシルビアの存在は本当にありがたかった。
「伯爵も、お久しぶりです」
「ええ。最近、良く会いますね」
「はい。今夜は約束していないのにお二人に会えたから、何だか余計に嬉しく思います」
「わたしたちもですよ」
サイラスとも既に、顔見知りとなっているアリソンとシルビアである。
親しげなやり取りを見ていて、リリーは意味もなく嬉しくなった。
「ところで、お二人が今夜ここに来ていることをご両親はご存知ですか?」
サイラスは、アリソンとシルビアのことをまるで妹のように心配していた。
先ほど、モリーの件があったので尚更なのかもしれないが。
「ああ、それなら大丈夫です。実は、今回の主催者はわたしたちの従兄弟なんです。だから、両親も良い顔はしませんでしたが、大人しくしているなら参加自体は構わないと言ってくれました」
アリソンがハキハキ言うと、その隣でシルビアが静かに頷く。
何とも対照的なこの二人、実は姉妹だと知ったのは、つい最近のことである。
知った時は、あまりに個性が違うので驚いたが、顔の作り自体はよく似ていたので、姉妹というのも頷けた。
ちなみに、シルビアが姉でアリソンが妹である。
「従兄弟は派手好きなので、こういった趣向に目がないんです。でも、まさか伯爵たちが参加されているとは思いませんでした」
「わたしたちは……友人の付き添いみたいなものだから」
その当の本人は母親から逃げるように帰ってしまったのだが、わざわざ説明することもない。
リリーは気を取り直すように、アリソンとシルビアに笑いかけた。
「ところで、先ほどから気になっていたのだけれど、あなたたちが着ているドレスって、もしかして」
「はい、シルビアが作りました!ね?」
「うん。肩を出しすぎると、お母様がうるさいので、逆に肩周りをレース飾りで華やかにして、肩を隠してみました。レディー・リリー、どうですか?」
「素敵よ。上品だけど今風で、すごく目を惹くわ。裾の刺繍もまるで本物のお花みたいで、ため息が出そうだもの」
これが全て、シルビアの細い指から作られたというのだから、本当に信じられない。
これほどのセンスと技術があるにも関わらず、趣味で終わっているとは、つくづく勿体なかった。
本人も夢はデザイナーだと言っている。
それを叶えられるだけの技量があっても、女性で貴族というだけで諦めなければならない現代社会の、何と理不尽なことか。
「本当に良く出来ていますね」
サイラスは感心したように言った。
何やら考えるような素振りで、ドレスを見つめている。
それが恥ずかしかったのか、シルビアは何度も顔を手で扇いだ。
お礼を言いながらも視線が忙しく彷徨っているのが、何ともシルビアらしい。
「そういえば、シルビア。あの詩集はもう読んだのかしら?」
「あ、はい」
サイラスの視線がリリーに移ったからだろうか。
シルビアはホッとしたように微笑んだ。
「さっそく読ませていただきました。お勧めいただきありがとうございます」
以前、お茶会に誘われた時、お勧めの詩集があれば教えてくださいとシルビアに言われ、リリーは迷うことなく、亡き夫ジェイソンに貰ったあの詩集を勧めた。
情熱的な情愛を描いた詩が多く、出版は古いものであったが、有名な詩集であることに変わりはないので、一度読んでおいた方がいいと思ったのだ。
偶然、シルビアの家にも同じ詩集があったようで、勧められてすぐに読んだのだろう。
「わたしも読みましたよ」
「あら、アリソンも?読んでみてどうだったかしら。二人とも気に入った詩はあった?」
「では、わたしから。わたしは四ページ目の詩が好きです。他に好きな女性がいる殿方を愛してしまった女性の恋だなんて、悲劇的だけれど、とてもロマンティックで素敵でした」
あの詩集の中で、最も情熱的な詩の一つを挙げるアリソンに、彼女らしさを感じたリリーは微笑んだ。
シルビアの返答はどうだろうかと顔を向けると、彼女は少し考える素振りをしていた。
「そうですね、わたしは個人的に百十四ページの詩が心に残りました。家庭的な雰囲気がとても素敵だと思います」
リリーは、おや?と眉をあげた。
シルビアが言っているのは、リリーが一番気に入っているあの家族の愛を綴った詩だった。
家族の日常を詩とも言えないようなさりげない文体で書いてあるので、世間的にあまり評価されていない詩ではあるのだが、シルビアが気に入ってくれたと聞き、リリーは大層嬉しかった。
「わたしも、あの詩が一番好きなの。一緒ね」
同志を得たような気持ちで微笑むと、隣のサイラスが興味深そうに口を開いた。
「わたしも読んでみたいな」
リリーは思わずサイラスを仰ぎ見た。
彼が詩に興味があるとは思わなかったのだ。
しかし、以前、二人で観劇に行った際、真剣に舞台を鑑賞していたサイラスを思い出したリリーは、一人納得して頷いた。
「じゃあ、家に帰ったらエルバートに頼んで詩集を取り寄せるわね」
「ああ、ありがとう」
満足気に頷くサイラスに、彼は芸術一般に関心があるのだろうと考えを改めるリリーだった。




