58
ハロルドと別れてから、リリーは考えに耽っていた。
エイミーのこと、ハロルドのこと、サイラスのこと、そして、自分自身のこと。
考えるべきことは多かった。
特に、七年前のことが頭を離れない。
ジェイソンの死を引きずっているのは自覚していたが、それは自身に課せられた罰だと思っていた。
残りの人生の全てをかけて、悔い改めるのだと信じていた。
もしかしたら、他の道もあったのかもしれないと考えるようになったのは、つい最近のことで。
それさえも、半信半疑ながら自問自答している段階なのだ。
今のままでいいのか、自分はどうあるべきなのか。
何度も問いかけては答えを見つけられず、リリーは途方に暮れた。
どれくらいの間、そうしていたのだろう。
肌を刺すような冷気が、リリーの体に絡みついた。
寒いわと呟き、リリーは腕をさすった。
今夜は風が強く、一段と寒い。
周囲を確認し、大きな窓が開いているのを発見したリリーは、冷気の原因はこれかと見当をつけた。
閉めようと手を伸ばし、しかし、そこでリリーの動きは止まる。
窓の外、暗闇の中で人影が動いたような気がしたからだ。
ここは一階なので、誰かがいてもおかしくはない。
そう思って目を凝らしてみるものの、正体は判然としなかった。
ただの見間違いかもしれないが、先ほど怖い思いをして神経が過敏になっているリリーは、慌てて窓を閉め、踵を返した。
その時。
ドンドンと窓を叩く大きな音が背後から響いた。
反射的に振り返る。
窓の外に黒い影が揺れるのが見え、リリーは飛び上がった。
締め出された使用人が窓を叩いて開けてくれと合図している可能性もあるが、使用人ならば戸口を使うはずだ。
わざわざ窓から出入りなどしない。
それは招待客も同様だろう。
ということは、つまり……。
そこまで考え、リリーは一歩後ずさった。
とりあえず、この場を離れ、誰か呼んで来よう。
そう思っていたら、突然、窓ガラスが割れた。
なぜ?と思う間に、窓の外、割れたガラスの隙間から手のようなものが伸びてくるのが見えたものだから、リリーは心底震え上がった。
脱兎のごとく、踵を返して来た道を戻る。
足をもつれさせながら、廊下の角を曲がったその先、リリーは誰かとぶつかった。
倒れ込まなかったのは、大きな手がしっかりとリリーを支えてくれたおかげだった。
「……え、サイラス?」
まさか、彼がこんな所にいるとは思わず、リリーは驚目をみはった。
「なぜ、ここに?」というのが、表情に現れていたのだろう。
尋ねるより早く、サイラスが言った。
「君に会えないかなと思って、晩餐会場を出てきたんだ。実は、話したいことがあって」
「本当に会えるとは思わなかったけれど」と頬を掻いたサイラスは、ふとリリーを見つめ、目を細めた。
「どうかした?顔色が悪いけれど」
「そ、それが、割れて、手が……」
「落ち着いて。ゆっくりでいいから」
優しく腕を撫でられ「大丈夫だから」と何度も囁かれる。
そのサイラスの声音が穏やかだったからだろうか。
不思議と気持ちが落ち着いてくるのを、リリーは感じた。
深呼吸を何度か繰り返し、ゆっくりと口を開く。
「……取り乱してごめんなさい。さっき、窓の外から人影を見たような気がして。その後、窓ガラスが割れたものだから怖くなってしまったの」
「何だって?」
サイラスは怪訝そうに廊下の先を見つめ、すぐにリリーに視線を戻した。
彼が悩むそぶりを見せたのは一瞬だった。
「とりあえず一緒に居間に戻ろう。その後、わたしが一人で確認しに……」
行くと続けるつもりだったのだろうが、サイラスは口を閉ざした。
廊下の先から足音が聞こえたからだ。
まっすぐ、こちらに向かってやって来るのがわかったのだろう。
サイラスの行動は早かった。
震えるリリーの手を引き、庇うように一歩前に出る。
そのタイミングで、曲がり角から顔を出した人物と、リリーの声が重なった。
「え?」
「え?」
驚く二人を尻目に、サイラスは冷静だった。
知り合いかと尋ねるサイラスに、リリーは急いで頷いた。
「知り合いというか、ここの使用人の人よ。先ほど料理を給仕してくれたの」
スープを零してしまった従僕の顔は良く覚えている。
粗相をして青ざめる彼は、見ているだけで可哀想だったから。
「あなた、わたしのことを覚えている?」
「は、はい。もちろんです。あの節は、どうもありがとうございました」
そう言って頭を下げた従僕に、サイラスは単刀直入に尋ねた。
「君は、どうしてここに?もしかして、先ほどまで外にいなかったか?」
「え?僕はずっと厨房と晩餐会場を行ったり来たりしていましたから、外には出ていません。ちょうど廊下を歩いている時に、何かが割れる音がしたので確かめに来たんですよ。先ほど、ボヤ騒ぎもあったようなので、ちょっと気になって。そうしたら、窓ガラスが割れているのを見つけたので片付けようと思ったんです。その時、こちらから話し声が聞こえたので覗いたんですが。お二人を驚かせてしまったみたいで、申し訳ありません」
「いや、別に構わないんだが……ちなみに、どうして窓ガラスは割れたのかな」
「よくわかりませんが、近くに木の枝が落ちていたので、強風で飛んできたのが当たったのかもしれません」
リリーはホッと息を吐き出した。
勘違いだったことに安堵しつつ、過剰反応してしまった自分が恥ずかしい。
きっと手のように見えたのが木の枝で、人影はそもそも見間違いだったのだろう。
リリーは申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい。わたしの早とちりだったみたいね」
「……でも、一応確認して来るよ」
「そう?じゃあ、わたしも行くわ」
「リリー、無理しなくてもいいんだよ?」
「大丈夫。わたしなら平気よ」
「だって、勘違いだったんだし」とリリーが言うと、サイラスは少しだけ間を開けて「そうだね」と頷いた。
そのまま三人で割れた窓ガラスを確認しに行くと、従僕が言った通り、折れた木の枝が落ちていた。
もちろん人影などない。
やはりリリーの見間違いだったのだろう。
何だか肩透かしをくらったような気分で、リリーはサイラスを見やった。
「嫌だわ、わたしったら大げさに騒ぎ立てちゃって……って、どうかしたの、サイラス?窓の下ばかり見つめて」
窓から身を乗り出しているサイラスにリリーが首を傾げると、彼はすぐに顔を引っ込めた。
懐に手をやり、微笑みながら言う。
「何でもないよ。ここは寒いから、もう行こう」
「え、ええ」
「後は、僕が片付けておくので、お二人はお戻りください。場所はわかりますか?」
「ああ、大丈夫だ。ありがとう。さあ、リリー、行こう」
「わかったわ」
サイラスに促され、その場を後にする。
サイラスはしばらく考え込んでいる様子だったが、居間に戻る道すがら、こう切り出した。
「リリー、今日はもう帰ろう」
「え?でも、失礼じゃないかしら」
「どっちみち、もう夕食は終わっているんだ。あと一時間もすれば解散だし、大丈夫だろう」
「わたしは、あなたがいいなら別に構わないけれど」
「じゃあ、支度を。挨拶してから帰ろう」
リリーは頷きながらも、珍しいなと思った。
このようなプライベートな集まりで、サイラスはよほどのことがない限り、礼を失するような言動はしない。
早く帰りたいのはエイミーの存在があるからだろかと考え、そういえばまだエイミーたちのことをサイラスに話していなかったと気付く。
話すなら、このタイミングかもしれないと思った。
だから、リリーは屋敷のホストに挨拶を済ませたその帰り道、馬車の中で思い切って切り出した。
「あの、サイラス。少し話したいことがあるんだけれど、いいかしら」
「ん?ああ、もちろんだ」
「そういえば、あなたもさっき話したいと言っていなかった?良ければ、先に……」
「いや、君からでいいよ」
そう言われ、リリーは居住まいを正した。
サイラスと向かい合う形で、視線を合わす。
昔なら緊張していた場面だが、今は不思議と平気だった。
サイラスがきちんと耳を傾けてくれることがわかっているからだろうか。
深呼吸を一つ、リリーは口を開いた。
五年前のエイミーとのこと、今夜のハロルドの件、全てを話す。
その間、サイラスは一切口を挟まなかったけれど、表情は常に固かった。
何を考えているのか、正確にはわからない。
何となく怒りや不安、焦りのようなものを感じただけで。
それさえも、リリーの勘違いかもしれないのだ。
サイラスが口を開いたのは、リリーが話し終わってしばらく経った後だった。
開口一番に「すまない」と謝られる。
帰って来てからのサイラスは、よく謝罪のことばを口にするようになったなと、リリーは場違いにも思った。
「サイラス、わたしは別に……」
「いや、君が怖い思いをしている時に駆けつけられなかったんだ。謝らせてくれ。これからの自分の言動の全てで君に償うと約束したのに、反故にしてしまった。エイミーとのことも事前に説明しておけば良かったと反省している。本当に申し訳ない」
サイラスは言わなかったが、先ほど彼が話したいと言っていたのは、エイミーとの関係についてではないだろうかと、リリーは考えた。
過去の女性関係について話されても戸惑うだけという人もいる。
しかし、少なくともジェイソンの時のように亡くなってから判明するよりは誠意がある対応だと、リリーは思った。
「もちろん、今夜のことはノートン伯爵に後で話をつけるけれど、そもそもこうなったのは過去のわたしが至らなかったせいだ。そのせいで、君に迷惑をかけることになってしまって、本当に申し訳ない」
「わたしは迷惑だとは思っていないわ。ただ、彼女は……」
「わかっている。エイミーとは、一度きちんと話し合うよ。本当は五年前にそうすべきだったんだ」
エイミーにも申し訳ないことをしたと自省するサイラスを、リリーは黙って見つめた。
五年前のサイラスなら、きっとこんなことは言わなかった。
自分の至らなさを恥じ、エイミーと誠実に向き合おうとは考えなかったはずだ。
ーーサイラス、あなたは本当に変わったのね。
以前も、同じように思った。
何が彼を変えたのだろうか、と。
そして、それを知りたいと思う自分がいることに気付かされるのだ。
きっと、リリーも変わらなければならないと心のどこかで思っていて。
サイラスの変化の理由に、その答えがあるような気がしたのかもしれない。
「……どうして帰って来たの?」
気付けば、口に出していた。
しまったと瞬時に思う。
余計なことを訊いてしまったと咄嗟に口元を覆い、サイラスを伺うように見上げた。
そして。
リリーは、息を呑んだ。
サイラスが、思いのほか優しげな瞳で、こちらを見つめたからだ。
どうして、そんな風に見つめるのだろう。
もちろん答えなど返って来ないことはわかっていたが、リリーは自問自答せずにいられなかった。
リリーの胸に、戸惑いと気恥ずかしさがない交ぜとなった複雑な思いが去来する。
リリーは目を逸らしたいような、逸らしたくないような不思議な感覚に陥った。
対して、サイラスはそんなリリーの感情の機微には気付いていないのか、気付いていて知らない風を装っているのか定かではなかったけれど、穏やかに言った。
「前にも言ったけれど、償うためだよ。君や母上、エルバートたち皆に。以前のわたしは本当に最低だった。今もそう変わってはいないし、まだまだ口先だけで結果は残せていないけれど……。でも、だからこそ少しでもまともな人間になれるよう努力したいんだ。君のおかげで変わりたいと思えるようになったから」
「え」
リリーはポカンと口を開けた。
傍目から見れば、さぞ滑稽な表情に映っただろう。
しかし、それに頓着する余裕は、リリーにはなかった。
今は、ただサイラスのことばに耳を傾ける。
「リリー、君ほど心根が優しい女性を、わたしは知らない。君といると、自然と心が暖かくなる。ただ傍にいてくれるだけで、優しい気持ちに包まれるんだ。わたしは、そんな君に恥じない人間になりたい。君がくれたものを、この喜びを、わたしの全てで返したいんだ。そのためには、きっと今までのわたしではいけない。そう思ったんだよ」
「……違う」
思わず、リリーは首を振った。
そして、もう一度「違うの」と呟く。
サイラスは勘違いしているのだ。
自分は決してそんな純真で善良な人間ではない。
サイラスが言ってくれたような、そんな美しい存在ではないのだ。
「もし善良な人間に見えたのなら、それはわたしが繕っているからよ。あなたに見せているのは、偽りのわたしなの。本当のわたしじゃない。あなたが思っているような人間じゃない。違うのよ。だって……だって、七年前わたしは……」
「違わないよ。七年前、何があって、君がどう思ったのか、詳しくはわからない。だけど、リリー、君は君だ。優しく穏やかな君だ。何も違わない」
本当に?
わたしの本心を知っても、あなたは本当にそう思ってくれるの?と、リリーは内心で呟いた。
七年前、ジェイソンの秘密を知り、親友だと思っていたフレデリックに裏切られたと知ったあの夜。
ジェイソンを恨み、フレデリックを蔑んだ。
リリーは初めて人を憎んだのだ。
窓ガラスに映る自分のその醜い表情を見れば一目瞭然で。
あの夜の自分は、間違いなく自身を失っていた。
汚い動物だった。
サイラスは以前、心を知りたいと言ってくれたけれど、リリーの内面は汚れている。
リリー自身でさえ、自分に嫌気がさし、その汚い感情を恥じているのだ。
サイラスだって、リリーの本心を知れば、きっと幻滅するだろう。
そう考え、ふと思う。
自分は、サイラスに嫌われたくないと思っているのだろうか、と。
誰しも、人には嫌われたくないものだ。
しかし、サイラスには元から毛嫌いされていたので、今さら自分の本性を知られるのを恐れる必要はない。
それでも、知られたくないと思う理由は一体、何なんだろう。
「リリー」
呼ばれ、リリーは肩を揺らした。
見れば、リリーの手にサイラスのそれが重なっている。
サイラスの大きな手は小刻みに揺れていた。
自分が震えていることを、リリーはその時、初めて知った。
「選択の連続で人の人生は成り立つと言うだろう?それはつまり、自分で自分を選ぶということだ」
「……自分を、選ぶ?」
「ああ。今の君は、過去の君が決断して行動した積み重ねの結果なんだ。だからこそ、わたしは強く思う。七年前と変わらず、君の心は美しいと。何一つ汚れてなどいない。君が昔、何を選んだのだとしても、君の本質がそれを証明しているんだ。それに、たとえ君が間違っていたのだとしても構わない。君は、それを正せる人間だから」
リリーは、手がじんわり温かくなるのを感じた。
人の温もりを、そう感じたのは久しぶりのことだった。
サイラスは、今のリリーを肯定してくれた。
過去の選択の結果、今があるのだとすれば、サイラスは七年前のリリーのこともまた受け入れてくれたということになる。
リリーは何だか救われたような気持ちになった。
ずっと誰にも言えず、一人で悩んできたからこそ、サイラスのことばが、リリーの気持ちを和らげてくれた。
間違ってもいいと言ってくれた。
間違っても、信じてくれる人がいた。
それはきっと 、とても幸せなことなのだ。
リリーはゆっくりと顔を上げた。
そこには穏やかなサイラスの笑顔があって、自然、リリーも微笑む。
それは泣き笑いのような、歪だけれど、間違いなく心からの笑みだった。
サイラスなら、きっと受け入れてくれるし、誰かに他言しないと思えたから、リリーは七年前のことを、たどたどしくもサイラスに話した。
ジェイソンを愛していたこと、フレデリックを大切に思っていたこと、その二人に裏切られて傷付いたこと。
その時の自分の汚い感情の全てを、リリーのことばで話して聞かせた。
それは初めてのことだった。
この七年間、ずっと秘めてきた思いが、止めどなく溢れる水のように流れていくのを、リリーは感じた。
それを、サイラスはただ黙って受け止めてくれるから。
リリーは思いの丈全てを吐き出すことができたのだ。
長い告白が終わり、サイラスが口を開いたのは、リリーが話し終わってしばらく経った時だった。
彼はただ静かに言った。
「悲しい」と。
「リリー、君が二人のことを許せないと思うのは当然だ。愛していたからこそ、許せないんだ。誰だってそうだよ。ただ、七年前、君にそれを言ってあげられる人が傍にいなかったことが、物凄く悲しい」
「それに」と、サイラスは続けた。
どこか遠くを見つめたまま。
憂いを帯びたその横顔を、リリーは見つめた。
「君は、まだ彼を愛しているんだね。だから、そんなに苦しいんだ。でも、君は賢いからわかっている。いつかは、彼の死と向き合い乗り越えなければならないことを。わたしも、そう思う」
リリーは俯いた。
サイラスの言う通りだったからだ。
いつまでも、過去を引きずっていてはいけない。
昔の悲しみに浸るのは楽だけれど、建設的ではなかった。
それは経験者であるサイラスだからこそ、言えることばでもあった。
今が前に進む時なのかもしれない。
サイラスのように、自分も変わりたいと思ったからこそ。
そのための強さが欲しかった。
リリーは、意を決して言った。
「……今日じゃなくていい?」
震えるような小さなその呟きを、サイラスは聞き逃さないでくれた。
「もちろんだ」と力強く頷く。
ただそれだけで、こんなにも気持ちが軽くなる。
それが、どんなに恵まれていることなのか。
リリーは初めて知った。
重ねられた手をギュッと握る。
優しく、サイラスも握り返してくれるから。
今はただこの手の温もりを感じていたいと、リリーは思った。




