57
豪華な夕食を前に、リリーは緊張していた。
テーブルマナーが覚束ないからではない。
招待客の一人に不安を覚えたのだ。
今宵、リリーはサイラスと共に、とある貴族の晩餐会に招かれていた。
お喋りと夕食を楽しみながら親睦を深める晩餐会だが、招待客の中にエイミーの姿を見て取ってからというもの、リリーの口は全く動かなくなった。
晩餐会のコース料理は品数が多く、全て食べる必要がないとはいえ、さすがに会話そのものをしない訳にはいかない。
それはホストに対して失礼にあたるからだ。
しかし、サイラスの眼前にエイミーが座っているという状況の中では、自然、リリーの口も重くなる。
女主人が招待客たちの会話が盛り上がるよう熟考に熟考を重ねて席順を決めたのだろうが、昔二人が付き合っていたということは知らなかったらしい。
リリーは不安そうに、エイミーを盗み見た。
風の噂で、二回りも歳が離れたノートン伯爵と結婚したと聞いていたが、既婚者となった今もエイミーの美しさは健在だ。
彼女と初めて出会った時、大輪の花のような女性だと思ったが、五年経った今は、その美しさにさらに磨きがかかり、艶やかさも加わった魅力的な女性へと成長している。
今夜はエイミーの夫であるノートン伯爵も来ているだろうに、周囲の男性たちがエイミーの気を引こうと必死に話しかけているのも、ある意味頷けた。
ーーでも、彼女はサイラスにしか興味がないみたいね。
他の人には目もくれず、サイラスにばかり話しかけているエイミーは、未だにサイラスのことが好きなのかもしれない。
対してサイラスは、表面上は普段通りで、終始にこやかにエイミーと接していた。
しかし、自分から話を振ることは一切ない。
ーー五年前も思ったけれど、サイラスは彼女と一度きちんと話し合った方がいいんじゃないかしら。
以前のエイミーには、サイラスから愛されて当然という、あの若い年頃特有の無鉄砲さがあった。
それは大人の女性になった今も変わらないように見える。
ーーサイラスは、そのことに気が付いているのかしら。
五年前はサイラスもまだ若く、その辺りの配慮に欠けていたように思う。
しかし、今なら。
いや、お互いに歳を重ねた今だからこそ、胸襟を開いて話し合えることもあるのではないだろうか。
ーーそれに最後に会った時、彼女はどこか様子がおかしかったわ。
エイミーが何かに怯えるように取り乱していたことを、今でも鮮明に覚えている。
この五年、気になってはいたものの直接尋ねることなく今まで来てしまったが、ずっとあれはサイラス絡みだったのではないかと思っていたのだ。
リリーは心配そうにエイミーを、次にサイラスを見つめた。
その時。
「クレソンのスープ」
「え?」
突然、横合いから話しかけられたリリーは、サイラスたちから視線を外して隣を見やった。
気風が良さそうな、やたら体格のいい男性と目が合う。
彼は何となくリリーの反応を観察しているようだった。
「あの……何でしょうか?」
「君の目の前にある料理だ。美味しいから、従僕を呼んで取り分けてもらうといい」
「え、ええ」
正直、食べる気分ではなかったが、言われるがままに給仕を頼む。
スープが注がれていくのを、リリーは大人しく待った。
すると、どうだろう。
給仕の最中、従僕の手が震え、辺りに何滴かスープの雫が滴り落ちてしまったではないか。
見れば、従僕はまだ若く、重いスープ鉢を片手に抱えての給仕だったので、手元が狂ったのだろうと思われた。
青ざめる従僕を、リリーは気の毒に思い、何も気付いていない風を装って、テーブルナプキンで雫を拭き取ってあげた。
「あ、あの……」
「もう十分よ。どうもありがとう」
何か言いかけた従僕に、ニッコリ微笑む。
従僕は恐縮したように礼を取って、そっと後ろまで下がった。
それを横目で確認しながら、何食わぬ顔でスープを口に運ぶ。
「……意外だ」
またしても、横合いから声がかかり、リリーは手を止めた。
「何でしょうか?」
「ん?ああ、スープだよ。意外なほど美味しいだろう?」
「え、ええ」
リリーは、とりあえず頷いた。
確かに、クレソンのほろ苦さが、すっきりとしたシンプルなスープの美味しさに繋がっている。
「もしかして、お料理にご興味が?えーと……」
「ハロルドと呼んでくれ。ちなみに、特に料理に興味はない。君に興味はあるがね」
「え?」
「俺は、退屈な晩餐会に辟易しているんだ。だから、どうだい?これから、二人で抜け出すというのは。君が俺の知的好奇心を満たしてくれるとありがたいんだがね」
冗談にしては際どいなと、リリーは思った。
ハロルドと名乗った男性は、酔いが回っているのかもしれない。
「残念ですが、ご期待には添えませんわ」
リリーは無難に返した。
失礼に当たらない程度に、冗談めかして言う。
「わたし、デザートに目がないんです。わたしの知的好奇心を満たしてくれる唯一のものですわ」
「なるほど。俺は、デザートに負けたという訳か」
そう言って豪快に笑うハロルド。
演技ではなく、本当に面白そうに笑うので、彼の機嫌を損ねた訳ではなさそうだった。
リリーが内心で安堵していると、リリーとは反対側に座る女性客がハロルドに声をかけた。
どうやら、先ほどのやり取りが聞こえていたらしく、女性もからかうような口調だった。
「あら、こちらにはお声をかけてくださらないのかしら。わたくしはデザートよりもよほど、あなたに興味がありますのに」
「お、あなたはお目が高いな」
ハロルドの関心が隣に座る女性に移ったのを感じ、リリーは内心でホッと息をついた。
そのまま、何事もなかったかのように食事を再開させる。
それ以降、ハロルドはリリーに絡んでくることはなかった。
しかし、何となく視線は感じていて、リリーは終始、居心地が悪かったけれど表情には一切出さなかった。
なんとかデザートまでこぎつけた時、リリーが心から安堵したのは言うまでもない。
対照的に、サイラスはどこか不安そうに、デザートを食べ終えたリリーたち女性客が居間へ移動するのを見送っていた。
そういえば、サイラスはエイミーとの関係をリリーが知っているということも、五年前、二人が隣国で顔を合わせていることも知らないのだった。
リリーがいきなり、エイミーからサイラスとの関係を知らされて驚くのではないかと心配しているのかもしれない。
後で、それとなく五年前のことをサイラスに話しておくべきだろうか。
そう考えながら、居間に移動したリリーは、自然、エイミーを探して辺りを見渡した。
だが、お手洗いにでも行っているのか、エイミーの姿はない。
何だか肩透かしを食らった気分で、リリーは手近な椅子に座った。
とりあえず紅茶を手に取り、カップを口に付けようとしたのだが……。
「あなたは赤ワインの方が良いのではなくって?」
ふと話しかけられ、リリーは顔を上げた。
リリーよりも若い女性と目が合う。
ツンとした鼻先が印象的な、なかなかの美人だった。
だが、彼女の瞳は笑っていない。
リリーは嫌な予感がした。
「使用人に頼んで、赤ワインを用意してもらったら?もちろん、ビーツも一緒に」
クスクスと笑いながら言われ、リリーはすぐに察した。
彼女は以前、リリーが舞踏会でドレスにワイン染みをつけたことを知っていて冷やかしているのだ、と。
リリーは、どう対応すべきか逡巡した。
まともに取り合えば、雰囲気が悪くなってしまう。
それは、この晩餐会の失敗を意味していた。
屋敷の女主人の評価にも関わるので、迷惑をかけてしまうのはかなり忍びなかった。
リリーは、ちらりと周囲を確認した。
幸運にも、近くに人はおらず、少し離れた所でおしゃべりしている女性客たちは、リリーたちのやり取りには気付いていないようだ。
リリーはカップを置いて、そっと立ち上がった。
「それも、いいかもしれませんね」
にっこり微笑み、ドアを目指す。
傍目からは、お手洗いにでも行くように見えますようにと願いながら。
「ごゆっくり」と勝ち誇ったように言う女性の視線を背中に感じながら、リリーは居間を出た。
廊下を何歩か歩き、近くの壁にもたれる。
よくあることとはいえ、人から揶揄されると気持ちが沈むものだ。
リリーは知らず、息を大きく吐き出した。
その時。
「女性というのは恐ろしいな。綺麗な花には棘があるというが、あれは頂けない」
思ってもいない人物の登場に、リリーは心臓が飛び出るかと思った。
壁にもたれながら、面白そうにこちらを見つめているのは、ハロルドだった。
男性客は今頃、夕食を食べた同じ部屋で、ワインを飲んだりタバコを吸ったりして過ごしているものとばかり思っていたのに。
「お、驚かせないでください。心臓に悪いです」
「これは失敬。驚かすつもりはなかったんだが。むさ苦しい連中と一緒にいるのが嫌になって抜け出して来たんだよ。そうしたら、たまたま居間の前で可憐なレディーの話し声が聞こえてしまってね。いやあ、最近のお嬢さんは随分と意地悪な物言いをする」
絶対に、たまたま聞こえたんじゃないわと、リリーは思った。
先ほどの女性は、それほど大きな声で喋っていたわけではない。
居間にいた他の女性客たちでさえ、自分たちの会話に夢中で、先ほどのやり取りはほとんど聞こえていなかったはずだ。
それが聞こえたというのは、つまり……。
「行儀が悪いと言いたそうだね。まあ、そこは否定しないが」
ハロルドはニヤリと笑った。
まるでいたずらを見つかった少年のように。
「ビーツというのが何を指しているのかはわからないが、あのレディーは君を傷付けようとして言ったのだろう?俺は、そんな君を慰めたいだけだ」
「……いえ、お気持ちだけで結構です」
リリーは、慎重に言った。
何となく嫌な雰囲気を感じ取ったからだ。
居間に戻ろうと踵を返す。
しかし、それは叶わなかった。
「……退いてください」
眼前に立ちはだかるハロルドに、リリーは声を低くして言った。
素早い動きで、リリーの前まで移動したハロルドに、何とも言えない恐怖が募る。
「今すぐ退いてくださらないと、人を呼びますよ」
「俺は構わない。評判を気にするようなタイプじゃないしね。でも、それは君も同じだろう?」
フレデリックとの関係を指して言っているのは明白だった。
もちろん、ハロルドが思っているような関係ではないが、リリーがそれを説明した所で意味などない。
噂や評判など、そんなものだ。
「何をおっしゃりたいのかわかりませんわ」
眉をひそめると、ハロルドは興味深そうにリリーを見下ろした。
「わからないなら、知ればいい」
そう言って、身を屈める。
「俺が教えてあげよう。もちろん、二人っきりで」
色気ある声音で迫られ、リリーは身の危険を感じた。
今までにも、リリーの評判ゆえに言い寄ってくる人物はいたが、これほどあからさまに迫られたのは、さすがに初めてだった。
リリーは急いで方向転換して、逃げようとしたのだが……。
「きゃっ?!」
慌てていて、ドレスの裾を踏んでしまったリリーは、その場に膝をついた。
鈍臭い自分が、ただただ恨めしい。
「おい、大丈夫か?」
「嫌っ!触らないで!」
ハロルドに手を差し出され、反射的に拒む。
怯えた表情で見上げると、ハロルドは困ったように髪をかきあげた。
どういう訳か、今はもうあの誘惑的な雰囲気は霧散していて、むしろ申し訳なさそうな表情を浮かべている。
逃げるなら今だと、リリーは思った。
急いで立ち上がって、居間とは反対方向へと駆け出す。
「走ると、また転ぶぞ」
よくわからない心配をするハロルドのことばには振り返らず、リリーはそのまま走った。
手頃な個室を見つけ、扉を閉める。
しばらく廊下を伺ったが、ハロルドが追いかけてくる様子はなかった。
リリーは心底安堵し、その場に座り込んだ。
今頃になって、全身の震えが止まらない。
リリーは膝を抱えて、恐怖がおさまるのを待った。
どれほどの間、そうしていたのかはわからない。
心臓の鼓動が少し落ち着きを取り戻した頃、リリーは、びくりと肩を揺らした。
突然、廊下で言い争うような声が聞こえてきたからだ。
「もう、いい加減にして!」
どこかで聞いた声だと思った。
記憶をたどり、とある人物の顔が浮かぶ。
ーーもしかして、レディー・エイミー?
正直、ハロルドの件があったので、廊下に出て行きたくなかったのだが、何やら揉めている様子だったので、心配で放っておくことができなかった。
リリーは震える足を叱咤し、立ち上がる。
扉をゆっくり開けて、周囲を伺った。
言い争いは、廊下の曲がり角から聞こえてくる。
リリーは、ゆっくりと近付いた。
「何度も言わせないで!わたしは、あなたなんて好きじゃないの!」
「嘘だ。君は僕を見て微笑んでくれていたじゃないか」
「勘違いはよして!あれは、あなたに向けて笑ったんじゃないわ!」
「嘘だ!そもそも、この間のパーティーで声をかけて来たのは君じゃないか!」
何やら雲行きが怪しいなと、リリーは思った。
見れば、エイミーに言い寄っている男性は、この屋敷の息子だった。
誰かを呼んで助けてもらうにしても、屋敷の者がいいのか、ここに来ているであろうエイミーの夫がいいのか、判断に迷う。
立場上、いろいろな意味で問題になりそうだった。
だが、そう考えている間にも、二人のやり取りは白熱していく。
悠長にはしていられなかった。
リリーは、とりあえず屋敷の使用人を探すべく、踵を返そうとしたのだが……。
「痛いっ!離してよ!」
物理的な暴力を感じ取り、咄嗟にリリーは声を上げた。
「火事だー!」
この国では昔、都市大火と呼ばれる大規模火災が起こり、建築物の八割が消失したことがある。
今は木造建築ではないので、都市大火の時ほど被害は拡大しないだろうが、実際に体験したことがない若い世代でも、昔から伝え聞いている火事の恐怖は身に刻まれていた。
当然、エイミーたちも例に漏れず、青ざめた表情でお互いを見つめている。
「か、火事?まさか……」
「ど、どうするのよ」
発災時にショック状態になる人が多いのは、心理的によくあることだ。
エイミーたちも呆然として何もできない状態に陥っているようだったが、とりあえず言い争い自体は止まった。
後は、上手く立ち回ってエイミーを連れ出せばいいだけなのだが……。
「んっ?!」
突然、背後から手が伸びてきて口元を覆われたリリーは、恐怖で身がすくんだ。
「俺だ、ハロルドだよ」
「んんっ?!」
さらに怯えるリリーに「まぁ、そうなるよなー」と苦笑したハロルドは、意識して声音を和らげているようだった。
「俺は、エイミーの夫だ」
「!!」
「今から手を離すけど、叫ばないでくれよ?お願いだから」
優しい手付きで解放されたリリーは、急いでハロルドから距離を取った。
警戒しながら振り返ると、ハロルドは人差し指を立てて呟いた。
「エイミーを連れ出してくる」と。
リリーの反応を待たずに、ハロルドは大股で廊下の角を曲がって行った。
「えっ?」
「は、ハロルド?」
ハロルドの突然の登場に、エイミーたちはかなり驚いた様子だった。
しかし、それも一瞬のことで。
「なぜ、ここに……じゃなくて、そうだわ!火事が!」
「わかってる」
急いで駆け寄るエイミーに、ハロルドは頷いてみせた。
芝居掛かった様子で、ハロルドは顎に手をやる。
「でも、おかしいな。炎も煙も見えないぞ。もしかして、すでに消火されたんじゃないか?ご両親に、確認してきてもらえるとありがたいんだが」
最後は、男性に向かって言うハロルド。
何となく有無を言わせぬものを感じたらしく、男性はエイミーをチラチラ見ながらも頷いた。
「ああ、先ほどあちらでご両親を見たよ」
リリーが居る方とは反対側を指差し、男性を誘導したハロルドは、完全に男性の姿が見えなくなるまで見送った後、肩をすくめた。
その姿は何とも堂に入っている。
ハロルドは、呆れたようにエイミーを見下ろした。
「まったく。このじゃじゃ馬め。鎖で繋いだ方がいいんじゃないか?」
「な、何よ!わたしが悪いわけじゃないわ!」
「嘘つけ。そもそも可笑しいと思ったんだ。急に、晩餐会に招待されて」
「それは、わたしが夫人に気に入られているからよ」
「息子に、の間違いじゃないのか。どうせ色目を使って、招待されるように仕向けたんだろう」
「い、言い掛かりよ!」
「さっき、あいつが言っていただろう。この間のパーティーで君から話しかけられたって」
「そ、それは……」
「いくら、ブラッドフォード伯爵に会いたいからって、若者を誑かすのは如何なものかと思うぞ。君ときたら、男を勘違いさせた挙句、撥ね付けるんだからな」
エイミーのおでこをピンと弾いたハロルドは、文句を言って怒るエイミーを見下ろしながら、ニヤニヤと笑っている。
二人のやり取りから、本当にハロルドがエイミーの夫ノートン伯爵なのだと理解したリリーは、しきりに目を瞬かせた。
ノートン伯爵といえば、ダレンよりも歳上だと聞いている。
正直、こんなに若々しく、明け透けな物言いをする人物だとは思っていなかったので、かなり驚かされた。
そして、若々しいと評された当のハロルドはというと、その期待に応えるかのように無邪気に笑っていたのだが、ふと思い出したといった風にリリーの方を見た。
リリーは反射的に身構える。
しかし、ハロルドが笑いながら手招きするものだから、悩んだ末におずおずと進み出た。
「何で、ここにあなたがいるのよ!」
リリーを見た瞬間、毛を逆立てる猫のごとく不機嫌顔になったエイミーに、ハロルドはまたしてもおでこをピンっとはたいた。
「痛っ!何するのよ、酷いじゃない!」
「それは、君の方だろう。最初に、火事だと言ってあいつから助けてくれたのは、レディー・リリーだぞ?お礼を言うべきだ」
「そ、そんなこと頼んでいないわ!」
「エイミー」
幼子を諭すような声音のハロルドに「知らない!絶対にお礼なんて言わないんだから!」と言い放ち、駆け出したエイミー。
ハロルドはため息混じりに首を振った。
「申し訳ない。後で、きちんとお礼を言わせるよ」
「い、いえ。彼女の言う通り、わたしが勝手にしたことですから、別にいいんです」
ハロルドは何も言わなかった。
ただ、思わずといった感じで微笑んだだけで。
先ほど迫られた時のような色気ある雰囲気ではなく優しい笑みだったので、リリーは正直、戸惑った。
「君は優しいな。そんな性格では、損をするだけだろうに。いや、すまない。これは決して悪い意味で言った訳じゃないんだ」
ハロルドは困ったように髪をかきあげた。
そうしていると、年相応に見えるから不思議だなと思う。
ハロルドという人物は、リリーが思う以上に様々な顔を持っているのかもしれなかった。
「エイミーもだが、俺も言わなければならないな」
「え?」
「さっきは怖がらせてしまって、本当に申し訳なかった。悪戯が過ぎた」
貴族の男性が自身の非を認めるのは珍しい。
しかも、こんなにアッサリと。
女性のリリーに対して頭を下げるハロルドを、リリーは困惑気味に見つめた。
正直、あの時のハロルドは、リリーを怖がらせるには十分過ぎた。
悪ふざけだったにしても、タチが悪い。
しかし、彼の言動にはいつもどこかリリーを見極めるような素振りがあり、本気でリリーをどうこうするつもりはなかったようにも思う。
リリーとの体格差は言うに及ばず、実力行使に出られれば女性であるリリーに抗う術はなかったのだから。
ーーもしかして、ノートン伯爵はわざとあんなことをしたのかしら。
理由はわからないが、そんな気がしてならなかった。
女の勘というやつだろうか。
リリーはしばらく悩んだ末に、思い切って口を開いた。
その間も、ずっとハロルドは大きな体を折りたたむようにして頭を下げていたけれど、構わず続ける。
「……あなたの謝罪を受け入れても構いません。今後、他の方に対しても先ほどのような紳士にあるまじき行動をなさらないとお約束していただけるならば」
「もちろんだ。もう二度と悪ふざけはしないと誓う」
「……わかりました。あなたの謝罪を受け入れます」
顔を上げてくださいとは、決して言わなかった。
それがリリーなりの謝罪の受け入れ方だった。
「ありがとう、レディー・リリー」
頭は下げたまま、顔だけを上げるハロルド。
彼の瞳は、何とも優しげに細められていた。
しかし、それも一瞬のことで、面白いことを思いついたようにニヤリと笑う。
「良ければ、おでこをはたいてくれて構わないんだが」
さすがに、そういう訳にもいかず、リリーは首を振った。
真剣な表情で「またの機会に、ぜひ」と返すと、ハロルドはようやく体を起こした。
腹を抱えて笑うためだというのは、すぐにわかった。
何とも感情表現が豊かな人だなと思う。
ハロルドがひとしきり笑い終わるまで、ゆうに数分はあっただろうか。
ハロルドは疲れた様子も見せずに言った。
「居間まで送って差し上げたいが、誰かに見つかると面倒だ。お一人で大丈夫かな?」
「はい」
「では、俺はあの愛すべきじゃじゃ馬を捕まえに行くとしよう」
「失礼」と言って、意外にも優雅に礼を取ったハロルドは、エイミーが立ち去った方角に向かって歩き出した。
そんなハロルドの背中を見つめながら、リリーは思った。
彼はきっとエイミーを愛しているのだろう、と。
でなければ、すでに愛想が尽きている。
わざわざエイミーを探しになど行かない。
あれは愛情ゆえの行動なのだ。
きっとリリーにした非礼もそこに起因しているのだろう。
リリーは目を細めた。
知らず、心の声が漏れる。
「愛する人が他の人を想っているのは、きっと何よりも辛いでしょうね」と。
聞こえないと思ったが、ハロルドにはリリーの呟きが耳に入ったらしい。
ハロルドは足を止めて、振り返った。
「エイミーが誰を想っていようと構わない。最後に、俺の元に帰ってきてくれればね」
平然と言ってのけ、再び歩き出したハロルドの背中を、リリーはただ見つめた。
ハロルドが言ったことは、きっと本心だろう。
彼は、ありのままのエイミーを愛しているのだ。
だからこそ、今は別の人を想っていても、いつか必ず振り向かせてみせると考えているのだ。
そんな愛し方もあるのかと思うと、リリーは複雑な思いがした。
七年前、ジェイソンとフレデリックの関係を知った時、リリーはただ裏切られたと感じただけだった。
例え、ジェイソンが生きていたとしても、彼の愛情を受けるに足る女性になろうと奮起することはなかったかもしれない。
ーーわたしは、ジェイソンを本当の意味で、受け入れることができていなかったのかもしれないわ。
ふと、思う。
サイラスなら、どうしただろうかと。
ヴェロニカの本心を知ってなお構わないと言い切るだけの強さが、彼にはあったのだろうか。
諦めず、彼女の心を捉える努力をしたのだろうか。
もちろん、リリーに答えなどわかるはずもなかった。




