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「ああ、怒りと狂気がわたしを襲う。この嵐の中では、どうしたって留まってはいられない」
頭を抱えながら、花々を渡していく舞台上の俳優を、リリーは眺めていた。
髪は乱れ、落ち窪んだ瞼を目一杯見開いた姿は、演技とはいえ何とも痛々しく、狂気に満ち満ちている。
迫真の演技だわと、リリーは思った。
父を殺して王位を簒奪した弟に、兄が復讐する『王国の悲劇』は、トーマス・ウィリアムズの有名な戯曲の一つである。
九幕から成るこの戯曲は、彼の数ある作品の中でも長編の部類に入ると言われており、今、リリーが見ている第三幕は、弟の策略で婚約者や母親に裏切られた兄が、花の持つ象徴的な意味を述べながら弟に復讐を誓う、まさに一番の見せ場だった。
「愛しいあなたたちには、このアネモネを。これをもって、我が教訓としよう」
「ああ、我が弟には、オダマキが相応しい。恩を忘れ、嫉妬に魅入られた醜さよ」
「そして、忘れてはいけない。ヘンルーダを。きっと、この復讐が終わった時、わたしには必要なものだから」
リリーは、役者の演技を食い入るように見つめた。
特に、この場面は花を渡す相手ごとに意味の解釈が違っているのが、また面白いのだ。
復讐を果たした後、自殺する主人公の今後を思うと、何とも意味深長だった。
ーーそういえば、このお話は元々、ヤンガーサンを題材としたのではないかと言われているのよね。
貴族の次男以下の通称であるヤンガーサンは、爵位を継承するか与えられない限り平民であり、長子相続制ゆえに財産の分け前がほとんどない。
次男以下は、非常に損な役回りなのだ。
兄を妬む弟が、父を殺してまで王位を簒奪するという戯曲の構図は、元々はこの貴族社会の制度から着想を得たのではないかと言われており、同時に風刺的な意味合いもあった。
ーー『王国の悲劇』がここまで人気が出たのは、世の中のヤンガーサンによる共感もあったのかもしれないわね。
リリーは、しみじみと頷いた。
そして、そっと隣に座るサイラスを盗み見る。
サイラスは当然、嫡男であるので共感はしないだろうが、やけに真剣な眼差しで舞台を観ているサイラスに、今朝のことが思い出された。
突然サイラスから観劇に誘われたのは、朝食の席だった。
リリーはかなり驚いたが、同時に嬉しくもあった。
観劇が好きであるという以上に、ここ最近、リリーの目にはサイラスが少し元気がないように見えたからだ。
彼の気分が少しでも晴れればいいなという思いで、リリーは誘いに応じたのである。
ーーでも、何だかサイラスは楽しそうじゃないわね。
役者のセリフを暗記する勢いで、舞台上を真剣な表情で見つめるサイラスに、リリーは首を傾げた。
リリーも劇は好きなのでわかるのだが、サイラスの態度は純粋に観劇に興じる人のそれではない。
テストに備えて先生の話を一言一句聴き逃すまいとする学生さながらの、真剣さだった。
どうにも腑に落ちない。
ーーそれに、最近のサイラスは少し様子が変だわ。
相変わらず忙しくしているようだが、サイラスは時折ボンヤリしたり、何かを考え込んだりしている姿が目につくのだ。
それとなく尋ねても、サイラスは何でもないと笑うばかりで、判然としない。
リリーには打ち明けられないこともあるだろうが、早く彼が元気になってくれたらいいのにと思う。
第三幕が終わり、小休憩を挟んだタイミングで、リリーは思い切ってサイラスに切り出してみた。
劇を楽しんでいるか、と。
サイラスは意外そうに、しかし、思いのほか力強く頷いた。
「もちろんだよ。この『王国の悲劇』というのは実に興味深い。人間の浅はかさや傲慢さが、よく描かれている。と同時に、爵位制度そのものへの風刺も兼ねているようだ。これを機に、しっかりと内容を掴んで、今後に活かそうと思う」
「そ、そう……」
どう活かすつもりなのかはさておき、意気込む様子のサイラスに、リリーは思わず苦笑した。
すると、サイラスは慌てて言った。
「もしかして、君はあまりこの劇が好きじゃなかった?だとしたら、申し訳ない。今夜はもう帰って……」
「サイラス、落ち着いて」
今にも踵を返して行ってしまいそうなサイラスを引き止める。
リリーは安心させるように微笑んだ。
「わたし、観劇は好きよ。この劇も、実は一度観てみたいと思っていたの。だから、あなたが今朝誘ってくれて、本当に嬉しかったわ。どうもありがとう」
「……どういたしまして」
若干照れたように視線を外したサイラスを、リリーはまじまじと見つめた。
やはり、最近のサイラスはどこか違って見える。
ーー何がと問われると困るけれど……。
あえて言うなら雰囲気かしらと、リリーは考えた。
サイラスと出会って以来、彼は常に張り詰めていたように思う。
立場や状況が彼にそうさせたのだろうが、今はどこか年相応というか、表情に幅がある気がするのだ。
何が彼を変えたのかはわからないが、それは決して悪いことではないのだろうと思う。
「そういえば」
「なあに?」
「先ほどアルバーン子爵をお見かけしたよ。娘さんと来ているようだね。……挨拶に行こうか?」
尋ねながらも、席を立とうとするサイラスに、リリーは一瞬だけ考えてから首を振った。
「いいえ、止めておきましょう。お二人は観劇がお好きだから、邪魔しちゃ悪いわ」
リリーたちが行かずとも、他の貴族たちが挨拶に行くので、結局ダレンとジニーは親子水入らずとはいかないだろうけれど。
そう苦笑すると、サイラスは少しだけ複雑な表情をした。
最近よく見る彼の変化の一つだ。
しかし、それも一瞬のことで、サイラスはすぐに微笑んだ。
「それも、そうだね」と言って。
もう、そこにはいつものサイラスがいて、リリーには彼の感情の機微が掴めない。
サイラスの横顔を少し複雑な思いで見つめながら、リリーは再び幕が開くのを待った。
『王国の悲劇』は長丁場である。
大多数がそうしたように、リリーも第六幕が終わった、その幕間で化粧室に立った。
そして、思いがけない人物と出会う。
「やあ、リリーじゃないか!」
「……フレデリック」
人懐っこい笑顔でリリーに近付いて来る人物こそ、長年リリーとの愛人関係を噂されるフレデリック・スペンサーその人だった。
まさか、こんな所で呼び止められるとは思わず、リリーは一瞬、周囲に視線を走らせた。
幸か不幸か、人はいない。
リリーはそれとなく死角になる場所まで移動した。
「久しぶりだね、リリー。元気にしていた?」
「ええ、元気よ。ありがとう。あなたもお変わりなさそうね」
「まあね。何とかやっているよ。それにしても、君が観劇なんて珍しいから吃驚したよ。今日はどうしたの?モリーと一緒に来たの?」
「……いいえ、サイラスとよ」
「?」
不思議そうに首を傾げるフレデリックに、そう言えばサイラスのことをきちんと紹介したことはなかったなと気付く。
「夫の、サイラスと来たのよ」
「ああ、例の」
フレデリックが言う"例の"に、どういう含みがあるのかはわからなかったが、彼は一瞬肩をすくめただけで、構わず話を続けた。
「君が伯爵と再婚してから、あまり会えなくなって、僕は寂しいよ。ねえ、今年は八月以外も会える?」
「それは……」
「ねえ、お願いだよ。君に話を聞いて欲しいんだ。僕にとっては、君だけが頼りなんだよ。相談できる相手は、君しかいない。だから、ね?お願いだから、イエスと言ってよ」
ギュッとリリーの手を握って、懇願するフレデリック。
まるで捨てられた仔犬のような眼差しでリリーを見つめる姿は、いかにも無下に出来ない雰囲気を醸し出していた。
しかも、そのタイミングでガヤガヤと周囲が騒がしくなったものだから、リリーはかなり焦った。
「わ、わかったわ。頑張ってはみるけれど、あまり期待はしな……」
「良かった!やっぱりリリーは優しいね!」
ニッコリ微笑んで「約束だよ」と嬉しそうに言ったフレデリックは、登場した時同様、人懐っこい笑みと共に手を振って立ち去った。
後に残されたリリーは、内心で大きなため息を漏らしながら、それを見送る他ない。
リリーも、本当はわかっていた。
こんな関係はよくない、と。
しかし、そう思う度、いつも七年前のあの醜い自分が顔を出すのだ。
これは償いなのだと、もう一人の自分が囁くのを、リリーはどうしても止められなかった。
周囲に誰もいないことを何度も確認してから、リリーはその場を足早に去った。
もちろん、第七幕に間に合わなかったのは言うまでもない。




