46
家庭教師を務めるジニーに会うため、リリーはダレンの屋敷を訪ねていた。
リリーのタウンハウスで体調不良を訴えてから、ずっと気になっていたのだが、久しぶりに会ったジニーの顔色はよく、リリーの顔を見ると嬉しそうに微笑んでくれたので、リリーも思わず笑みがこぼれた。
「レディー・リリー。ようこそいらっしゃいました」
「ご機嫌よう、ジニー。お招き感謝します」
応接室に通され、リリーはジニーと向き合う形で腰をかけた。
「ところで、ジニー。もう、体調は大丈夫なの?」
「はい、その節はお世話になりました」
「気にしないでいいのよ。あなたが元気そうでなによりだわ」
「ありがとうございます」
「実はね、今日はあなたにお話があって伺ったの」
「と、おっしゃいますと?」
「あなたのお父様とも話し合ったのだけれど、わたし、家庭教師の仕事は今日で最後にしようと思うの」
「え……」
ジニーは、みるみるうちに眉を下げた。
捨てられた子犬のように、しょんぼりと肩を落とすジニーに、リリーは慌てて言った。
「家庭教師としては最後だけれど、あなたさえよければ、これからは別の形でお付き合いさせていただけないかと思って」
「……どういうことですか?」
「貴族のご婦人同士、これからも仲良くしたいという意味だ」
突然あがった声に、リリーとジニーは急いで振り返った。
見れば、扉近くの壁に寄りかかって、こちらを見つめるダレンの姿があるではないか。
「お父様!」
ジニーは跳ねるように、ダレンの元へと駆けて行った。
「ご婦人同士仲良くって、つまり今まで通りってことでいいのよね?もう、レディー・リリーに会えなくなるわけじゃないのよね?」
ダレンへのお帰りの挨拶も忘れ、矢継ぎ早に質問をするジニー。
それを落ち着かせるように、ダレンはジニーの肩に手を置いた。
「まあ、落ち着きなさい。レディー・リリーが見ているぞ」
「あ」
ジニーは、頬を赤く染めながら戻ってきて、座っていた椅子に再び腰をかけた。
恥ずかしそうに俯きながら、口を開く。
「はしたないところをお見せしました」
リリーは微笑みながら「気にしないで」と首を振った。
もともと、リリーがいきなり家庭教師を辞めると言いだしたから、ジニーは取り乱したのだ。
彼女には、順を追って説明するべきだった。
「あ、あの、それで先ほどの件なんですが、レディー・リリーとはこれからも仲良くお付き合いできるということでいいんですよね?」
リリーとダレンを交互に見やるジニーに、リリーは笑顔で返し、ダレンは大きく頷いてみせた。
「よかった!」
両手を叩いてはしゃぐジニーに、今回ばかりはダレンもマナーのことはとやかく言わなかった。
嬉しそうに笑うジニーを、愛おしげに見つめているだけだ。
「ああ、これで一安心です。わたし、レディー・リリーと疎遠になったら、どうしようかと思っていました。あなたは、わたしにとって家族のような存在ですから」
「まあ、そんな風に言ってくれるなんて本当に嬉しいわ。ありがとう、ジニー。わたしも同じ気持ちよ」
「本当ですか?」
「当たり前じゃない」
「じゃあ、その、もし……」
「なあに?」
「もし、レディー・リリーが独身だったら、お父様と結婚して、わたしのお母様になってくださっていましたか?」
「え」
リリーは、目を瞬かせた。
まさか、ジニーがそんなことを言い出すとは思わなかったのだ。
ずっと慕ってくれていたので、好かれているだろうとは思っていたが、まさか義母になってほしいとまで考えているとは。
思わず、ダレンを見上げる。
彼もまた驚きを隠せないようだった。
「わたし、ずっと考えていたんです。二人は最高にお似合いだって。レディー・リリーは、お父様のことがお好きでしょう?以前、公明正大な方だって褒めてらしたわよね?」
「え?ええ……」
「お父様だって、同じです。いつもレディー・リリーは素晴らしい女性だって言っています。だったら、二人が結婚すれば……」
「ジニー、やめなさい」
「でも!」
「でもじゃない。レディー・リリーを困らせてはいけないよ」
ピシャリと言われ、ジニーは口を閉ざした。
「レディー・リリー、娘が失礼なことを言って申し訳なかった」
「い、いえ。わたしは別に……」
それ以上、ことばが続かず、リリーは手近にあったカップを取り、口をつけた。
しょげているジニーを可哀想に思いながらも、慰めてやるわけにはいかない。
なんとも複雑な心境だった。
「勘違いしたジニーも悪いが、わたしがあなたの家族について最初に説明していなかったのがいけなかった」
「それは違います」
リリーは慌てて言った。
ダレンがジニーに話さなかったのは、リリーの事情が複雑だったからだ。
むしろ、リリーから説明しておかなければならなかったのである。
ーーサイラスのことを秘密にしていたわけではなかったけれど……。
正直、サイラスとの夫婦関係が冷え切り過ぎていて、ジニーに話すことがなかったのだ。
離婚するだろうとも思っていたので、これから立派なレディーになって結婚するだろうジニーに、夫婦生活の不和を伝え辛かったのもある。
ーーわたしったら、結婚指輪も外してしまっていたものね。
いつも持ち歩いてはいたが、サイラスが屋敷に指輪を置いていったので、自分だけがはめていることに、なんとなく侘しさを感じたゆえの行動だった。
だが、ジニーに独身だと誤解させてしまった一番の理由はこれかもしれないと、今ならわかる。
リリーは、申し訳なさそうに謝った。
「わたしがきちんと説明しておかなければならなかったんです。その機会はいくらでもあったのに……家庭教師の仕事が楽しくて、ついその義務を怠りました。本当にごめんなさい」
「いや、わたしが……」
言いかけ、ダレンは首を振った。
いつまでも、自分に責任があると言い合うことに、意味がないと悟ったのだ。
「……互いに非があった。そういうことでいいだろうか?」
「はい」
「では、もう、お互いに謝ったのだし、この話はここまでにしよう」
「そうですね」
リリーとダレンがお互いに苦笑していると、傍らで、そのやり取りを見つめていたジニーが、確認するように言った。
「でも、わたしが社交界デビューする時は、本当のお母様のように傍にいてくださいますよね?」
「……お前も懲りないな」
ダレンは呆れ顔で、ジニーをたしなめたが、リリーは「構いません」と首を振った。
「サイラスが……わたしの夫なんだけれどね、社交界の集まりでは、できるだけあなたの力になってあげるようにって言ってくれたのよ。だから、ジニー。今年の社交界では、わたしもできる限りあなたの傍でサポートするわ。もちろん、あなたや子爵が良ければだけれど」
「本当ですか?わたしは、ぜひお願いしたいです!お父様も、構わないわよね?」
「ああ」
ダレンは、リリーを見やり、申し訳なさそうに頬をかいた。
「ジニーのわがままに付き合わせてしまって申し訳ないが、正直助かります。頼めますか?」
「はい、もちろんです」
ジニーやダレンのために、してあげられることがあるのは嬉しかった。
今こそ、この五年間の恩に報いる時だ。
「伯爵にもお礼を申し上げなくてはならないな。もしよければ、来週あたり屋敷にお招きしたいのだが」
「えーと……」
リリーは、なんとなく、ことばを濁した。
考え考え、ことばを発する。
「忙しい人ですから、わたしからはなんとも……。ですが、夫には伝えておきます」
「もし無理なら、レディー・リリーだけでも……」
「ジニー!」
横あいから、ジニーが口を挟んできたので、ダレンは目を細めてたしなめた。
ジニーは「ごめんなさい」と殊勝に謝りつつも、ダレンが見ていないところで、こっそりリリーに耳打ちした。
「わたしは、レディー・リリーだけでも嬉しいです。だから、伯爵が無理でも、あなただけは来てくださいね」
上目遣いでおねだりするジニーに、ちゃっかりしているなあと感心しつつ、内心まんざらでもない気分のリリーだった。
その日。
夕食の席で、リリーはサイラスにダレンの招待の件を切り出した。
しばらく考えた末に、サイラスは首を横に振って言った。
「来週は、外せない用事があるんだ。だから、子爵にはわたしから謝っておくよ」
「わかりました」
「なんだか、申し訳ない気もするが」
「子爵はお気になさらないと思います。あなたがお忙しいのはご存知だろうし」
「いや、別に忙しいわけではないのだが……。来週は、母上に会う予定なんだ」
「お義母様に?」
それでは、どちらにせよ、リリーも共に残らねばならない。
ジニーはああ言ってくれたが、今回の招待は夫婦共々、辞退せざるを得ないだろう。
「君は行ってきてもいいんだよ。その……母上とはいろいろあったのだろう?会いづらいんじゃないか?母上には、わたしからきちんと説明して、誤解を解いておくから」
「いえ、わたしもお義母様にお会いしたいです」
そもそも、屋敷を追い出されたのにはこちらにも非があったのだ。
サイラスを隣国に行かせたことで、義母のマリーが腹をたてるのは当然だった。
リリーは、その叱責覚悟でサイラスを行かせたのだから、誤解もなにもない。
ただ、リリーが悪かった。
それを詫びるだけだ。
「あなたさえよければ、お義母様に直接会って、お話をしたいのですが」
「…………」
サイラスはなにも言わなかった。
ただ、じっとリリーを見つめ、ややあって、頷く。
リリーには、それで十分だった。
「ありがとうございます」
来週は忙しくなるなと、リリーは思った。
準備すべきことを頭の中で整理していく。
すると、ふとサイラスが呟くように言った。
「……買い物をしよう」
「え?」
リリーは、訊き返した。
唐突にどうしたのだろうと首をひねる。
「服を新調したらどうかと思って」
「ああ」と、リリーは呟いた。
つまり、サイラスは自分の衣服を新しく買い替えたいと言っているのだ。
言われてみれば、彼はこの五年間、隣国で暮らしていたので、今着ているものは彼の体に合っていなかったし、流行遅れの型ばかりだ。
身だしなみに厳しいマリーと会う前に、一式買い改めようという算段だろう。
リリーは納得したように頷いた。
「いいですね。お買いになるといいと思います。この五年で、あなたの背格好は変わったし、今の流行だってあるもの」
「いや、その……わたしは、君のものを買いたいのだが」
「え」
リリーは、思わず口を開けた。
さすがに、それは想定外の提案だった。
「過去の書類を決裁していてわかったのだが、君はこの五年、ほとんど自分のためにお金を使っていないね。今、着ている服や身につけている装飾品は、以前から持っていた私物だろう?」
見事言い当てられ、リリーは目を瞬かせた。
まさか、サイラスがそのことに気づくとは思わなかったのだ。
「君さえよければ、ドレスや装飾品の類を買い替えたらどうだろう」
「い、いえ、わたしは……」
「ぜひ、そうしましょう!」
急に背後から、大きな声があがり、リリーは跳びはねた。
見れば、戸口付近に立つメイドのレイチェルが、前のめりになって拳を握りしめている。
「旦那様、よくぞ!よくぞ、おっしゃってくださいました!わたしはこの時を待っていたのです!」
「そ、そうか」
あのサイラスが、若干引き気味になっている。
レイチェルの鼻息荒い様子に、戸惑っているのだろう。
もちろん、リリーも同様である。
そもそも、レイチェルは給仕係ではないのに、どうしてここにいるのだろうか。
「奥様は色白でいらっしゃるので、それがより引き立つモスリンのドレスなどいかがですか?個人的には今後、細いシルエットのものが流行るとふんでいるのですが、奥様のお優しい雰囲気には、ふんわりしたドレスが一番似合うと思うんです!首元には、エメラルドのネックレスをつけて、よりエレガントさを強調してはいかがでしょう?それとも、翡翠の方がいいかしら?奥様の瞳に合うのは、絶対グリーン系だと思うんですが……ああ、選択肢が多くて迷ってしまいます!考えただけで夢が広がりますよね!」
「れ、レイチェル、落ち着いて。わたしは、別に……」
「先日、奥様はおっしゃいましたよね?着飾る必要がある時は、わたしに任せると」
リリーも、それは覚えていたので、素直に頷く。
すると、レイチェルは言質をとったと言わんばかりに勢い付いた。
「もうすぐ、社交界シーズンです!まさに着飾る時ではありませんか!しかも、来週はマリー様がおいでになるんですよね?あの方は、身だしなみにうるさいですから、きちんとした格好をしなくてはいけない、そうですよね?」
「え、ええ……」
「というわけで、旦那様!」
急に矛先が変わったので、サイラスは一瞬びくりとした。
なにを言い出すのだろうと、レイチェルを慎重に見つめている。
こんなサイラスを見るのは、初めてだった。
「なにを買うかは、奥様とわたしに任せてくださいね!旦那様は口出し無用です!奥様に一番似合うものを用意したいので!だから、旦那様は奥様のために湯水のごとくお金を使ってくださるだけで構いません!」
さすがに言い過ぎだわと、リリーは思った。
サイラスは別に怒ってはいないようだがーーむしろ、若干怯えているーー主人に対しての態度としては、到底いただけない。
メイド頭のアンにでも見つかれば、どんな説教が待っていることか。
完全に自分の世界に入ってしまったレイチェルを止めるべく、リリーが口を開こうとしたその時。
「ひっ!」
急に、レイチェルがびくりと肩を揺らした。
「どうしたの?」
「いえ、今、悪寒が……」
「悪寒?」
風邪をひいたの?
そう尋ねようとしたリリーより早く、ことばを発した人物がいた。
アンだった。
「あら、それはいけませんね。風邪ですか?」
その瞬間、出たー!という(失礼な)表情で、レイチェルは固まった。
声の主が誰なのか、振り返らずとも理解したらしい。
可哀想なくらい、汗が吹き出している。
反して、声の主であるアンは涼しい顔で言った。
「可哀想に。そんなに震えて。やはり、風邪のようですね。よければ、わたくしが健康を保てるように直々に体を鍛えてあげましょうか」
「い、いえ。結構で……」
「では、さっそく今日の仕事が終わってから始めましょうね。今夜、わたくしのお部屋においでなさい。ああ、腕がなります」
ポキポキと指を鳴らす勢いのアンに、レイチェルは倒れそうなほど顔面蒼白となった。
だが、誰も助け船を出すことはできない。
触らぬ神に祟りなし。
そんなことばが、その場にいる全員の頭の中をよぎる。
リリーは雰囲気を変えようと、必死で話題をそらした。
「と、ところで、レイチェルはどうしてここにいるの?なにか用事があったのではなくて?」
「そ、そうでした!」
レイチェルは慌てて、懐からハンカチを取り出した。
それをおずおずと、サイラスに差し出す。
「これは?」
「先ほど、カッコいいけど、全身真っ黒な服装の変な男性の方が来られて、旦那様にこれをお渡しするようにと言付かりました」
「全身真っ黒って、いったい、どなたなの?」
「名乗らなかったので、わかりません。でも、ミステリアスな感じの素敵な方でした!」
「そ、そう。でも、どうしてハンカチを?」
リリーが首を傾げると、レイチェルは困ったように首を振った。
「さあ……ただ、渡せばわかるとだけ」
「ああ、その通りだ」
サイラスは苦笑気味にハンカチを受け取り、懐にしまった。
リリーがチラリと見た限りでは、なにやら文字のような刺繍が入っている。
とても丁寧な出来だが、男性が刺繍などするのだろうか。
しかも、それをサイラスに贈るとなると……。
「変な誤解をしないでくれ!」
リリーが怪訝な表情をしたからだろうか。
サイラスは慌てて言った。
「これは、あいつのちょっとした悪ふざけなんだ!かなり変わった奴で!だから、別に変な関係じゃないから!誤解しないでくれ!」
「え、ええ……わかりました」
力説され、リリーは頷いた。
別に、なにかやましいことがあると勘ぐったわけではなかったのだが、必死なサイラスに気圧される。
サイラスが苛々と舌打ちしそうな勢いで、そっぽを向くのを見つめていると。
「……エルの奴、絶対わざとだな」
小さな呟きだった。
だが、リリーにははっきりと聞こえた。
"エル"と。
名前にしては変わっているなと思った。
愛称かなにかだろうか。
レイチェルも同じように思ったらしく、リリー同様、不思議そうな表情をしている。
アンだけは、なんとなく物知り顔だったので、彼女はその人物を知っているのかもしれない。
だが、その場にいるほとんどの人間は、ただただ首を傾げるばかりだった。
エルとは、いったい誰だろうと。
サイラスは、書斎の机に突っ伏していた。
手には、先ほど渡された忌々しいハンカチが握られている。
なぜ、あいつは普通に手紙を寄越すという発想がないのだろうかと、頭を振った。
夕食時のこのタイミングで連絡を寄越してきたのも、エルなりの嫌がらせかもしれないと思うと、一層腹立たしい。
サイラスは隔日で、酒場に通っていた。
エルから情報を受け取るためだ。
そういう取り決めにしたにも関わらず、わざわざこんな形で連絡してくるエルには、唾を吐きかけたい気分である。
「だが、正直、情報はありがたいな」
チラリとハンカチを見やる。
ハンカチには、刺繍が施されていた。
エルは、サイラスの知りたかった情報を刺繍で記してきたのだ。
紙に書く方が明らかに早い気がするのだが、嫌がらせのためだけにこの手間をかけるエルの行動は、もはや執念の域だ。
「しかも、刺繍が上手いのが余計、腹たつな」
そのスキルを別の形で活かせばいいものをと思いながら、サイラスはハンカチを暖炉にくべた。
ハンカチの刺繍を見ると、未だにヴェロニカのことを思い出す。
彼女が夫を愛していたことの証左。
そのことに、まったく気づかなかった。
道化もいいところである。
自嘲すると同時に、サイラスはリリーがあの時、どんな気持ちでハンカチを破ったのかを考えずにはいられなかった。
優しいリリーは、ただサイラスが真実を知って傷つかないように配慮してくれただけなのだろうが、自身とサイラスを重ねたのかもしれないと思った。
先ほど渡された情報で、ジェイソン・キャトリーの生前の道楽を知った今となっては、ことさらそう思う。
リリーはきっと、知っていたのだ。
愛する人に裏切られる痛みを。その悲しみと孤独を。
ジェイソンは、女あそびが激しいことで有名だった。
それは、サイラスも噂で聞いたことがあったが、相手が男だった時もあるとは、エルに調べてもらうまで、ついぞ知らなかった。
ーーしかも、変な性癖まであったとは。
痛みを伴う快感を求める人種がいる。
ジェイソンが、まさにそれだった。
さすがに、リリーに対して強要はしていないだろうが、浮気相手とはそういうプレイを楽しんでいた節があるというのが、エルの見解だった。
それをリリーが知っていたかどうかはわからないが、彼女のことを思うと胸が痛い。
リリーは、もっと大切にされるべきだった。
蔑ろにされていい女性ではない。
もちろん、サイラスが言えた義理ではないのだが、生前のジェイソンもそう思ってくれていたらと考えずにはいられなかった。
ややあって、サイラスはため息をついた。
死人に口なし。
ジェイソンの気持ちは、考えても仕方がなかった。
それよりもと、サイラスはジェイソンの死について今一度、考えを巡らせた。
もし、ジェイソンの嗜好が事実だとすれば、自殺という線は怪しくなるのではないかと。
彼の両親の証言と手首のためらい傷が、自殺と断定された理由だったはずだ。
だが、手首の傷が趣味の延長でつけられたものだとしたら話は変わってくる。
「……本当に自殺だったのか?」
ジェイソンの死については、未だに謎の部分が多い。
当事者たちが口を閉ざしているからだ。
だが、もしリリーへの"人殺し"という脅迫文がジェイソンの死を指すものだったとしたらどうだ。
第一発見者はリリーだった。
脅迫者が、ジェイソンの自殺を他殺ではないかと怪しみ、リリーへ嫌疑をかけたということにはならないだろうか。
リリーがジェイソンを殺し、自殺にみせかけたと、そう誤解したのだとすれば。
"人殺し"とは、つまり"夫殺し"の意味ともとれた。
だが、そう考えると脅迫者の特定は難しくなるなと、サイラスは思った。
エルの情報によると、ジェイソンと関係をもった人間は、男女問わず、結構な数いるらしいのだが、具体的な名前はほとんどあがっていなかった。
おそらく関係があっただろうという程度の信憑性なのである。
その中から、脅迫者を特定するのは至難のわざだった。
ーーまだ、情報が足りないということか。
本当は、リリーに訊くことができればいいのだが、彼女にとってもジェイソンの死はトラウマだろう。
安易に尋ねるべきではない。
ーーその場に居合わせたというフレデリック・スペンサーに訊く方が早いかもしれないな。
問題は、彼が素直に話してくれるかどうかだ。
リリーとフレデリックの関係については、実際のところよくわからない。
しかし、彼が今まで沈黙を貫いているのには、それなりの理由があるはずだった。
他人であるサイラスに簡単に話してくれるとは、到底思えない。
サイラスは難しい顔で、頬杖をついた。
社交界シーズンが終わる八月頃に、あのユリと脅迫文は届くという。
実際に、その現場を押さえた方が手っ取り早い気もした。
「どちらにせよ、やることは変わらない」
リリーの身の安全と幸せを確保すること。
サイラスにできるのは、それだけだ。
だが、リリーを取り巻く環境は、複雑で物騒なものだ。
悠長に構えていては手遅れになる可能性もある。
なるべく早く、安全な環境を整えなければならない。
サイラスは、そう決意し直すのだった。




