37
馬車に揺られること約三ヶ月。
サイラスは、五年ぶりに我が家に帰ってきた。
なにもかもが懐かしい。
見慣れた建物も、毎日のようにくぐっていた玄関も。
すべてが、ひどくサイラスの心を揺さぶった。
「ただいま」
万感の思いで、そのことばを口に出す。
「お帰りなさい」
そう返ってくるのを、しばし待って。
しかし、それは叶わなかった。
サイラスは、もう一度「ただいま」と繰り返す。
最初、出迎えてくれた使用人たちは、揃って目を瞬かせているばかりで、一向に口を開く様子を見せなかった。
まるで幽霊でも見るかのようなその目つきに、サイラスが遠慮気味に咳払いすると、皆、慌てて「お帰りなさいませ」と、頭を下げた。
三ヶ月前に、帰宅の旨を連絡しておいたはずなのに、この反応。
サイラスは、微妙な表情で、執事のエルバートを見つめた。
「申し訳ありません。まさか、旦那様が本当にお帰りになられるとは思いませんでしたので、他の者たちには伝えておりませんでした」
犯人はお前か!と言いそうになるのを、グッと我慢する。
これは、長らく領地を離れ、伯爵としての義務を蔑ろにしていたサイラスに対するエルバートなりの最大限の非難の表れだった。
サイラスは、それを受け止めなければならない。
「エルバート、五年間も屋敷を離れてすまなかった。無責任だったと反省している」
「旦那様……」
「みんなも」
今度は、周りに視線を向ける。
いつの間にやら、たくさんの使用人たちが集まっていた。
サイラスはよく通る声で、彼らに言った。
「今まで、迷惑をかけて申し訳ない。わたしが留守の間、よく屋敷を守ってくれた。本当に感謝している。これからは、君たちのその奉仕に、誠心誠意、応えていくつもりだ。だから、これからも、この屋敷を一緒に盛り立てていってほしい」
「!」
使用人たちが、息をのむのがわかった。
伺うようなそぶりの後、それでも、サイラスの変わらぬ決意の表情を見つめ、お互いに頷きあう。
ややあって、使用人たちは、ゆっくりと頭を下げた。
「いつまでも、旦那様について参ります」
口を揃えて言う使用人たちの表情は、どこか安堵していた。
ここ数年間のサイラスは、常に苛立っていて、無責任な行動が目立っていたが、彼らは知っていた。
本来、サイラスは使用人思いのいい主人だということを。
それが、今戻ってきた。
本当の意味で、サイラスが帰ってきたのだと実感したから。
自然、使用人たちの表情は明るくなる。
……ただ一人を除いて。
それは、メイドのレイチェルだった。
彼女は、なにか不満そうに口を尖らせながら、サイラスを見つめていた。
それに気づいたサイラスが、見つめ返すと、我慢ができなくなったのだろう。
レイチェルは、早口で言った。
「旦那様がお戻りになられて、それはもう、ほんと〜うに嬉しく思っておりますが、旦那様はなにか大切なことをお忘れではありませんか?決して、忘れてはならない大切なお方の存在を、よもや、綺麗さっぱり頭から追い出されておられませんか?ええ、ええ。そうでしょうとも。わかっております。旦那様はきっと、うっかりしていらっしゃるだけなんですよね?ちょっと、忘れてしまっただけなんですよね?ね?そうですよね?でなければ、今さらよくもまあ、のこのことお戻りに……って、ぐはっ!?」
重い拳が、横から伸びる。
それは、まっすぐピンポイントでレイチェルのみぞおちに食い込み、彼女は悶絶した。
そのまま、レイチェルはその場に座り込んでしまう。
「旦那様、申し訳ありません」
メイド頭のアンは、深々と頭を下げた。
レイチェルに対する暴力など感じさせない、優しい声音だった。
「わたくしの教育不行き届きでございます。この子はちょっとお馬鹿……いえ、浅慮な娘でして、自分でさえなにを申し上げているのか、さっぱりわかっていないのです。なにせ、お馬鹿……いえ、短絡的な娘ですので」
先ほどから、何度も言い直してはいるが、いろいろなバリエーションでレイチェルが馬鹿だとしか言っていない。
それは、さすがに可哀想だと思ったが、サイラスは口を挟まなかった。
アンの見事なボディーブローを見てしまったからには、余計なことは言わないに限る。
「レイチェルのご無礼、わたくしからも謝罪いたします」
「いや、いいんだ」
サイラスは、首を振った。
しゃがみ込んでいるレイチェルに手を貸し、立たせてやる。
「大丈夫か」
「はい……」
みぞおちを押さえながらも、レイチェルからしっかりとした返事が返ってきたので、サイラスは頷いて、ことばを続けた。
「レイチェル、だったか?君が言いたいことはわかっている。リリーのことだろう?」
「……はい」
「君は、リリーのことを大切に思ってくれているんだな」
「はい!」
元気に頷くレイチェルに、サイラスは微笑んだ。
「君はリリーの人となりを知って、慕っているんだね。それに比べて、わたしは、彼女の優しさに気づくのに、こんなにも時間がかかってしまった。五年は……長すぎる。今からでも間に合うといいのだが……」
「?」
「わたしはね、今までのことをリリーに謝るために戻ってきたんだ」
これには、さしものエルバートやアンも面食らった表情を見せた。
なにか言いたそうに口を開けて、しかし、サイラスが真剣な眼差しだったので、二人は黙って頷くにとどめた。
反して、レイチェルはその場で飛び跳ねた。
「それはよかったです!ようやくといった感は否めませんが、それでも謝らないよりは、ずいぶんと……」
「レイチェル」
「す、すいません」
拳をチラつかせながら微笑むアンに、レイチェルは怯えたように、急いで口を閉ざした。
サイラスは、それを若干、憐れむように見つめる。
昔からアンは、その佇まいからは想像もできないような実力行使にうってでることがあった。
サイラスも幼い頃は、何度かその被害にあったことがあるので、体が自然と身構えてしまうが、それを振り払うように、サイラスは話を変えた。
「そういえば、リリーは?姿が見えないようだが」
用事で出かけているのかもしれない。
サイラスは、そう考えた。
この五年間のリリーの様子については、使用人たちには、あえて尋ねていない。
リリーの優しさに気づいてから、本当は彼女の今までの様子が知りたくてたまらなかったのだが、他人から聞かされた内容ではいけないと思ったのだ。
自分の目や耳で、見聞きした"今"のリリーを知りたい。
そして、彼女の口から、実際のところを聞きたかった。
周囲から話を聞くのは、その後でいい。
だが、もしかすると、リリーの予定については、あらかじめ調べておくべきだったのかもしれない。
聡明なリリーのことだ。
屋敷を執りしきりながら、貴族の務めとして、社会貢献活動に尽力している可能性もある。
忙しいリリーの迷惑にならないよう、帰ってくるまで屋敷で待っていたほうがいいだろうか。
サイラスは、そう考えた。
しかし、それはエルバートの次の返答で、あっけなく吹き飛ぶ。
「奥様はご実家のタウンハウスにおられます。大奥様が、屋敷から追い出されてしまわれましたので」
「なんだって?」
サイラスは、何度も瞬きを繰り返した。
今、聞いたことが信じられなかったのだ。
まさか、リリーが屋敷を追い出されているとは思わなかった。
しかも、そのことに気づかず、今まで放置していたとは。
自分の愚かさに、ほとほと嫌気がさす。
ーーーということは、リリーは毎回、この屋敷に来て、手紙を書いてくれていたのか。
いつも送られてくる手紙には、サイラスの家系のシンボルが刻まれた印璽が捺されていたので、リリーは屋敷にいるものとばかり思っていたが、どうやら思い違いだったらしい。
彼女は、きっと定期的にこの屋敷に足を運んでくれていたのだろう。
誰に頼まれるでもなく。
むしろ、サイラスには手酷い仕打ちしか受けておらず、マリーにも誤解され容赦なく屋敷から追い出されたというのに。
それでもなお、伯爵夫人としての責任を果たそうと頑張ってくれていたリリーのことを思うと、胸が痛んだ。
それが、自分のせいだとわかるから、なおさら痛い。
「……いつからだ」
「五年前でございます」
「そんなに前からなのか!?」
「はい。旦那様が隣国に旅立ってから間もなくのことでした。大奥様は、奥様が旦那様に相応しくないとお考えになられたようで」
サイラスは開いた口が塞がらなかった。
五年間も、自分の妻がおかれている状況を知らずにいる夫など、愚の骨頂である。
この五年間、リリーはどうやって生活していたのだろうか。
先ほど、タウンハウスにいると言っていたので、住む場所は確保できていたのだろうが、生活は苦労したに違いない。
両親が亡くなった上に、実家の領地は今、大変なことになっている。
リリーのことだから、爵位を継いだばかりの弟に遠慮して、実家には頼らず、一人で必死に頑張っていたのではないだろうか。
ーーー相応しくないのは、むしろわたしのほうだ。
リリーほど、誠実に妻として尽くしてくれる女性はいないというのに。
サイラスは、それに相応しい夫では決してなかった。
己の愚かさに辟易する。
サイラスは、内心で自嘲した。
こんなにも愚かな人間を、リリーはずっと支えようとしてくれていたのに。
どうして、自分はそのことに気づけなかったのだろう。
リリーの優しさは、目の前にあった。
それに感謝し、応える機会は、この五年間でいくらでもあったではないか。
少しでもいいから、リリーに目を向ければよかった。
そうすれば、彼女に嫌な思いをさせることはなかったかもしれないのに。
己の愚行を恥じていると、ふと、エルバートと視線があった。
その心配そうな瞳から、彼がどう思っているのか、手に取るようにわかる。
サイラスは、頭を切り替えるように、首を振った。
リリーに対する謝罪や生活面での支援は当然として、とりあえず一度、母親であるマリーと話し合う必要がある。
マリーのリリーに対する誤解を解くのだ。
頭の中で、帰国したらやるべきリストの上位に、マリーの項目を移動させながら、サイラスはエルバートたちに言った。
「母上とは、わたしが話をしよう。その上で、もしリリーが望むのであれば、この屋敷に戻ってきてもらうことになるかもしれない」
明らかに嬉しそうに微笑むエルバートとレイチェルを見つめながら、サイラスは考えていた。
彼らは、いつからこんなにリリーのことを大切に思うようになったのだろうか、と。
今度じっくり、そのあたりのことを聞いてみたいと思った。
「ところで、リリーは今、タウンハウスに住んでいるんだったな」
「はい」
タウンハウス(町屋敷)とは、社交界シーズン中、貴族たちが滞在するための首都内にある屋敷だ。
シーズンが終われば、普通、貴族たちはカントリーハウス(田舎屋敷)に引きあげるのだが、リリーはあえて実家の領地には帰らず、タウンハウスに留まっている。
実家に遠慮したのもあるだろうが、おそらくサイラスの不在時に、ここの屋敷を管理する目的もあったのではないかと、サイラスは思った。
夫とは名ばかりのサイラスのために、誠実に妻として尽くしてくれるリリーらしい行動だった。
「……今、リリーのタウンハウスに、使用人はどれほどいるんだ?」
唐突に尋ねたからだろう。
エルバートたちは、なぜ、サイラスがそんなことを訊いたのか、よくわからない様子で首を傾げた。
「一人だけだと思います。タウンハウスを管理しているハンクという名前の使用人がいるだけかと」
実際に、タウンハウスに行ったことがあるアンが、代表して、そう答えると、サイラスは眉を寄せた。
サイラスは、あのユリの花と脅迫文のことを危惧したのだ。
ユリの件は、これからエルバートに詳しい話をきくつもりではあるが、今リリーの周囲にほとんど人がいないとなると、急に彼女の身の安全が心配になってきた。
「リリーのタウンハウスは、ここからどのくらいかかる?」
「馬車で一時間くらいだと思います」
意外と近い。
だが、それも当然だった。
実は、サイラスが住んでいる屋敷もまた、タウンハウスだったのだ。
サイラスの場合は首都郊外だが、同じ首都圏内にある屋敷同士、リリーのタウンハウスと距離は近くて当たり前だった。
そもそも、サイラスがなぜタウンハウスに滞在しているのかというと、サイラスの領地ウォーターフォードは、首都から比較的近い場所にあるのだが、五年前はとある仕事の関係で、なるべく首都にいる必要があったのだ。
だから、社交界シーズンが終わっても、隣国に渡る前の数年間は、領地のカントリーハウスには帰らず、実質タウンハウスで生活を送っていた。
領地での仕事は、だいたい日帰りで済ませていたし、実のところ、マリーとあまり顔を合わせたくないという気持ちもあったのだが、それはまた別の話である。
「エルバート」
「はい」
「リリーのタウンハウスに、訪問したい旨の連絡を入れてほしい。日取りは、そうだな……いきなり押しかけるのは迷惑だろうから、都合のいい日時を訊いてくれ」
「かしこまりました」
エルバートが指示を出している間、サイラスは簡易的に水を浴びて、長旅の汚れを落とした。
本当は少し疲れていたのだが、リリーからの返事が気になったので休みはしない。
エルバートにユリの件を聞きたい気持ちもあった。
彼の手が空いたら、話を聞こう。
そう考えながら、荷物を片付けたり、不在時の細々とした処理を行ったりすること、小一時間。
サイラスの元に、エルバートが難しい顔でやってきた。
「どうしたんだ」
「それが……どうも、おかしいのです」
「?」
「奥様のタウンハウスに遣いにやった者が帰ってきたのですが、どうやら門前払いされたようで。話を聞いてもらえなかったとのことです」
「なんだって?」
サイラスは、眉を寄せた。
リリーが忙しい場合、訪問が先延ばしになったとしても仕方がないと思っていたが、まさか訪ねてきた理由さえ聞かずに追い払われるとは予想していなかった。
「リリーはいたのか?」
「遣いの者によれば、人の気配はあったので、おそらくとしか……ただ、門前払いされたのは奥様の指示ではないと思います。奥様は、そんな方ではありません」
「そうだな」
サイラスは頷いた。
リリーならば、話さえ聞かずに追い払うようなことはしないだろう。
ーーーでは、なぜ?
サイラスは急に不安になってきた。
訪問客に対する失礼な対応。
人の気配はあるのに、リリーに会えなかったこと。
それらが、嫌な方向に結びつく。
今、リリーになにか良くないことが起こっていて、危険な状態にあるのではないか。
だから、追い返されたのではないか。
考えれば考えるほど、嫌な考えが頭から離れない。
サイラスの決断は早かった。
「タウンハウスに行く」
「かしこまりました」
エルバートは、サイラスがそう言い出すだろうと、あらかじめわかっていたようで、すでに馬車を待たせてくれていた。
彼の有能な働きぶりに感謝しつつ、サイラスはリリーのタウンハウスへと急いだ。
馬に頑張ってもらったおかげで、到着までには一時間もかからなかった。
サイラスは、足早に玄関まで行き、扉を叩いた。
突然の訪問に、対応に出た使用人は一瞬、面食らった様子だった。
おそらく、この中年男性が話に出ていたハンクという使用人だろうとあたりを付ける。
「突然、押しかけてすまない。わたしは、サイラス・マクファーレン。リリーの夫だ。彼女は今、ここにいるだろうか」
名乗った途端、ハンクの表情は、みるみるうちに剣呑なものとなった。
なぜだか、よくわからないが、彼には嫌われているらしい。
だが、サイラスは気にとめなかった。
とにかく今はリリーの無事を確認する方が先決だったからだ。
「もう一度、尋ねる。リリーは今、ここにいるだろうか」
「お帰りください」
けんもほろろに追い返そうとするハンクに、サイラスは眉をひそめた。
貴族のサイラスに対するハンクの態度を非難したわけではない。
リリーの所在がわからなかったから、不安になったのだ。
だから、サイラスは辛抱強く、言い直した。
「わたしは、リリーの身の安全を心配しているんだ。だから……」
「お帰りください」
まるで壊れたレコードのように、同じことを繰り返すハンクに、サイラスは苛立った。
なんとなく彼のことは好きになれそうにないと思いながら、それでも粘り強く、交渉を続ける。
「別に、彼女をどうこうするつもりはない。ただ、元気なのか知りたいだけだ」
「お帰りください」
そんなやり取りが、どれほど繰り返された頃だろうか。
口調だけは丁寧に、だが、表情はひどく冷たいままのハンクに、サイラスの不安は募った。
もしかすると、リリーはすでに危機的状況に陥っていて、取り返しがつかないことになっているのではないかという考えが頭をよぎる。
そのタイミングで、ハンクが玄関の扉に手をかけるのが見えたものだから、サイラスは慌てた。
閉めようとしているらしいとわかり、急いで、扉の隙間に足を入れる。
このまま追い返されるわけにはいかなかった。
せめて、リリーの安否がわかるまでは。
サイラスは意を決した。
ハンクを押しのけるようにして室内に入る。
申し訳ないと思いつつ、どうしてもリリーのことが心配でならなかった。
「お待ちください。そちらは行ってはなりません」
行ってはいけないと言われると、逆に行きたくなるのだから、人間とは不思議である。
サイラスが足早に廊下を進むと、ハンクがやけに焦ったような表情で追いかけて来た。
間違いない、こちらだと、サイラスは直感的に思った。
眼前に庭先に出る扉が見えてきたので、おそらく、この先にリリーが、あるいは、なにか見られては困るものがあるのかもしれない。
人の気配もなんとなく感じる。
サイラスの足は、自然、速くなった。
扉を開け放ち、庭先に出る。
そして、サイラスが目にしたもの。
それは、大柄な男性に背後から抱きしめられ、頬を赤く染めたリリーの姿だった。