30
「まあ、本当に素敵ね」
リリーは、うっとりとユリの花を見つめながら言った。
その美しさで右に出るものはないとまで称されるダレンの屋敷の庭は、今日も手入れが行き届き、美しく華やかな花々が周囲を彩っている。
その中でも、ひときわ異彩を放っているのが、このユリだ。
ふっくらと円を描く純白の花びらが、清楚な中にも華やかさを主張していて、目が離せないほどの美しさである。
休憩の合間に、ジニーに庭に誘われた時は何事かと首をかしげたが、ジニーがこのユリを見せたかったことは、すぐにわかった。
昔から、自分と同じ名前のこの花が、リリーは大好きだった。
「実は、お父様が特別に取り寄せたんですよ」
得意げに言うジニーが可愛くて、リリーの頬は自然と緩んだ。
「よかったわね、ジニー。それにしても、本当に素敵なユリね。羨ましいわ」
「でしたら、いつでも見に来てください。いえ、毎日でも構いません!」
「え、ええ。ありがとう」
あの大人しいジニーが、なにやら前のめりになって言い募っている。
珍しいこともあるものだ。
だが、毎日というのは冗談にしても、いつでも来てくれて構わないと言ってくれたことは、純粋に嬉しかった。
リリーは、ユリの花が好きだが、ジニーのことは、それ以上に大好きだったからだ。
「そういえば、ウォリンジャー家のタウンハウスは、リリー・ハウスと呼ばれていますよね?もしかして、ユリの花が咲いているのですか?」
「ええ、そうよ。もともとは、前に所有していた貴族の方の家名からきている呼び名なんだけれど、もちろんユリの花もたくさん咲いているわ」
「まあ、素敵!わたしも見てみたいです!」
「いいわよ。じゃあ、今度、ご招待させていただくわ」
「ありがとうございます。その時は、ぜひ、お父様も一緒にお願いしますね!」
「え?子爵も?」
リリーは、首をかしげた。
突然、ダレンの名が挙がったからだ。
別に、ダレンを招待することに異論はないのだが、忙しい身の上の彼にわざわざタウンハウスまで来てもらうのは忍びなかった。
「でも、子爵はお忙しいのではなくて?」
「いいえ、大丈夫です!絶対に行きます!えーと、そう!お父様はユリを見たいはずですから!」
「そ、そう……」
力強く頷くジニーに、リリーは若干押され気味になりながらも、思案した。
もしかすると、ダレンはユリの愛好者なのかもしれない、と。
屋敷に、あんなに美しいガーデンを所有している上に、わざわざユリを取り寄せるくらいだ。
その可能性は十分あった。
「わかったわ。じゃあ、再来週あたりにでも、あなたと子爵をタウンハウスにご招待させていただきます」
「嬉しいです!ありがとうございます!」
「よし」と両手を握りしめて喜ぶジニーを見ながら、リリーは微笑んだ。
きっと彼女は父親と出かける口実を作りたくて、タウンハウスに行きたいと言いだしたのだと思ったからだ。
ジニーは本当にダレンのことが好きなんだと、つくづく実感する。
タウンハウスへの招待くらいでジニーが喜ぶなら、嬉しい限りだった。
「じゃあ、そろそろ……」
屋敷の中に入りましょう。
そう言いかけて、リリーは口をつぐんだ。
ふと、花壇の一角に植えられている細長い葉が、視界に入ったのだ。
その葉の形には、見覚えがあった。
「もしかして、あれってネリネかしら」
リリーの視線を辿り、ジニーは頷いた。
「そうです。よくご存知ですのね。ネリネもお好きなんですか?」
「ええ」
リリーは、昔のことを思い出して、懐かしそうに微笑んだ。
リリーにとって、ネリネは特別に思い入れのある花だった。
「あ、もしかして、ネリネの別名が"ダイヤモンド・リリー"だからですか?」
「え。ネリネにそんな別名があったの?」
「ご存知なかったんですか?てっきり、ご自分の名前が入っているから、ネリネがお好きなのかと思いました。じゃあ、どうしてネリネを?」
「ああ、それはね……」
言いかけて、リリーは頬に感じる雨粒の感触に、顔をしかめた。
次の瞬間、蛇口をひねったかのような大量の雨が、リリーとジニーを襲う。
二人は慌てて、駆け出した。
「こちらに、お父様のアトリエがあります。そこで雨宿りをしましょう」
「わかったわ」
雨からジニーを庇いつつ、リリーはジニーが指差す方向に向かって駆けた。
すると、庭のさらに奥まった場所に、天井が高いサンルームのような建物が見えた。
これが、きっとアトリエなのだろう。
リリーたちは、なだれ込むように、建物の中に入って扉を閉めた。
足を踏み入れた瞬間から、油絵の具の匂いが鼻をつく。
見ると、丁寧に使いこまれている画材一式が整然と置かれていた。
なんとなく、アトリエの主人の性格を表しているなと思いながら、リリーはジニーに声をかけた。
「急に雨が降ってきて、驚いたわね。ジニー、大丈夫?寒くない?」
ハンカチを取り出し、ジニーの体を丁寧に拭いてやる。
すると、ジニーは申し訳なさそうに言った。
「わたしは大丈夫です。あなたのおかげで、ほとんど濡れませんでしたから。ありがとうございました」
「いいのよ。それよりも、あなたが濡れなくてよかったわ」
ジニーの体をひと通り拭き終わり、リリーは満足げに頷いた。
ハンカチだけでは心もとなかったが、そもそもあまりジニーは濡れていなかったので、この分であれば彼女が風邪をひく心配はないだろう。
ようやく人心地ついた様子で、リリーは自分の体を拭きながら、ジニーに尋ねた。
先ほどから気になっていたことがあったのだ。
「アトリエと言っていたけれど、子爵は絵を描かれるの?」
「はい。お父様は下手の横好きだと言いますが、なかなか上手なんですよ。ご覧になりますか?」
「で、でも……」
さすがに、ダレンに断りなく拝見するのは気が引けた。
ここは、辞そう。
そう思った矢先、扉が大きく開いたので、リリーは肩を揺らした。
「お父様!」
戸口に立つ大きな姿をみとめたジニーは、嬉しそうに近づいていった。
そこには、傘をさしたダレンがいた。
「お帰りなさい。今日も早かったのね」
「ああ。ちょうど仕事が一段落したから、早めにきりあげてきたんだ。それよりも、ひどい雨だが、濡れなかったかい?」
「ええ。レディ・リリーのおかげで、わたしは大丈夫よ」
「そうか」
そこで、ダレンの視線がリリーに向けられる。
その瞳は、思った以上に、柔らかかった。
「レディ・リリー、ありがとう。あなたは大丈夫……」
言いかけて、ダレンは慌てて視線を外した。
そこで、ようやくリリーも気づく。
体を拭いている途中で、突然、ダレンが登場したために、リリーの手は止まってしまっていた。
まだ濡れた状態で、スカートが大腿にピッタリ張り付いているのだ。
これでは、足のラインがまるわかりだった。
恥ずかしさのあまり、リリーは真っ赤になる。
「も、申し訳ありません。はしたないところをお見せいたしまして……」
「いや、その、よければ、わたしの上着をお貸ししよう」
リリーは一瞬、迷ったが、こんなみっともない姿を晒すよりはいいだろうと判断し、ダレンのことばに甘えて、上着を借りることにした。
彼は体格がいいので、小柄なリリーが彼の上着を羽織ると、すっぽり体を隠すことができた。
これで、少しは見られるだろう。
「……ありがとうございます」
「い、いや。気にしないでくれ」
上着から、ダレンの匂いがする。優しい匂いだ。
それに包まれていると思うと、リリーは何だか妙に気恥ずかしくなった。
それはダレンも同じと見えて、お互いに、なんとなく視線を彷徨わせる。
すると、その様子をニコニコしながら見つめていたジニーが口を開いた。
「そういえば、お父様。再来週、レディ・リリーがわたしたちをタウンハウスに招待してくださるそうよ」
「あの、お忙しいのであれば、無理をなさらず……」
「大丈夫よね?お父様」
「え?あ、ああ」
ジニーの前のめりな態勢に、若干首をかしげつつも、ダレンは断らなかった。
ゆっくりと頷いて、微笑む。
「そうだな。せっかくだから、伺わせていただこう。レディ・リリー、ご招待、感謝する」
「いえ、こちらこそ。楽しみにお待ちいたしております」
「ほらね?お父様は絶対に行くと言ったでしょう?」
「ええ、そうね」
得意げなジニーに、リリーは苦笑しながら頷いた。
そんな二人の様子を見つめていたダレンは、ふと何かに気づいたように口を挟んだ。
「もしかして、ジニー。お前が無理を言って招待してもらったのか?」
「そ、それは……」
「ジニー、レディ・リリーにあまりわがままを言うものじゃないよ」
「だって……」
シュンと肩を落としたジニーを見て、リリーは慌てて間に入った。
「あ、あの、わたしは構いません。招待すると決めたのは、わたし自身ですし、いつもお世話になっているお二人をお招きできて光栄です」
「しかし、ご迷惑では」
「いえ、そんなことありません。大したおもてなしはできないかもしれませんが、ぜひおいでください。たくさんユリも咲いていますし」
「ユリ?」
「ええ。子爵はユリがお好きだと伺いましたので」
「いえ、わたしは……」
「お父様!」
唐突に割り込んできたジニーに、リリーたちは目を瞬かせた。
「ジニー?どうしたんだ。急に大きな声をだして」
「え?えーと、そうだ!レディ・リリーは絵画にご興味があるのよ。このアトリエには、海外の画家の作品もあるし、ぜひ観ていただきましょう」
「わかった。そういうことなら、ぜひご覧になってください、レディー・リリー」
「あ、ありがとうございます」
リリーは確かに絵画に関心があるので、嬉しい申し出ではあるのだが、ジニーのあの挙動不審な様子が不思議でならなかった。
あまり、詮索されたくなさそうだったので、あえて触れはしないが。
「さあ、こちらです」
ダレンに促されるまま、絵画を観て回る。
あまり知られていない海外の画家の作品が多かったが、リリーにとっては、どれも真新しく、大胆な色彩に目を奪われた。
「あら?こちらの作品は……」
ふと、部屋の隅に立てかけられた一枚の人物画に目をとめたリリーは、ダレンを見上げた。
「もしかして、子爵が描かれたのですか?」
「ええ。よくわかりましたね。まだまだ腕が未熟なのでお恥ずかしいですが」
そんなことないわと、リリーは思った。
ダレンは謙遜しているが、技術は申し分ないし、なによりその絵には、人を惹きつける魅力があった。
リリーは、まじまじとキャンバスを見つめる。
そこには、赤毛の優しそうな女性が描かれていた。
ジニーに似ているが、歳の頃から考えると……。
「わたしのお母様です」
やはりという気持ちで、リリーは頷いた。
こちらに微笑みかける赤毛の女性には、愛情と慈しみがあふれている。
ジニーの母親の人となりがよく表現されていた。
同時に、ダレンの妻に対する深い愛情を感じ、リリーは感動してしまった。
「本当に素敵な絵だわ」
「でも、お父様は最近もっぱら風景画ばかり描くんですよ」
「まあ、そうなんですか?もったいない」
「いや、その……」
「お母様が亡くなってから、人物画は描かなくなったのよね?」
「じ、ジニー」
「だって、本当のことでしょう?」
それは残念だなと思うと同時に、ダレンが人物画を描かなくなった理由を察してしまったリリーは、意図的に話を変えた。
ダレンが困ったように、こちらを見たからだ。
彼にも、触れてほしくない部分があるのは当然のことだった。
「ところで、この風景画も子爵がお描きになったのではありませんか?」
リリーは、一枚の風景画を指差しながら、ダレンに尋ねた。
彼は、どこか安堵した様子で、その問いに答える。
「ええ、その通りです」
「やっぱり。そうだと思いましたわ」
リリーは、風景画を見つめながら頷いた。
柔らかい木漏れ日を、明るく瑞々しいライトグリーンで描いた、目に鮮やかな絵である。
その爽やかで、あたたかい雰囲気が、リリーはとても気に入った。
きっと、これはダレンの屋敷の庭先を描いたものだろう。
ジニーと二人でよく座るカウチが小さく描かれているので、間違いないはずだ。
「ということは、このカウチの近くに描かれているのはジニーですか?」
小さすぎて、よく見えないが、赤色で塗られているので、おそらくジニーだろうと思われた。
ダレンも否定はしなかった。
「あら?じゃあ、この隣の茶色いのは……」
なんですか?
そう尋ねようとして振り返った時、ダレンの焦ったような視線とかち合った。
なにかまずいことを言っただろうかと、リリーが思案していると、口を覆うように手を当てたダレンが、小さく呟いた。
「……あなたです」
「え?」
「そこに描かれているのは、レディ・リリー。あなたです」
意外なことを言われ、リリーは何度も瞬きして、ダレンを仰ぎ見た。
「申し訳ない。勝手に描いてしまって……」
「い、いえ。それは構わないのですが」
きっとダレンは、ジニーを描くついでに、風景のひとつとしてリリーも描いただけだろう。
だが、リリーが気になったのは、そこではなかった。
ダレンは妻亡き後、風景画しか描かなくなったのではなかったか。
それが、人物画とまではいかないにしても、ジニーや赤の他人であるリリーでさえ描いたことに意味があるような気がしたのだ。
ーーー子爵も、奥様の死をのり越えようとなさっているのかしら。
ダレンの妻が亡くなったのは、約十年前だ。
彼ほどの男性でさえ、最愛の人の死は引きずるものなのかもしれない。
十年という長い時をかけてなお、まだ悲しみをのり越えられていないのだとしたら、それはきっと妻に対する愛ゆえだ。
ダレンは、深く、とても深く、亡き妻を愛している。
だからこそ、時間だけでは解決できないこともあるのだろう。
そこで、ふとリリーは思った。
愛が深ければ深いほど、死をのり越えるのが難しいのだとしたら、サイラスは一体どうなるのか、と。
彼のヴェロニカに対する愛は、きっと海よりも深く、嵐よりも激しかった。
ダレンには、愛する娘のジニーがいてくれた。
そのダレンでさえ、悲しみを癒すのに十年かかるのだとしたら、サイラスは……。
「レディ・リリー?」
もの思いにふけっていたリリーは、心配するようなダレンの声音に、ハッとして、思考を現実に引き戻した。
「どうかされたのか?」
「い、いえ。申し訳ありません。少し考えごとをしていただけなんです」
「もしかして、体が冷えてきたんじゃないですか?どうしよう、わたしを雨からかばったせいだわ。すぐに屋敷に戻りましょう」
オロオロと、こちらを伺うジニーに、リリーは安心させるように微笑んだ。
「大丈夫よ。本当に寒いわけじゃないの」
「だが、確かにジニーの言うとおり、一度屋敷に戻った方がいい。ほら、ちょうど雨もあがったようだから」
リリーは、言われてはじめて、外の天気の変化に気がついた。
見れば、突然の豪雨はなりを潜め、太陽が顔を覗かせている。
雨はあがり、空には美しい虹がでていたけれど、リリーの心はどこか晴れなかった。




