28
「どうして来たのですか」
その日、サイラスが滞在する屋敷に顔を見せた義母のマリーは、開口一番、リリーにそう言った。
サイラス同様、マリーもまた、リリーの訪問を快く思っていないようだった。
当然である。
あの日、屋敷を追い出されてからというもの、マリーとの関係は険悪なままだった。
勘違いであるとはいえ、彼女の誤解を解かぬ以上、リリーへの不信感は拭えない。
ただ、リリーにとって、それは予想の範疇だった。
リリーが驚いたのは、マリーが三ヶ月経ってなお、この地に留まり続けていることだった。
無表情でわかりにくいが、マリーはおそらくサイラスのことを心配しているのではないか。
もし、マリーがサイラスのことを大切に思っていなければ、とうにサイラスなど見捨てるか、強引に彼を連れて帰るだろうからだ。
やはり悲しみの淵にいる息子を突き放すような母親ではなかった、と。
リリーは、そう考えた。
だが……。
「サイラス、とにかく帰りますよ。いつまでも、こんなところにいてはいけません」
「………」
「サイラス、なんですか、この部屋は。もうこの世にいない人の私物を、こんな場所に保管したところで意味はありませんよ。さっさと捨てなさい」
「………」
「サイラス、どうしてわからないのですか。彼女とのことは、一時の気の迷いだったのです。忘れなさい」
「………」
マリーは、よくもまあ飽きないなというくらい、毎日毎日、サイラスと顔を合わせては、そう言い続けている。
そのたびに、リリーは間に入って、マリーの苦言の矛先をさりげなく自分に向けさせるのだが、サイラスは、そのことに気づいているのかいないのか、いつの間にやら、その場からいなくなっている。
リリーは、もちろん、それでいいと思った。
そのために、リリーは隣国までやって来たのだから。
だから、リリーは率先して、その嫌な役を引き受けた。
少しでも、サイラスにヴェロニカの死を受け止めるための時間を与えたかったのだ。
同時に、マリーの真意をはかる目的もあった。
だが、そちらの方は、かなり難航している。
マリーが不器用ながらも、サイラスのことを心配しているのは明らかだった。
彼女は毎日、甲斐甲斐しく、サイラスの身の回りの世話を、使用人に指示しているからだ。
サイラスの食事に気を配り、ゆっくり休めるよう環境を整える。
ただ彼を連れ帰りたいだけなら、そこまで配慮する必要はない。
だからこそ、どうしてマリーがサイラスに対して、毎日、口煩くするのか解せなかった。
当然、マリーはリリーに対して、その胸の内を語らず、なんともすっきりしない日々を、リリーは送っていた。
一ヶ月経った頃には、サイラスの心中は、怒りの段階を経て、虚無の状態になった。
死を受け入れる心の段階としては、いい変化である。
そんなサイラスに、リリーは体を動かすことを勧めた。
単純作業である力仕事がいいだろうと判断し、リリーはサイラスに農作業をさせた。
今まで、そんな肉体労働とは無縁のサイラスである。
使用人たちは、サイラスが屈辱のあまり、リリーを殺すのではないかと恐れたようだが、結果は正反対。
リリーの目論見通り、サイラスは黙々と体を動かし続けた。
有り余った怒りや悲しみの発散につながったのと、ほどよい疲労感による睡眠が功をそうしたらしい。
サイラスは、率先して、労働に精を出した。
マリーが、サイラスの好きにさせてくれたのも大きかっただろう。
おかげで、サイラスは表面上、落ち着きを取り戻していった。
そんな状態がさらに一ヶ月ほど続いた頃。
とうとう事件は起きた。
リリーは、その日、天気がいいので、メイドの一人にサイラスの衣服の洗濯を頼んだ。
マリーではないが、最近、サイラスが身にまとうものには、特に気を配っている。
柔らかく手洗いし、太陽の光で、ふっくら干すのだ。
リリーの時もそうだったが、大事な人が亡くなって悲しみにくれた時、ふと洗い立ての洗濯物の匂いや柔らかさに、気が休まることがあったからだ。
ちょっとした気遣いだったけれど、少しでもサイラスのためになればいいという配慮だった。
そんな折、洗濯を頼まれたメイドは、サイラスの衣服の中に、女物のハンカチが紛れ込んでいることに気づいた。
上等な品だったので、メイドはマリーかリリーの私物だと思ったらしい。
真っ先に、マリーに手渡した。
そして、マリーはハンカチを受け取るや、顔色を変えて、その場で破り捨てたという。
対応に困ったメイドが、リリーに助けを求めて発覚した経緯だった。
ーーーレディ・ヴェロニカのものだわ。
破られたハンカチを見たリリーには、すぐにわかった。
それは、リリーのものではなかったし、破り捨てたならば、もちろんマリーのものでもないだろう。
かつ、薄い紫色の上品な女物のハンカチとくれば、導き出される答えは一つである。
これは、ヴェロニカのハンカチだった。
彼女の私物は、ほとんど夫であるシドニー公爵が引き取ったと聞いている。
このハンカチは、サイラスの手元に残る数少ない遺品の一つなのだろう。
大切にしているに違いない。
マリーに何度言われても、絶対にヴェロニカの私物を捨てようとしないサイラスのことだ。
間違いないだろう。
ーーーそれを、どうしてお義母様は……。
しばし思案する。
当然、答えは見つからないだろう。
真実は、マリーのみが知ることだ。
そう思っていた。
しかし、リリーは、気づいてしまった。
破られていてもはっきりとわかる、ヴェロニカのハンカチに刻まれた、その凝った刺繍に。
「これは……シドニー公爵の名前?」
サッとリリーの頭の中を、嫌な考えがかすめる。
その真偽を確かめようと、リリーはサイラスに黙ってヴェロニカの遺品を保管している部屋に入った。
マリーが早く片付けるよう、再三にわたり言い続けていた、あの一室である。
リリーは、しばらく周囲を見渡した。
目に付いたものを、手にとって改める。
そして、リリーは驚愕した。
「そんな、これは……」
たまたま手にしたのは、ペンダントだった。
それを矯めつ眇めつして、リリーはあることに気づいたのだ。
ペンダントには繊細な仕掛けが施されていた。
表面のサファイアをスライドさせると、下から愛のことばとともに、シドニー公爵夫妻の姿絵が見えるようになっていたのだ。
なぜか、スライド下のへこみ部分に、ブルーベリーの実らしきものが入っていたのには首を傾げたが、ヴェロニカは何度も何度も、その絵を眺めていたのだろう。
スライド部分は、だいぶ擦りへっていた。
リリーの背を嫌な汗が伝う。
ーーーハンカチの丁寧な刺繍は、決してただの妻の義務として施されるレベルのものじゃないわ。
それこそ、何ヶ月もかけて、緻密に精巧にあしらえたものだとわかる。
夫のために、労力を費やした結果だ。
それに、明らかに特注品だとわかるペンダントに刻まれた愛のことばと夫婦の姿絵。
それが示すのは、一つの真実だった。
もしかすると、ヴェロニカが愛していたのは、サイラスではなかったのではないか。
リリー同様、サイラスもまた、大切な人に裏切られていたのではないか。
「彼女が本当に愛していたのは……」
サイラスではなく、夫であるシドニー公爵だったのではないだろうか。
愛する人に、実は愛されていなかった。
それを知った時の悲しみや絶望をまざまざと思い出し、リリーは青ざめた。
ーーーダメ。サイラスに知られては。今の彼には、きっと耐えられないわ。
今ならわかる。
どうして、マリーがハンカチを破り捨てたり、サイラスを軟禁してまで、ヴェロニカから遠ざけようとしたのか。
すべては、サイラスのためなのだ。
彼が真実を知って、傷つかないように。
やはり、マリーはサイラスのことを大切に思っていたのだ。
リリーは、ここに来る前に聞かされたマリーの仕打ちに対して、内心で腹を立てていた頃の自分を思い出し、自己嫌悪に陥った。
自分の浅慮な考えを、急に恥ずかしく思ったのだ。
リリーは、その思いを振り払うように、顔を上げた。
今は、とにかくこのハンカチをどうするかが先決だった。
内省は、あとですればいい。
リリーのとった行動は、素早かった。
亡きヴェロニカに申し訳なく思いつつも、リリーはさらにハンカチを破ったのだ。
刺繍の部分を特に念入りに。
近くに控えていたメイドは困惑気味だったが、なにも見なかったことにしてほしいと言い含めて、仕事に戻らせた。
件のペンダントは、さすがに高価過ぎて捨てるわけにいかず、とりあえずの処置として、リリーの旅行鞄に入れた。
あとで、リリーの名で、シドニー公爵の元に届けさせるつもりだった。
差出人を、サイラスにするのは、さすがに憚られたからだ。
その後、リリーは念入りに部屋の中を確認し、他にまずいものがないか確認してから、部屋を後にした。
背で扉を閉めながら、細切れになったハンカチの残骸を握りしめたリリーは思った。
もし、サイラスが真実を知った時、彼の心もまた、このハンカチのように散り散りに引き裂かれるのかもしれない、と。
結局、マリーにそのあたりのことを確認する時間はなかった。
マクファーレン家の領地で、不幸な事故があったからだ。
長年、上役として頼りにしていた領民の一人が亡くなったので、急遽、マリーが葬儀にでることになったのである。
普通、わざわざ一領民の葬儀に参列する領主は少ないのだが、マクファーレン家では代々、領民を大切にする風習があった。
平時であれば、サイラスが対応する。
だが、今の彼にそれは望めなかった。
というわけで、必然的にマリーが葬儀を含めた諸々の対応をするために、出向かざるを得なくなったのである。
おかげで、リリーが気づいたマリーの本心に対する真偽は、わからずじまいになってしまったけれど。
むしろ、今はそれでよかったと、リリーは思っている。
とりあえず、サイラスがヴェロニカの死とじっくり向き合える時間が確保できたからだ。
サイラスも少しずつではあるが、落ちついてきている。
将来的にヴェロニカのことを伝えるかどうかは、彼が真相を受け止められるくらい冷静になってから決めればよかった。
そう思っていた。
楽観的に考えていたのだ。
数日後、サイラスがハンカチの件を知るまでは。
「どういうことなんだ!ヴェロニカのハンカチが破れたというのは本当なのか!」
サイラスに呼ばれ、リリーが部屋に入るやいなや、彼はそう叫んだ。
どうやら、口止めしたメイドが喋ってしまったらしい。
仕方なく、サイラスには洗濯中にリリーの不注意でハンカチを破ってしまったのだとだけ伝えた。
当然、サイラスは怒り狂った。
大切にしていたヴェロニカの私物なのだから、当たり前の反応である。
最近、ようやく落ち着きを取り戻しつつあったサイラスだが、再び、手がつけられないほどの状態に戻ってしまったので、リリーはひどく残念に思った。
「サイラス、本当にごめ……」
「黙れ!」
その時、初めてリリーはサイラスに殴られた。
正確には、サイラスの手がたまたま鼻と頬に当たっただけなのだが、小柄なリリーは吹っ飛び、その場に伏して鼻血を出した。
「奥様!」
さすがに、まずいと判断した従者が間に入り、数人がかりで両脇を固め、サイラスの動きを封じる。
おかげで、その場はなんとかなったものの、その時のサイラスは手負いの獣そのものだった。
「絶対に許さない!」
そう言ったサイラスの瞳には、間違いなく怨嗟の炎が灯っていた。
いまだかつて、これほど深く、悪意のこもった感情を真正面から直にぶつけられた経験など、ない。
リリーは、恐怖した。
妻の務めとして、こんな時こそ夫を支えなければならないと頭ではわかっていたが、体が自然と震えて、思うように動かなかった。
「さ、サイラス……」
瞳が霞んで、サイラスの表情はよく見えなかったけれど、リリーはすがるように、彼を見つめた。
だが、サイラスから返ってきた応えは、ひどく残酷なものだった。
「これ以上、わたしの名を呼ぶな!」
「!」
「間違いだった、お前とのすべてが!結婚など、しなければよかった!」
叩きつけるようなサイラスの悲痛の叫びを、リリーは頬の痛みも忘れて、ただ聞いていた。
それしか、今のリリーにできることはなかった。
ーーー大丈夫、大丈夫よ。まだ、頑張れるわ。大丈夫……。
本当に?
ふと、 リリーの心の中で、そう呟く自分がいたが、リリーは気づかぬふりをした。
その後、サイラスの怒りは収まることなく、何日も続いた。
リリーへの暴言は、日増しにひどくなっていく。
平時なら決して、女性にそんな乱暴なことばをはくことのないサイラスだが、今の彼はタガが外れた状態で、手がつけられなかった。
それでも、リリーはなんとか耐え続けた。
サイラスが冷静になるまで、ただただ毎日をしのぐ。
そんな日々に終止符をうったのは、サイラスの従者だった。
言いにくそうに、だが、決意の眼差しで、従者は言った。
リリーが傍にいる限り、サイラスの精神状態は悪化し続けるだけだ、と。
それは、皮肉でもなんでもなく、間違いなく、真実そのものだった。
これ以上は、ただサイラスを苦しめるだけだと、誰だって理解していた。
それでも傍にいたいと思うのは、リリーの我儘だろう。
だから、リリーは黙って頷いた。
明らかに胸をなでおろす従者の表情を、リリーは虚しく見つめていた。
こうして、従者に諭される形で、リリーは帰国を余儀なくされた。
何人か使用人を残し、彼らにサイラスの世話を頼む以外、もはや、リリーがここでできることはなかった。
その、なんと情けなく惨めなことか。
リリーは、肩を落としながらも、帰国後、妻としてできることを探した。
その一つが、サイラスに手紙を書くことだった。
サイラスには、すべて未開封で送り返されてしまったけれど、それが生きている証拠だと思えば、悲しくはない。
結局、リリーはサイラスが帰国するまでの五年間、一ヶ月置きに手紙を送り続けた。
もちろん、一度も返事はなかったけれど、構わない。
サイラスのために、できることは、もう一つだけあった。
主人不在の屋敷を、立派に執り仕切ることだ。
もちろん、屋敷には頼りになるエルバートたちがいるし、リリーはマリーに追い出されているので、そう頻繁に顔を出すことはなかった。
しかし、必ず月に一度は屋敷に出向き、使用人たちと話して、気になった事柄の改善を行い、屋敷の維持に貢献した。
仕事を探し始めたのは、そんな時だ。
金銭的に自立しなければならないと思った。
あの様子では、妻とはいえ、サイラスのお金を使うことは憚られたし、そもそも屋敷からは追い出されている。
実家の問題も、相変わらずとくれば、これからは一人で生きていく手段を模索しなければならなかった。
ーーー間違いだった、お前とのすべてが!結婚など、しなければよかった!
あの時のことばは、サイラスの本心に違いなかった。
すべて否定されたのだ。
今までの結婚生活すべてを。
リリーの存在そのものを。
サイラスに離縁されるのも、そう遠い未来ではない。
そう察せられることばだった。
マリーにも嫌われているので、この結婚生活に終止符がうたれるのは、ほぼ間違いないだろう。
リリーは、あの時、サイラスが見せた射抜き殺さんばかりの鋭い視線を思い出し、自然、俯いた。
サイラスは悪くない。
リリーが勝手にしたことだからだ。
きっと、彼は一生リリーを許さず、憎み続けることだろう。
それは、もちろん、非常に悲しいことではあるのだが、サイラスが真相に気づく以上に、残酷なことはない。
それが回避されただけでも、よしとしよう。
それが、リリーにとっての唯一の救いだった。