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帰ってきた夫  作者: 西子
29/126

25

リリーの旅は、約三ヶ月にも及んだ。

実家が遠方にあり、馬車での旅に慣れているはずのリリーでさえ、体に堪える長旅となった。

移動距離もさることながら、早く到着することを優先したため、快適さとは無縁だったのだ。

そのスピードゆえに、馬車内の振動は大きく、体の芯まで響くような不快な揺れが三ヶ月も続くとなると、さすがのリリーも弱音を吐きそうになった。

実際、メイド頭のアンは、途中で脱落している。

それほどまでの強行軍だった。

並みの女性では、耐えられないほどの過酷な旅である。

それをおしてなお、リリーは隣国へと渡った。

大事な人を喪う悲しみの重さを、リリーは誰よりも理解していたからだ。

サイラスに、してあげられることはないかもしれない。

けれど、故郷から遠く離れた土地で、ひとり悲しみにくれるのは、あまりに可哀想でならなかった。

サイラスに、嫌われていることはわかっていたが、傍にいてあげたい。

もし、まだ母親のマリーが傍にいて、彼を責めているのであれば、その盾になってあげたかった。

リリーは、そう思っていた。

リリーだけが、そう思っていたのだ。

それは一方通行で、押しつけの善意でしかなかったけれど。

リリーは、そうするのが妻としての務めだと思っていた。





その日は、ひどく寒い日だった。

腕をさすりながら、リリーは、ようやくサイラスが滞在する屋敷に到着したことに、安堵していた。

あの船酔いのような不快な揺れとも、これで袂をわかつことができる。

リリーは、そっと玄関の扉を開けた。

やけに立派な屋敷だなと思いながら。

最初、サイラスは宿屋の一室を間借りしていたのだが、予想に反して、長期滞在となったので、とある屋敷を借り受けたらしい。

それを聞いた時は驚いたが、今のサイラスには、ちょうどいいかもしれないと思った。

傷心を癒すには、間借りの宿では落ち着かないだろう。

そう思いながら、リリーは屋敷の中へと足を踏み入れた。

その途端、ひんやりとした空気が、体に絡みつく。

室内にも関わらず、戸外のような冷気を感じた。

ブルリと震えがはしる。

リリーは外套を脱がずに、そのまま階段をあがっていった。

すると、どうだろう。

サイラスの従者が廊下で、所在なさげに立っているのが見えるではないか。

そこは、廊下奥の一室の扉の前だった。


ーーーここだわ。ここにサイラスがいる。


そう直感し、リリーは従者が止める間もなく、その扉を開けた。

室内は昼間にしては薄暗く、やけに寒々としていた。


「サイラス?」


恐る恐る、声をかける。

かすかに人の動く気配を感じたリリーは、目を凝らして、室内を見やった。

その時、目にしたサイラスの様子に、衝撃を受ける。

サイラスは、ひどい有様だった。

げっそり落ち窪んだ頬。

不健康に青ざめた肌。

その瞳は翳り、もう何日も食事をとっていないくらい彼の体躯は痩せ細っていた。

そのすべてに、リリーは悲しくなった。


リリーは、大きく息を吐き出すと、気を取り直すように、もう一度、呼びかけた。

今度は、意識してはっきりと声を出す。


「サイラス」


次の瞬間、サイラスは弾かれたように反応した。

あっという間に、間合いを詰めると、いきなりリリーの肩を掴んだ。


「ヴェロニカ!?」

「……違うわ、わたしよ。リリーよ」

「………」


一瞬、サイラスは意味がわからないようだった。


「リリー……」


サイラスはことばを咀嚼するように呟き、リリーの顔をしばし見つめた。

ややあって、サイラスは、視線を外す。

明らかに、失望の色が伺えた。


「……君か。どうして来たんだ」

「それは……」

「君には会いたくなかった。今はまだ……」

「サイラス……」

「どうか帰ってくれ」


力ない声音に、リリーはグッと胸をつまらせた。

あのサイラスが、ここまで弱りきっている。

死んでいないのが不思議なくらいだ。

それほどまで、ヴェロニカへの愛は真剣だったのだ。

それが痛いほどわかるから、リリーはいたたまれなくなって俯いた。


「サイラス、可哀想に……」

「……君に、なにがわかる」

「わかるわ。だって……」

「うるさい!」


急に声を荒げたサイラスに、リリーは肩を揺らした。


「ご、ごめんなさい。わたしは、ただ……」

「うるさいと言っているだろう!君に、わたしの気持ちのなにがわかるんだ!知った風な顔をしないでくれ!」

「サイラス……」

「君の顔は見たくない!わたしの前から、さっさと消えてくれ!」


そのことばとともに、パリンとガラスが割れる音が響いた。

サイラスが窓ガラスを手で叩き割ったのだ。

彼の手から滴る鮮血が、絨毯を染め上げる。

その光景に、ジェイソンが死んだ時のことが重なって、リリーは身震いした。


「サイラス、せめて手の治療だけでもさせて」

「うるさい!わたしに触れるな!」


サイラスは遠慮しなかった。

激情のまま、リリーに罵詈雑言をまくしたてる。

育ちのいい彼にしては、驚くくらい、汚いことばの羅列だった。

時には、その辺りにある家具を壊すこともあったが、リリーは辛抱強く耐えた。


ーーー大丈夫。大丈夫よ、リリー。サイラスは今、悲しみのあまり平常心を失っているだけ。こんな時こそ、彼を支えてあげないと……。


言い聞かせるように、そう内心で呟く。


サイラスのあの猛々しい感情を、リリーは知っていた。

絶望と怒り。

悲しみと虚無。

それは、リリーにも覚えのある感情だった。


サイラスの心中を思って、リリーはただ泣きたくなった。

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